「彼女の記憶は、消去されたよ」

 後ろから聞こえる声。だけど私は振り返らない。


「なんで何も言わないの? ねえ、君は彼女に言わなくちゃいけないことがあるんじゃないの」

 私に問い掛ける声は震えていた。

 ……この寒さじゃ、仕方がないだろう。今日の気温は1度というはなしだった。

 私は冷たい無機質なベンチの感触を確かめると、立ち上がった。

「あなたに話すことはありません。それは、彼女と私の話です」

 首に触った指が冷たかった。私は何時間こうしていたのだろうか。
 首についた跡をなぞる。跡だけはまだ少し熱い気がした。





『デリートしようよ』

 悪魔のような彼女の囁きに何故私はこたえてしまったのかわからない。

 むしろ、それを言ったのが彼女でなかったなら私はきっとこたえなかったろう。

 彼女は、生まれついての天才だった。
 私に出会った時、彼女は天才であるが故に心を閉ざしていた。

 無表情な研究者。何かを成功させるためなら手段を選ばない彼女は、妬み、憎悪を一身に受けていた。

 私はいわば彼女の世話役であり、何もないただの秘書だった。

 彼女が私だけに心を開いてくれたのは多分偶然であろう。

けれど、私は「天才」が自分を見てくれたという事実だけに有頂天になっていた。



 彼女はそれをわかっていた。

 「天才」は全てを見透かしていた。

 「天才」だからこそ心を閉ざしてしまった彼女のことなど私はこれっぽっちも考えていなかった。


 彼女は、私に 依存していた。

 私はそれをわかっていながら見て見ぬ振りをした。

なぜなら、私はそれを利用して私の虚栄心を埋めることしか考えていなかったのだから。


 結果、彼女と私の関係は歪んでしまった。


 ある日その歪んだ関係を清算しようと彼女は言った。

 ただの「自分」のことを見てほしかったのだろうか。

 私が彼女に逆らえないということをしっていたのだろうか。

 だから彼女は私に「デリート」しようと言った。


 方法なんて簡単だった。彼女の作った薬を飲めはいい。そうすれば、世界が変わる。

 私は飲んだ。だけど、効かなかった。
 彼女も飲んだ。彼女には効いた。

 ただ、それだけの話だ。



「私には彼女に言うべきことはないよ。……君みたいな医者に何かを指図される筋合いはない」

「……結局君は自分の正体を明かさないの」

「天才のあなたがモルモットとして使った人間のうちの一人だなんてだれが言える?」

 私は、あの薬を前にのんだことがあった。

 記憶を無くして路頭に迷った私を救ったのはある医者で、医者を介して私は彼女とであった。

 だから私は彼女の近くにずっといた。何も知らずに・・・。


 だけど、あの薬ですべてを思い出した。未完成品だったあの薬を飲んで。

 彼女はすべてを忘れて、いまは天才でも何もないただの赤ん坊同然の人間だ。

「私は、彼女に言うことはない。あの子のことをうらんでもいない」

 後ろに立っている人間に語りかける。

「なんで? 君は彼女にすべてをうばわれたろう?」

「あなたはそれが目的だったみたいですけど、私はざんねんながら彼女に言うことはないのです」

 記憶がなかった間、ずっと私は彼女に守られていたのだから…。


「だから、私は、すべてを彼女が思いだすまで消える。 …それまでは、すべてを休止します」

 呆然とする医者の前を私は通り過ぎ、さくさくと降りつむ雪の上を歩く。

 雪がすべてを消してなくしてしまうように願いながら。






お題「Generalpause」
@garanbot (伽藍お題bot) からもらったお題で書きました。