short | ナノ


▼ 幕開けまであと五秒


名字名前は決意していた。

脈打つ心臓は騒がしく、足元はふわふわして覚束無い。自然に、冷静に。何度も練習した短い言葉を口の中で繰り返す。自分に言い聞かせ、深呼吸を一つ。
名前は慎重に口を開き、丁寧に彼の名を紡いだ。

「松川くん」

柔らかく響いた六文字が自分の名であること、加えてその声音が想いを寄せてやまない少女のものであることを理解するのに数拍かかった少年は、一瞬自分の脳味噌がついに都合の良い幻覚を引き起こしたのではないかと本気で疑った。

しかし後ろから続いた「あ、あの…」という不安げな声は、どんなざわめきの中でも聞き逃すことのない彼女のものに間違いなく。
彼は油の切れたブリキの人形のように、ぎこちなく首を回した。

「えっ、と」
「…え、」

なんで彼女が。少年、松川一静は完全にフリーズした。そして盛大に混乱した。
目の前には確かに名前がいる。綺麗に肩口へ落ちる黒髪と、落ち着いた色をした瞳、言葉を丁寧に扱う唇、どの造形を見ても小作りの華奢な姿は、今日も今日とて愛らしい。だが今ばかりは彼女の可愛らしさをつくづく堪能しているわけにはいかなかった。

え、俺なんかしたっけ。何の理由で登校早々絶賛片想い中の相手に話しかけられるなんて事態が発生するんだ。まさか何か醜態を晒したとか?
内心パニクる彼はしかし辛うじて通常運転の淡泊な表情を崩しはしなかった。涼しげとよく言われる落ち着いた面持ちのまま、彼はいかにも不思議なだけですといった様子で首を傾げる。

そしてそんな松川の表面上普段通りの表情に完全に欺かれたまま、名前は全勇気を振り絞って昨日何度も練習したフレーズを口にした。

「おはよう、松川くん」

当然ながら松川は凍り付いた。今まで彼女と挨拶を交わしたことなんてあったか。いやない。反語である。

落ち着け俺。松川はコンマ数秒の間に吹っ飛んだ冷静を辛うじて取り戻し脳味噌をフル回転させた。彼女に他意はない。自惚れて良い根拠は皆無だ。多分彼女はただ、……あーわかんないけど多分ただ気が向いただけだ。そう。ちょっと目に留まったから挨拶してくれただけ、そういうことだそうしよう。ていうか彼女には好きなヤツがいるんだから、そもそも俺は現時点で半分以上失恋確定してるわけで。だから気にすることもないわけで。

…思考がずん、と重くなるまでその間およそ数秒足らず。松川は内心気持ちを暗くしながら、しかしその沈み故に幾らか落ち着いた余裕を持って、小さく笑んで名前に応じた。

「おはよう、名字さん」

ああでもやっぱり簡単には諦められないし、応援なんてもっと出来そうにない。
気付かれないよう歎息して彼は彼女を見下ろした。しかしそこで見た思わぬ名前の急変に、松川は呆気に取られる。

「あ…、」

ぶわり、普段は色の白い頬が燃え上がるように色づく。ぴしりと凍り付き、みるみる真っ赤に染まる名前に松川は仰天し狼狽えた。どうしたんだいきなり。今のこのやり取りに(俺はともかくとして)彼女が赤面する場面なんてあっただろうか。松川は思わず一歩踏み出し手を伸ばす。

「え、どうかした?しんどい?熱あるとか…」
「え!?い、いや、ううん!全然元気だよ!」
「…そう?」
「うん!」
「ならいいけど…」

名前の様子を不可解に思いつつとりあえず納得し、彼は伸ばしかけた手を引っ込めた。それは間違いなく普段後輩たちにするのと何ら変わりない流れで出た行動であり、彼にとっては深いイミも無い何でもないことだった。一生懸命に頷く彼女が、普段の落ち着いた姿よりずっと幼く見えて和んだというのもある。

だから彼は自分の手を前に名前が心臓を高鳴らせたことも、結局その手に触れられることなくあっさり戻った距離を少し残念に思ったことも、彼の恋路が決して諦める必要のない勝ち戦であることも、当然知らないのである。












「、あ」
「!」

掃除の時間の終わり頃、ゴミ捨てから帰ろうとした名前は通りかかった下駄箱の傍で思わず立ち止まった。
角を曲がったそこで鉢合わせになったのは、最近朝と帰りの挨拶を交わすようになった想い人。松川もまた、驚いたように足を止め、ゴミ箱を持った名前を見下ろした。

「名字さん、ゴミ捨て?」
「うん、そうなの」
「おつかれさま、お帰り…ってまあ、教室じゃないけど」
「、…ううん、ただいま」

思わぬ労いと迎えの言葉に対し、名前は内心どぎまぎしながらも柔らかく応じる。その嬉しそうな微笑みに早速騒ぎ始める心臓を宥める松川は、すでに帰り支度を済ませ肩にはスポーツバックをかけていた。

「松川くんは、これから部活?」
「うん、そう」
「そっか、頑張ってね」
「ありがと、頑張ってくる」

優しく落とされた彼の二言を両手で掬うようにして名前は頬を紅潮させてふわりと微笑む。
その控えめで柔らかな笑みは松川の体温を一気に急上昇させたが、同時にそれは彼に、今朝方彼女が文庫本に向けていた微笑みを思い出させた。この笑顔は何となく、今朝の読書タイム中に見えた笑顔に似ている気がする。

ということはつまり、と松川は考える。今日彼女が読んでいた本の内容、あるいはジャンルだけでもわかれば、今彼女が浮かべている笑みの意味をある程度推し量ることが出来るということだろうか。

普段はあまりブックカバーを付けない名前だが、今日読んでいた本は図書館で借りた古いものらしく、今時のカラフルな表紙はなかった。渋い小豆色のハードカバーの背表紙にはタイトルらしき金字があったが、それも色褪せていて、彼女の前を通り過ぎた一瞬で読み取るには無理があったのだ。

友人に見せる笑顔、本を読む時の密かな微笑み。彼女の表情は全て知りたいと思うし、実際こっそり眺める短い時間で見つけられる限りの表情を拾い集めてきたつもりだ。
けれどどうしても、自分に向けられるこの控えめで柔らかな笑みだけは、普段何気なく彼女が見せるどの色にも一致しないのだ。

遠慮だろうか、気遣いもあるかもしれない、気まずさを含んでいたらどうしよう。自分の恋愛はまさに「恋は盲目」を体現している。どんな顔を見たって彼女であるという理由だけで可愛く見えて仕方ないという重症具合であることも自覚済みだ。冷静さなど皆無である。
だがそうなると普段はそれなりに自信のある選別眼や洞察力もまるで役立たずになる。それどころか気を抜けば勘違いしそうになる体たらくだ。

(つったって仕方ないだろ、こんな可愛かったら)

逆ギレではない、正論だ。松川一静はそう思う。

「…あのさ、ちょっと気になっただけなんだけど」
「?う、うん」
「朝読んでたのって、どんな本なの?」
「え」

松川は思い切って口に出してみた。気分は決戦前夜、しかし彼はあくまでクラスメート同士の何気ない雑談という調子を崩さない。
そんな彼の気になっただけ、という前置きに違わぬ気軽な問い掛けに、しかし名前は戦慄した。え、嘘、見られてた?

本にのめり込んでいる時の自分が無意識に表情を変えていることを名前はよく知っている。仲の良い友人たち(通称弁当組)から「眉間シワ酷いよ」「ニヨニヨすんなー」「え、どしたの泣くの?」などとよく突っ込まれるのだ。その度に見られていたらどうしようと思っていた、まさにその相手に尋ねられるなんて。

読んでいたのは古い恋愛小説、やや身分の低い少女が良家の生まれの少年に片想いする姿を描いたものだ。終始少女の視点から話が進行するため、読み手もまた少女と共に少年の心境を推測しつつ読み進めることとなる。それは多少なりとも彼女自身の片想いに重なる部分があり、朝も昼休みも問わずにすっかり読み入ってしまっていた。
そうとなればきっと普段より変な顔を晒していたに違いない。何たる失態。末代までの恥。絶望感と羞恥心で死にそうになりながら、名前は辛うじて尋ねた。

「み、みてた…?」
「え。…あ、イヤ、」
「あの、違うの。よく言われるんだけど、本読んでる時いつも一人でニヤニヤしたりしちゃって、でも全然ヘンな意味とかないの、本も全然普通の本で」

しどろもどろに弁明し始めた名前に、松川は一瞬呆気に取られた。てっきり盗み見キモいとか思われたんじゃと恐怖したのに、自分の心配は杞憂だったらしい。
そうすれば懸命に訴える彼女の様子が可愛らしく思えて、松川は心置きなく安堵しつつ笑って手を上げ彼女を制した。

「違う違う、全然ヘンとかじゃないよ。いつもすげー楽しそうに読んでるから、どんな話なのかなって思っただけ」
「え、…い、いつも?」
「、…うん、いつも」

思わず零した失言をあえて繰り返したのは勢いだった。それでもまだ修正は利いた。見ると大抵本読んでるから、とか、よく本読んでるよね?とか何とか、当たり障りのない付け加えはいくらでも可能だった。
しかし出てきたのは自分の紛れもない本音。

「いつも、かわいいなって思って見てる」

しん、と沈黙が鳴る。名前は呼吸も忘れて松川を見上げた。

さらっと口にされた台詞に反し、彼の表情はどこか硬く緊張していた。からかいや冗談で片付けるには、その眼差しは余りに真っ直ぐすぎた。
身体が燃えるように熱い。その熱に浮かされたかのように、名前はほとんど無意識に口を開いていた。

「…わ、たしも」
「、…?」
「いつも、かっこいいなって、思って見てる…」
「っ、…!?」

これぞ完全なる返り討ち。
一拍おいて怒涛の如く吹き荒れる感情と衝動を辛うじて押さえ込み、松川は目元を覆って俯いた。顔から火が出そうになる。もうヤだこの子。何なの。そんなに俺を振り回したいの。これで期待しないでいるとかどうやったら出来るんだよ。

「…ああもうホントなんなの、ホント頼むから」
「えっあのごめんなさい、違うのごめんなさい私」
「いやわかってんだけど、深い意味とかないってわかってんだけどさ、男ってホント単純だから簡単にそういうこと言わないでっていうか、あとそれから」
「えッ、え?あ、はい」
「……勘違いしちゃダメなら今言って」


―――朝練で遅くなろうとオフで早く来ようと、教室の戸口をくぐれば一番に彼女の姿を探してしまう。

大抵は同時か彼女が少し遅れて眼が合って、おはようの一言を言うためだけに互いがなんとなくタイミングを探すのがわかってくすぐったくなる。
帰りに声をかけるのは大抵先に教室を出てゆく松川からだ。けれど名前は彼が来るのを待っていたかのように、いつも必ず松川が口を開くより早く顔を上げる。

彼女のおはようとまたねの二言は、一日分の機嫌と景色を容易く変えてしまう。この七面倒な感情の生殺与奪権は彼女にあるのだ。
もはやこの想いも意図も彼女に伝わってしまったはずだ。けれどそれでも良かった。彼女が片想い中だというのも承知の上、だからこそ斬られるならば早い方がいい。

しかし返ってきたのは松川にとって信じがたい一言だった。

「…勘違い、してもらえるんですか」

言われた意味が一瞬わからなかった。松川は一瞬耳を疑い、それから現実を疑って、最後に彼女を疑った。無論それは名前も同じだったのだが。

「い、や待って、名字さん好きな人いるんだよね…?」
「え!?えっ待ってそれどういう…!?」
「や、たまたま聞こえたっていうか…片想いしてるって、」
「ちっちが!それ、あの、それは」
「…?」
「…ま、松川くんの、ことでして…」

ああもうどうしてこんなことに。今すぐ泣きたい思いで、名前はたまらず足元に視線を投げ落とした。こんな形で想いを告げることになるなんて予想だにしなかった。否、むしろ告白するつもりなんて少しもなかったのに。
もう駄目だ泣きそうだ。せめてそれだけは回避したいと唇を噛み締めたその時、ふわりと身体が包まれて、背中に長い腕が回された。

「、え」
「ごめんちょっと黙ってて」
「っ、…!?」

ぎゅうと締め付けられる感覚と、全身を包み込む知らない匂い。降ってきた声は今まで聞いたことのない、切羽詰まった彼のもの。

近い。近いなんてものじゃない。名前は全神経が彼以外の何ものへも反応しなくなるのを察した。ぴたりと合わさる身体がじりじり焦がされてゆく。頬に伝わる彼の鼓動、背を捕らえる腕の逞しさに眩暈がする。
呼吸の仕方を忘れた喉からひゅうと息が漏れた。名前は松川に、抱き締められている。

「…あーもうマジ、マジでどうしてくれんの、」
「あ、あの、まつかわく」
「好き」
「!?」
「すっげー好きだった。もうずっと。片想いしてるって聞いてマジでヘコんだし。なのに毎朝挨拶とかしてくれるし相変わらずすげぇ可愛いし。ホント生殺しとかやめてくれって思ってた。あーもうホント好きだわ」
「っ!?…、…!?」

リミッターの外れた彼が思うがままに告げる言葉の数々に、名前は最早声もなく無防備に被弾していた。それも耳元へ落ちる至近距離からの爆撃である。名前が魅了されてやまない低音が、余裕のない掠れた声で砂糖菓子のような愛を囁くこの状況で、まともな思考を保っていられるわけがない。

「…名字さんは?」
「え、…え?」
「名字さんは、俺のこと…好き?」

なす術もなく目を潤ませたまま、頬を真っ赤に染めて言葉を失う名前を覗き込む。松川は焦げつくような熱を孕んだ瞳で彼女を見詰めた。その上彼の長い指が頬にかかる髪を耳元へ滑らせるものだから、名前は羞恥に耐えかねてさらに瞳を潤ませる。

これはちょっと苛めすぎたかもしれない。唇を震わせて泣き出す寸前の顔をした彼女を前に頭をもたげる危うい加虐心を殺しつつ、松川は少し反省した。名残惜しいが、今はもうこれ以上求めるのはやめようと思ったその時。

「…すき。すごく、すき」

松川くんのこと、ずっとすきだったの。


ほろり。ついに目一杯に湛えた涙の粒を目の縁から零した名前が小さく小さく呟いた精一杯の想いの丈に、松川は言葉を失い、しばし我を忘れて凍り付き、それから痺れた思考で確信した。多分自分はこれからも、このどうしようもなく可愛い少女に振り回される他に道はないのだ。それも悪くないと思えるあたり、自分が相当重症なのだろうけれど。

ぎゅうっと掴まれたままの心臓が疼いて仕方がない。しかしやられっぱなしは性に合わない。
ほろほろとこぼれる彼女の涙を指先で拭ってやりながら、目一杯抱き締めて耳朶にでもくちづけるのが先か、いっそ噛み締められた桜色の唇をほどいて味わうか、五月蠅い心臓を宥めつつ、松川は甘い報復を考えた。


140209
何名かの方から続編希望を頂き、今更ながら松川さん続編を。まだよくキャラがわかりません。

prev / next

[ back to top ]



×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -