▼柵に囚われて(前編)



一晩泣いた目は酷くて…
出社前にアイスノンで必死に冷やして腫れぼったいけどなんとか見れるまでにはなった。
でも、気持ちはどんよりと重くその足取りも今の心境のように重かった。
別れ話をしようと決意したのに、流されて身体を重ねてしまった。
嫌じゃない…嫌じゃなかったんだ。
まだ好きだから…優しく触れてくれる歳三さんの温もりを感じて嬉しくて、すごく…幸せなの。

先程の腕を組み薄く笑った奥さんの顔が頭から離れない。
どんなに好きでもあの人には勝てないんだ…

自分のデスクに座り手で顔を覆った私に切羽詰まった声が聞こえて手を退けた。

「大丈夫っ?!」

『う、うん。大丈夫だよ』

手を退けると、心配の色を滲ませた千が覗き込んでいて慌てて笑顔を張り付けた。
これ以上心配を掛けたくなくて、精一杯明るい声で答えると辛そうに可愛い顔をくしゃりと顰めた。
こんな顔をさせているのは自分だと思うと悲しくなる。
昼休みに入った秘書室には、ちょうど誰も居なくて油断してしまった。
千は外回りの山南さんに付いて行ったからまさかこのタイミングで帰ってくるとは思っていなかったし…

「来てたんでしょ?…奥さん。さっき副社長室から出て行くの見たよ」

『…うん』

声を潜めて隣のデスクの椅子へと腰を落とした。
姉御肌の千は、途中から入った私に親切に色々教えてくれて、何時しか何でも話せる親友になっていた。
歳三さんがまだ独身だった頃、内緒で付き合っていた私たちを鋭い彼女は見事に見抜いてそれ以来相談に乗って貰っていたのだ。
だから、今の私たちの関係も知っている。

『奥さん絶対私たちの関係に気づいてる…』

「…どうするの?このまま続けるの?」

『お互いに愛がないとは言っても、間違っているのは私たちの関係だもん…終わりにしなくちゃ』

「…そう」

複雑そうに私を見ると、持ってきた書類に目を落とした。
辛くなるだけだから、引き返せるうち引き返せと散々言われてきたんだ。
彼女の忠告を聞かなかった私は、引き返すにはあまりに辛いところまで来てしまっていた。
小さく吐き出した溜め息は、肺から出た後に、痛いぐらいに内側をギュッと締め付ける。
激痛と言っても良いほどに……


就業時間を大分過ぎ、帰っていく秘書課の同僚の背を見ながら隣の千がイスから立ち上がった気配に手を止めた。

「なまえ、まだ帰らないの?」

『うん、あと少しやってから帰るよ』

「最近残業ばかりじゃない」

訝しげな顔で見下ろしてきた千になるべく悟られないように笑顔を張り付ける。
鋭い彼女にバレてしまっては、困るんだ。

『うーん、なんだか集中できなくて。ほら、彼とデートなんでしょ行った行った』

お尻をポンと叩いて手を振っると"わかってるわよ。お先に"と手を降り返し出ていく千を確認して、パソコンに向き合う。
カチカチカチとキーボードを弾く音だけがする空間。
今日で仕上げられる…
あと少し…あと少しだ。

『でき…ちゃった』

節電で私の上の蛍光灯だけを付けた部屋で私の小さな声だけが響いた。
印刷したものを束ねてデスクの二番目にしまった。
一番上の茶封筒に"退職届"と書いたものを見つめて、ゆっくり引き出しを閉まった…

『あっ、早くしなくちゃっ!』

時計の針は7時半お差していて…
21時には、トラックが来てしまうと慌てて帰り支度をし始めた私の胸のうちは晴れることが出来るのだろうか…

明るい未来を歩むため…
歳三さんにも、光を見てほしいから…

私は前に進む。



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