▼柵に囚われて(前編)



俺だってこんな未来は望んじゃいなかった…

五年前、秘書枠で入社してきたなまえ。
俺付きの秘書は大抵怒鳴り散らす毎日に耐えられねぇと辞めちまう。
怒鳴られるようなミスするから悪いんだが早々辞められるのも引き継ぎなど面倒だ。
だからといって、俺の性格を変えられるわけでもねぇ。
今回の秘書もすぐ辞めると思っていたんだ。
初めは、緊張してなのか目立っていたミスに怒鳴り散らしたがそれでも歯を喰いしばり”すみません”と言って業務をこなしていく、非常に辛抱強い骨のあるヤツだった。
俺の前では緊張して引きつる顔が…秘書達と話しているあいつの綻ぶように笑った顔を初めて見たとき、あぁ…こいつを自分のものにしたいと強く思っちまったんだ。
あの時から俺の心に居るのはなまえ一人。
目尻を下げ薄く色付く頬を緩ませて口を弧にするなまえの笑顔を見れるだけで幸せだった。
花が綻ぶように眩しく笑うあいつの笑顔を曇らせたものにしたのは俺だ…

仕事に集中出来ずに、書類片手にそんな事を考えているとノックする音。
なまえだろうか…なまえだったら嬉しいと返事をすると入ってきたヤツに眉を顰めた。

「あら、あからさまにそんな嫌な顔されたらショックだわ」

「ふんっ。思ってもねぇこと言ってんじゃねぇよ。それより何しに来た」

ソファーに深く座った妻に刺すような視線を向けるとバカにしたように鼻で笑った。
人を小馬鹿にするような態度を良くするこいつに些か我慢の限界だ。
愛もない、人間としても好きでもねぇやつとの生活など息が詰まる。
まぁ、俺ばかりがそう思ってるんじゃなく他に愛するヤツが居るこいつも同じだろう。

「たまには顔出さないと。夫婦円満をアピールってとこ?」

袋からサンドイッチを出して見せつけた。

「そりゃご苦労なこった」

視線を書類に戻すと、ノックする音に眉根を寄せた俺より先に返事をした妻を睨み付けた。
なまえだったら二人で居るところなど見られたくない。

『失礼します』

そう耳に届いた愛しい声に居心地が悪いと顔を顰めた。
部屋に入ってきたアイツの手には二個のコーヒーカップ…
俺の気に入りのマグカップじゃねぇんだ。
妻が来るときは決まって同じコーヒーカップで持ってくる。
来客が居るときは揃えたコーヒーカップは当たり前なんだが、妻だ。何時ものマグカップでいいじゃねぇか…
気にしすぎかもしれねぇが、まるで二人の邪魔はしませんと言われているみたいで居たたまれなくなる。
愛する女もろくに幸せに出来ねぇ現実が酷く俺を苦しめるんだ…

「いつも主人がお世話になって…有り難うね」

腕を組んでにこりと意地悪く笑う妻…
コーヒーカップを応接セットのテーブルへと置いていた手が止まりカチカチ言いながら辛うじて溢さず置いた。

『…いいえ。副社長の元で仕事が出来て幸せです』

「そう?この人厳しいでしょ?それともあなただけには優しい?」

「おいっ」と口にした俺に被るように『まだ業務があるので。ごゆっくりしていってください』と頭を下げて出ていった。
あいつの出ていった部屋には妻の笑う声…

「あははっ!聞いた?ごゆっくりですって。思ってもいないくせに」

「おい、余計なこと言うんじゃねぇ。あいつを傷つけたら許さねぇからな」

「ふんっ、からかっただけなのに。冗談も通じない人ね」

面白くないとばかりに睨んでサンドイッチを口に頬張った。
俺らは割りきっているが、なまえは違う。
社会的には不倫になる関係に思い悩んでいんだ。
最近、前にも増して辛そうにしてんのに気づいていながら何も、出来なかった自分を酷く後悔するのは、すぐのことだと言うことをこの時の俺は知る由も無かった…



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