short | ナノ


▼ デイリーライフ・レボリューション


背中に張り付くシャツが気持ち悪い。湿度ばかりが高い車内は、人の体温と呼気で生暖かく濁っている。

朝の満員電車の沈黙に、無言の苛立ちが伝播する。雨の日の電車通学はいつだって憂鬱だ。

こういう時バレーで役立つ長身は面倒の元になる。乗車する時はいかにも「デカいのが乗ってきた」と嫌な顔をされることもあるし、実際練習着だ何だを詰め込んだバッグは自分でさえ邪魔に思う。

ぐ、と強まる圧迫に抵抗し、しっかり肺を膨らませた。不意にポケットのスマホが短く震える。

「…?」

腕を折り曲げポケットに手を突っ込む。ラインの通知画面…多分部活だ。
返信は後でいいかと思ったその時、がたん、電車が大きく揺れた。

「っあ、」

体が傾く。重心が引っ張られ、あっという間にスマホが指先から滑り落ちた。
体勢を。思って何とか踏ん張るけれど、隣のサラリーマンに思い切り体重をかけてしまい、迷惑そうに睨まれる。

「すみません」

一応小さく謝れば、多分身長のせいだろう、それ以上のアクションは起こされなかった。急いで足元に視線を走らせる。
…今日は本当にツいてない。多分蹴られたんだろう、腕一本のリーチじゃ届かない先にスマホが落ちているのが見えた。

急ブレーキを謝罪するステレオタイプのアナウンスが、すし詰めの乗客の頭上を無気力に滑ってゆく。苛立ちを蓄えた空気がまた少し重さを増した。
けれど次の駅に着く前には拾わなければ、降りる人に踏まれてしまうかもしれない。
人の足の間に見え隠れするスマホを見て、今度こそ本当に溜め息をつき、

「すみません、」

沈殿する空気の上澄みに、若い女性の声が投げ込まれた。
小さな白い手が人の足の合間から伸びる。横の革靴が踏みつけてしまえばきっと一溜まりもない細い指先が、俺のスマホを拾い上げた。

あ、と声が漏れる。ちらりと見えたブレザーとスカートは梟谷のものだ。
視線を上げて頭上から探せば、人の海に溺れるように、黒髪の頭が浮き沈みしているのが見えた。

胸前で握られているスマホがやけに大きく見える。小さな手がブレザーの胸ポケットからハンカチを引っ張り出した。
手元が人影に遮られて見え隠れする。漸く見えたハンカチはそのまま、雨の日の汚れた床に落ちたスマホを丁寧に拭いていた。

「、」

思わぬ親切にまた驚く。小柄な彼女が顔を上げた。人の波に飲まれながら、濁った空気を払いのけるように、彼女はあちこちへ視線を泳がせる。こっちだ、こっち。

「!」

あ、見た。
ぱちん、噛み合う視線。大きな黒い瞳が俺を映して丸くなる。ぱ、と視線を移したスマホは、白い手に包まれたまま柔らかそうな胸元にぎゅっとうずもれていて、一瞬驚いて目を背けた。他意はない。ないけど、凝視するのが凄く失礼な気がしたから。

すぐに戻した目は再びぱちんと噛み合って、多分意図は伝わった。
小さな背丈は今にも呑み込まれてしまいそうだ。勝手にはらはらする俺をよそに、彼女はこちらを見て小さく、しかし確かにしっかりと頷いた。



プシュー、と音を立てて吐き出された人の波、案の定小さな彼女はすぐに見えなくなった。首を回せば、いた。見つけたが、完全に人波に飲み込まれて流されている。

「あ、の…!」

小柄な身体で必死にこちらへ来ようともがく胸元には、ハンカチにくるまれたままのスマホが大事そうに握られていた。
人波をすり抜け三歩で距離を詰める。なるべく力をかけずに支えられるよう、彼女の細い肩を引き寄せ、その薄さにびっくりした。少し力を込めれば呆気なく潰れてしまいそうだ。失礼ながら同じ人間とは思えない。

「こっちに、」

そのまま改札まで向かい、とりあえず駅を出る。人波を外れて日陰に入った。

「大丈夫ですか」
「っ…すみません、ありがとうございます」
「いえ、俺の方こそ」

いささかぐったりした彼女はやはり梟谷の制服に身を包んでいた。後輩だろうか、同級生だろうか。如何せん身長だけならたいていの男子を超えてしまう俺には、とりわけ女子になると学年を見分けるのに少し手間取ってしまう。

「これ、どうぞ」
「すみません、助かりました」
「いえ」

小さくて柔らかそうな手からスマホを受け取る。彼女の手の中にあるスマホは、普段手のひらに余るそれより一回り大きく見えた。落ち着いた様子からして一年生は見えない。

「あの…三年生ですか?」
「いえ、二年です。赤葦くんだよね」
「、…ごめん、どこかで会ったりしたかな」
「ううん、名前知ってるだけ。8組の名字名前です」

同い年なら校舎も同じはずなのだが、俺は彼女に見覚えがなかった。向こうは名前を覚えてくれていたのに、少し申し訳ない。とは言え初対面であることは間違いないんだろう、名字さんは少し緊張ぎみに笑った。

「さっきのハンカチ、汚れたんじゃ…」
「え?ああ、大したことないから気にしないで」
「でも、」
「名前、おはよー!」

角のない笑みで首を振った彼女に食い下がろうとするも、割って入った元気な声に俺は言葉を遮られてしまう。友人であろう女の子が駆けてくる姿が、俺に口を噤ませた。

「じゃあまた、赤葦くん」
「…うん、また」

8組の名字名前。身を翻して歩み去ってゆく彼女の後ろ姿と名前が一致するよう、俺は頭の中でもう一度繰り返した。

ごく小さなことには違いないし、過度に気を遣う必要はないだろう。とは言え受けた恩に鈍感であってはならない。
機会があれば何かお礼出来ればいいが。思いつつ、俺もまた爪先を学校へと向けた。








多分彼は少しも覚えていないのだろうけれど、私は彼と関わったわずか数秒をよく覚えている。

それは一年の秋頃、通勤ラッシュの人波に流され、やってきた列車に乗り損ねそうになった時のことだ。
その電車に乗らなければ遅刻するというその時、ホームへ駆け下りてきた私を見、まさに閉まろうとした電車のドアを腕で抑えて止めてくれたのが、他でもない赤葦くんだったのである。

彼の計らいのおかげで無事乗車した私は、一言お礼を言いたかったのだが、赤葦くんは一緒にいた男の子と会話を始めてしまっていた。
そうして次の駅で乗り込んできた人波に呑まれ、結局お礼を言い損ねてしまったのだ。

制服から同じ学校なのはわかっていたが、如何せん梟谷は規模の大きい学校だ。一学年のクラス数も多いし、とりわけ長身の赤葦くんは学年の判断も怪しかった。

移動教室や通学の合間になんとなく彼を探し、ついにその姿を見つけたのは一週間後のこと。
廊下ですれ違った彼を指さし、慌てて友人に尋ねれば、「え、赤葦じゃない?バレー部の」と告げられ、私は彼の名前、ついでに部活とクラスまで一気に知ることとなった。

当時からじわじわと女子の人気を集めていた彼に私が興味を示したことに、友人たちはこぞって食い付いた。だが私としては赤葦くんに一方的に恩義を感じて気になっていただけで、何も甘酸っぱい感情を抱いているわけじゃない。
それ以後も彼の話を耳にしたり、様々な機会に彼を見かけることもあったが、会話はおろか目が合うことも滅多になかった。

友人に話すとそれは恋じゃないかと騒がれるのだが、如何せん私の彼に対する好意はもっとこう漠然とした、「よく出来た良い人だなあ」という純粋な好ましさから来るようなものである。
そりゃもちろん評判になるほど良くできた男の子だ、積極的に関わる機会さえあれば恋愛的な意味で好きになる可能性は十分だろう。けれどイコール自分から近づき仲良くなりたいかと言えばそうじゃない。「彼氏が欲しい」が口癖の友人たちにとっては理解不能らしいが、素敵な人が見つかったからと言ってわざわざ近づいて好きになりにゆくという行動パターンは私には内蔵されていないのである。
そんなわけで私は彼に関して自発的に行動したこともなければ、この先彼と関わることもないだろうと思っていた。

だがあの雨の日の一件以来、彼は私を見つけると必ず小さく会釈してくれるようになった。
そもそも会話する仲でもないので立ち話なんて滅多になかったが、今や赤の他人でもない。会釈は小さな笑みに、無言のやり取りは簡単な挨拶に変わった。

不思議な縁もあるものだ。つい数週間前まで、彼と私は全くの他人だったはずなのに。
最近の私の心臓は、彼と一緒にいるとどうにもふわふわし始める。

「…名字さん?」
「、…え、赤葦くん?」

課題を片付けさあ帰ろうと赴いた駅のホーム、呼ばれた先を振り返ればジャージ姿の男の子が一人。上手く人を避けて歩いてきた彼に合わせ、私は慌てて列を外れて後ろへ回った。

「今帰り?」
「うん、自習で。赤葦くんは部活終わり?」
「そう。大体この時間だから」

声が真上から降ってくる。普段ない経験だから新鮮だ。最近きちんと知り合ったとは言え、一方的に知るばかりだった人が真横にいるというのは、なんだか不思議で現実味に欠ける。
ぼんやり見上げていれば、すい、と視線が流れてきた。気付かれた。肩が跳ねる。

「…何?」
「あ、いや、背高いなって思って」
「ああ…」
「普段周りにいない高さだから、なんか不思議で」
「いや、嫌だったとかじゃないよ。なんか変かなって思っただけ」

慌てて言葉を連ねた私を、彼は落ち着いた声で制する。そっか、ならいいんだ、なんて気の利かない言葉をもごもご返して、私は黙り込んでしまった。

視線を落としてしまえば赤葦くんの様子は殆どわからない。見えるのはジャージのズボンに包まれた長い脚と、袖口から覗く大きな手。遠近感が狂うのは多分、この身長差のせいだ。

「そうだ、名字さんって、甘いものって好き?」
「うん?」

ずいぶんといきなりな質問に面食らってしまう。確かに私は赤葦くんを知ってはいたが、知り合ったのはごく最近のことだ。彼の一挙一動が未知すぎて対応に迷う。
気を遣い過ぎだろうか。でもさっきからやっぱり心臓の位置がおかしい気がして落ち着かない。

「…うん、まあ、普通に…」
「じゃあこれ、この前のお礼には足りないけど」

すっと差し出された大きな手に、私は一瞬意図を捉え損ねてぼんやりしてしまった。何も言わずそのまま待ってくれている赤葦くんを見上げれば、凪いだ視線だけで促される。
それでいいのかわからないまま恐る恐る差し出した両手に、ころん、転がったのは可愛い包みのあめ玉三つ。

「…!」
「もらいもので申し訳ないけど、よかったら」

ひんやりした印象すら受ける涼しげな彼に、ポップな包み紙がどうにも一致しない。不安になるほど軽いのに、私の手からは溢れてしまいそうな三つが足元と一緒になってふわふわする。心の足が地に着いていない。彼はこれを誰からもらったんだろう。

「あ…ありがとう」
「…好きじゃなかったら、」
「いや全然!好きなんだけど、なんていうか、」
「…?」
「て、手大きいなって…」

あ、間違った。なんてこった。心にあった足は開いた口からどうでもいい感想を蹴り出してしまったらしい。

間違いなく要領を得ていないはずの赤葦くんには物凄く土下座したい。でもここで土下座はおろか黙るわけにもいかず、私はほとんど無理やりまとまらない考えを捻り出した。

「その、手を開くまで、飴玉みっつも入ってるようには見えなかったから…ごめん今私すごくどうでもいいこと言ってる」
「ああ、そういう。男子の中では普通だと思うけど」

穴があったら入りたい思いすらしたのに、返ってきた声は拍子抜けするほど落ち着いていた。それどころか彼は腕を折り曲げると、私の横で手のひらを開いた。これはアレですか。大きさ比べとかそういう?


ほとんど無意識の流れが私の筋肉に命令を下す。あめ玉を持たない手を並べてみると、当然ながらその大きさの差は明らかだった。指の長さも手のひらも、赤葦くんの方が一回り以上長いし大きい。

「うわ、差が歴然…」
「小さいね、名字さんの手」
「赤葦くんが大きいんだよ。それにすごく綺麗だ」
「綺麗?」
「うん、色白だし、指も長いし」
「男の手に綺麗も何もないと思うけど…」
「女性のとはまた基準が違うよ」

当然女の人の手のような綺麗さを基準にすれば話は違うだろう。骨ばった手の皮は厚く、マメの痕が残されている。だがそんな無骨な手ゆえに綺麗だと思うのだ。私の頼りない手とは全く別物の、積み上げてきた努力を語る手だ。

「、あ」

ぽつんと漏らされた声が見入っていた私の意識を引き戻す。あっという間もなかった。右手の横に並んでいた左手が私の右手首を掴んで引き寄せた。鞄の重心が体重をもってゆく。

「っい、!」

肩に走る衝撃。シャツ越しに伝わる体温に肺が活動を停止した。勢いよくぶつかった赤葦くんの体は、細身に見えて少しも揺らがなかった。

声を上げる間もなく、紺色の影が私の横を小走りに駆けてゆく。革靴とスーツのサラリーマン。

「危ないよ」

するり、手首を滑るかさついた温度が離れてゆく感覚。落ちてきた声が脳味噌に焼き付いた。
ああそうか、さっきの人急いでて前しか見てなかったな、あのまま突っ立ってたら多分ぶつかってて、それから。

触れたままの二の腕が、熱い。

「名字さん?」
「ご、ごめん、私全然気付いてなくて、」
「、…いや、」

俺もごめん。

あばらの内側で燃える何かが喉を突き破る。ぎこちなく離れた肩と二の腕の間に生ぬるい風が吹き込んできた。

この恐ろしい気まずさはきっと彼に筒抜けの筈だ。他意はない。他意はないのに謝らせてしまった。どうしようもない閉塞。浮ついた心臓が宙ぶらりんのまま揺れている。今にも足元に落っこちてしまいそうだ。

何か言わないと。思ったそのタイミングで列車が滑り込んでくる。けれど言葉を発するより早く、磨かれた車体に映るぼやけた姿が目に飛び込んできた。

「!」

腕一本分の距離、棒立ちになる自分、斜め下に投げられた彼の視線。

不透明な反射じゃ誤魔化せない並んだ赤さに、今度こそ言葉を失いぎゅっと目をつむった。
ヘリウムガスを詰め込んだみたいに浮きっぱなしの心臓に、何回だって言ってやる。
そんなんじゃない。そうだとも、そんなんじゃないのだ。

視線だけで追いかけてきた長い日々が、こんな何でもない遣り取りでひっくり返されるような、そんな革命あるわけないのだ。

150516
ヒーローと青春は遅れてやってくる(かもしれない)

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