あたたかなお湯と少し固い指が私の髪をすりぬける。
小さなポンプを押すような音がしたあと、彼の指が私の頭に触れる。
頭皮をいたわりながら、マッサージするように髪を洗われると、シャンプーのいい香りがふわりと漂った。
「痒いところはない?」
「ない〜」
知り合いが務めているヘアサロンは毎日予約でいっぱいの人気店で、そして彼はヘアサロンの店長代理でもある。
ようするに、彼はかなりの腕前だということで。
そのため、普通に予約しても最低3日待ちなのに、彼は残業してまで私のヘアカットを引き受けてくれる。ありがたいことだ。
「相変わらず綺麗な黒髪してますね〜。お客さん」
「冗談言わないでよ……。あんた何人そうやって女の子を虜にしたの?」
「…ははっ。秘密」
シャンプー中だから見えないけれど、彼の笑う顔がまぶたの裏に浮かんだ。
「本当にからかわないでよ……。全く」
私は少しため息をついた。まだ彼は笑っているらしく、小さな笑い声が聞こえた。
「流しますよ〜」
泡が流れていく感覚に目を細める。
彼は、普段はシャンプーを担当せずに他の人にまかせている。ということは、彼がシャンプーをするのは私だけということで。
「なんかもったいない気がする」
「何が? 」
「……ん? いや、何でもない」
「ふーん。……あげますよ〜」
シャンプーの椅子を上げて顔の上にのった紙を取り除くといつものような彼がいた。
少し薄暗い美容院には彼と私しかいない。
「あのさぁ、何が勿体ないの? 気になるじゃん」
私の髪をタオルでふいて私の手をとり、近くの鏡の前に座らせると彼は言った。
鏡越しの彼の視線に私は少し観念した。
「あんたのシャンプーをしてもらえるのが私だけなのが勿体ないって思ったの」
「そんなに気持ちよかったの?」
「まあね。……って何その顔。熱でもあるんじゃない?」
鏡の中の彼は真っ赤な顔をしてドライヤーを持ったまま固まっていた。このまま涙を流しかねない勢いだ。
「いやさ、君にそんなこと言われるなんて思ってなくて」
確かに、普段私はそんなに口は良くないが、彼に辛く当たった記憶もない。
少し黙っていると、落ち着いたのか彼はドライヤーで私の髪を乾かし始めた。
シャンプーのいい香りがまたあたりに漂う。
「……なんか、いい匂い」
彼は私の髪を少し掬って匂いを嗅ぐように顔に近づけた。
「やめてよ。そもそもあんたの美容院のシャンプーの香りだよね、これ」
「んー。シャンプーさっき変えたの。 やっぱりいい匂いだ、俺のシャンプー」
「……は?」
ドライヤーで乾かす手を止めずに彼はあっけらかんと言い放った。
「これ、うちからもってきたシャンプーなんだ」
「え、なにちょっとあんた馬鹿?」
さすがに彼と付き合いの長い私でもこの行為は意味がわからなかった。
「馬鹿じゃないよ。そもそも残業でやってんだからさ、美容院の備品をあんまり減らしちゃあまずいでしょ」
「……そんなの私に頼めばいいじゃん。なんで自分の持ってきたの」
「そうしたら俺と同じ匂いになって良いかなって思ったから」
「それ危ない発想だから」
「仕方ないじゃん好きなんだしさ」
さらりと意味不明なことを言われたが、私はスルーした。
何回この手の冗談を
「とにかく今度からやめてよ? あと、好きとか冗談でも言わないようにしないと殴る」
「やめて」
笑いながら彼は私の髪をブローし続ける。
「……はい、できた」
彼の言葉にまた鏡を見ると、別人のようになった私がそこには座っていた。
「ん、ありがとう」
「いえいえ。……本当綺麗だよね」
「しつこい」
私は立ち上がると、私の黒髪をうっとりと見つめる彼の肩を小突いた。
手際よく箒をもってきて掃く彼に、私は笑いかける。
「今日このあと飲みに行く?」
「え、ああ……うちで酒盛りしてもいいけど」
「あんたの家行ったら襲われそうで怖いからイヤ」
苦笑いする彼に私はまた笑った。
――今のままの関係でずっといたい。
そんな気持ちを抱きながら。
God bless you!様に提出。
(微熱/「なんかいい匂い」)
報われそうで報われない。
救おうともしない、この恋を。