▼ スターライト・ブルー
彼女はいつも本を読んでいる。
友達がいないわけではない。話しかけられれば快く応じ、仲の良い友人とは酷く楽しげに笑い声を上げることもある。化粧も髪も凝らせば映えるそれなりに整った顔をしながら、至って飾り気の無い出で立ちをした彼女は、決して目を引くタイプの女子ではない。ただ人よりうんと早く登校してからホームルームが始まるまでの数十分、ちょっとした休憩時間、時には放課後にも、彼女はいつも本を手に、静かに席についていた。
肩までゆるやかに落ちる黒髪の縁から覗く横顔の微妙な色彩の変化を察せるようになったのはいつからなのか。否、彼女の存在へと視線を誘ったものこそが、その繊細な表情の移り変わりだったとも言える。
分厚いハードカバー、文庫本、図書館のラベルがあるもの、帯がついたままのもの、小難しげな新書やまさかの洋書。話題のベストセラーから数十年前のマイナー作品まで、彼女の手にある本はジャンルも著者も、何の法則性や好みの縛りを伺わせない自由奔放なラインナップだった。
そしてその個々の一冊毎どころではなく、その本を読み進める合間ですら彼女の表情は精緻に彩りを変えるのだ。
真剣な面もちで文字を追うこともあれば、柔らかな眼差しを紙面に注ぐ日もある。桜色の唇の端が綻んだかと思えば、眉間に皺を寄せて長い睫を伏せ、瞳に憂いた影を落とす日もあった。
彼女が本を開くとその友人たちは皆、どうしても融通出来ない用事でない限り彼女に無闇に話し掛けることはしない。ただ彼女の周りにやってきて、自分たちも同じように静かに小テストの準備をしたり課題を片付けたりする。
にぎやかな昼休みの教室の片隅で、決して異質ではなく溶け入るような静謐を保つその空間は、一度目に留まれば見ていて実に不思議なものだった。
そして少年がその崖下に突き落とされたのは、ある何でもない昼休みのことだ。
今日は読書タイムなのか。友人との昼食を楽しげに終えた後、彼女は新しい文庫本を開いた。彼女の友人たちもまた、何を言うでもなくそれに合わせて、さっき出されたばかりの英語のプリントを広げている。
相変わらず不思議な静謐を保つ穏やかな食後の風景を何の気なしに見ていれば、不意に休みの終了を告げるチャイムが鳴った。ふと顔をあげた彼女は分厚い文庫本の間へ丁寧に栞を挟み、本を閉じる。それから彼女の周りに集まり単語帳を広げていた友人たちを見回し、
「…、」
ふわり、嬉しそうに笑った。
「―――、」
あ。
少年は息を呑んだ。呼吸も忘れた数瞬の間、白紙にされた彼の脳裏に焼き付いたのはどんな本にも向けられたことのない初めて見る彼女の笑み。どくり、心臓が熱を孕んで波打つ。突然沸騰した血潮が勢いよく全身を駆け巡り、痺れた脳が熱くなる。
自分に向けられたわけでもないその笑み、柔らかな眼差しに刹那に虜とされた彼は、熱を持つ頬を隠して机に突っ伏した。
(え、なにアレ。なんだアレ…!)
かつてA.ビアスはこう定義した。恋愛――患者を結婚させるか、あるいはこの病気を招いた環境から引き移すことによって治すことができる一時的精神異常。
彼が突き落とされた崖下とはまさにこの精神異常の奈落である。
だが念のため前置いておけば、これは一目惚れではない。それは彼も承知の事実である。
実のところ本へと向けられるその微細な表情の変化を意識し始めた時からすでに、この精神異常は彼をじわじわと浸食し始めていたのだ。
「、あ」
ぽとん、落ちた消しゴムの行方を見やった少女の視線の先に、彼女のものより一回り大きな上履きが滑り込んだ。長い指先が彼女の消しゴムを丁寧に摘む。
見上げたそこには、彼女自身が座っていることを差し引いてもよくわかる長身の少年が、彼女のことを見下ろし立っていた。
「どーぞ、名字さん」
消しゴムが机の端、筆箱の横に乗せられ、淡々とした声音が耳朶を打つ。少しばかり硬い表情と、眠たげな瞼の下の感情を読ませない透明度の高い瞳の主を見上げ、彼女は一瞬驚いたように目を瞠いた。
事務連絡以外に言葉を交わすことのない少年に向かい、彼女、名字名前は一拍置いて息を整え、控えめな笑みを浮かべると柔らかな声音で丁寧に応じる。
「ありがとう、松川くん」
少年、その名を松川一静は、言われた意味を理解しかねるかのように瞠いた瞳を二、三度瞬かせた。しかしそれも束の間のこと、次いで視線を泳がせた松川は口の中でもごもごと何かを言うと、くるりを背を向け立ち去ってゆく。
少女は首をこてんと傾げて松川を見送ると、笑みを消し、彼の長い指がつまんだ消しゴムをそっと手に取った。
友人たちが現れるまでの三分近く、彼女は何事かを考え込み微動だにせずにいた。
「岩泉、もう俺死んでもいい。ていうか死にそう」
「そうか、インターハイ終わってからにしろ」
「そこは止めてくんない?」
突然やってくるなり自分の席へと真っ直ぐ歩いてきてその前の椅子を陣取り、そのまま無言で突っ伏して約一分。ようやく話したかと思えば開口一番に絶命願望を口にした部活仲間兼友人に、彼、岩泉一は呆れたような、しかし物珍しげなものを見る視線を送った。
長い腕を組んで顔をうずめた友人の癖っ毛から覗く耳はほんのり色づいている。冷静さにかけては飄々とした花巻と並んで遜色ないこの男が、ここまで打撃を受けるのは珍しい。だがその種明かしを知る岩泉としては、こうなった松川を見るのは初めてのことではなかった。
「つーか何でお前、わざわざ俺んとこまで来るんだよ」
「岩泉が冷たい…」
「ああ?ちげぇよ、俺んとこにゃクソ川がしゃしゃりに来るリスクがあんだろーが。知られたくねーんだろ、お前」
「……お前ってさ、ホンット骨の髄まで男前だよな」
松川は深々とため息をついた。どう育ったらこんな男前になるんだろう。これはもはや青城七不思議に数えられて良いと思う。
「だって花巻も面白がって引っ掻き回すタイプじゃん。真面目に取り合ってくれんのなんてお前くらいだろ」
「…まあ、否定はしねーな」
「だろ?」
「で?今回はどうしたんだよ」
これだ。これだから岩泉は悔しいほど格好良い。全身で呆れたと言いながら結局こうして事情を聞いてくれるからこそ、松川は岩泉の元を訪ねるのである。相も変わらず素で男前な副主将兼友人を見やり、松川はぼそぼそ言った。
「…消しゴムをさ、拾ったんだよ」
「は?…ああ、んで?」
「どーぞって、名前呼んで渡したら」
「おう」
「……やっぱ死ぬ。俺もう死ぬ」
「何でだよ!」
「…ありがとうって言われて、名前呼ばれた…あーもー俺絶対キョドってた、くっそ恥ずい。絶対ヘンって思われた」
だって、「松川くん」って。名前覚えててくれてしかも呼んでくれてって何。いやそりゃクラスメートだし名前覚えてんのが普通かもしんないけど、普段全然話さないからあんな可愛い声で呼ばれる耐性なんてあるがわけない。しかも見上げるアングルからの笑顔付きとか。あれはもはや爆撃だ。
完全に不意打ちだった。綻んだ唇もさらさらの黒髪も透き通った瞳も目に焼き付いて離れない。なんであんな可愛いの。あの子は俺をどうしたいの。なるほどアレがただの天使か。
「お前な…そんなんでこの先どうすんだよ。付き合うも何もあったもんじゃねーだろ」
「無理。付き合える気がしない。心臓爆発する。だってかわいすぎる」
「…。松川お前結構アレだな。ヘタレっつーか乙女だよな」
「いやわかってるけどさ、なにもお前みたいな男前と一緒にしないでくれる?地味に傷つく」
「面倒くせぇな、及川かよ。…まあいきなり告れたァ言わねーけど、普通に話すくらいの仲にはなれんだろ。なんなら挨拶から始めりゃいい。
お前はお前が思ってるよりいい男だってことは俺が保証してやる。名字に見る目がありゃ上手く行くだろ」
…もう俺泣いていいかな。いいよな別に。
松川は一度は腕に乗せていた顎を再び持ち上げ、再び完全に机に突っ伏した。普通に照れた。なんというこっぱずかしいことをああもサラッと言ってみせるのか。
「…岩泉」
「なんだよ」
「俺お前に好きな子出来たら本気で応援する。だから絶対言って」
「おー、そりゃありがてぇな」
決めた。とりあえず挨拶から始める。
「名前、そんなに見つめてたら消しゴムに穴空くよ」
「りっちゃん、今日から私この消しゴム使えない」
「えっ何突然の脱消しゴム宣言?」
少女・名字名前は荒ぶっていた。その顔は至って真面目なものだったがしかし、それはあまりの衝撃と感動を処理しきれず一周回って真顔になっているだけの話であり、結局のところは絶賛混乱中だった。
「じゃあフリ○ションオンリーで授業乗り切んの?」
「その手があった…!ありがとうりっちゃん、これは家宝にするね」
「ちょっと落ち着こうか名前。集合、名前がおかしくなった」
どやどやと集まってきた友人達は一様に名前の席を囲み、何があったのかと首を傾げた。弁当組総勢6名の集合を確認し、招集をかけた彼女が代表して問い尋ねる。
「で?その消しゴムが家宝になった理由を5字以上10字以内で述べよ」
「まつかわくん」
「ああ…察した」
条件をクリアした6字の解答は全てを語ったらしい。なんだそれかと頷いた弁当組は、しかし解散するのではなくいそいそと椅子を引っ張ってきて名前を取り囲み腰を下ろす。
「なに、拾ってもらったの?」
「…うん」
「へー!珍しいじゃん」
「ていうか何時ぶりの接触?」
「多分先週の…アレ、国語プリント返却した時ぶり」
「あん時も名前超パニクってたよね」
「その割に普通の顔だったけどね」
「で、松川くんなんて?」
「…『どーぞ、名字さん』って」
「…他には?」
「…」
それだけかい。
6人の心が綺麗にシンクロした。しかし思い出したように頬を染めて俯いた名前に、皆は顔を見合わせ肩をすくめるなり苦笑するなりする。まあなんと初心で可愛いことだが、如何せん接触すら週一単位、交わす会話は単文オンリー。これでは進展も何もあったもんじゃない。
名前が松川にベタ惚れなのは、弁当組全員の知るところである。
取り立てて目立ったきっかけはない。松川のどこに、と言うよりは松川の人柄そのものに名前は惚れ込んでいた。
初めに目に止まったのはさりげない立ち振る舞いだ。日直になれば身長ゆえにか当然のように黒板消しを行い、ドアを開ければ後ろに続く人のために戸口を押さえておく。誰に感謝されずとも気にした風なく、礼を言われればちょっと驚いてから口元を綻ばせる。
授業中はそれなりに真面目だが、時折肘をついて眠たげに目を瞬かせ、鞄の中身は意外と乱雑だ。相手の話によく耳を傾け、返答は簡潔。人に無関心に見えて実はよく観察している。
廊下で見掛けた際に部活仲間と話す彼は普段よりうんと幼く笑っていて、けれど緊張気味にやってきた後輩を相手にする時には頼れる先輩の眼差しをする。
さりげなく、皆が見落とすような小さなことで、松川は人に優しい。そんな小さな発見が積もり積もって静かに熟し、直接言葉を交わすことの滅多にない松川の存在は名前の中で色鮮やかさを増して行った。
そう、その結果がこの超絶片想いである。
「でも名前、そんなんじゃいつまでも親しくなれないよ?」
「そうだよ、せめて友達くらいになんなきゃ」
「名前なら友達で満足しそうだけど」
「無理。死ぬ。松川くんとお友達なんて、恐れ多すぎて私死ぬ」
「いや生きろ。強く生きろ」
「何も今すぐ告れなんて話じゃないよ。ほら、挨拶してみるとこから始めたりさ」
「このままじゃずっと片想いだよ?苦しいじゃんそんなの」
呆れと気遣い、叱咤激励、心配とからかい、優しい諭し。6人6色の友情を一身に受け、名前はぐっと唇を引き結び眉を下げた。皆の一様の応援が心に沁みる。返す言葉もない。
しかし彼女は思い出す。恋人たちの悲恋を描いた1960年代のアメリカ映画『荒野を歩け』で、ある女優はこう言った。
「片想いでもいいの。二人分好きでいるから」
実際の『二人分愛するから』なんて言葉は分不相応だ。まだ未熟過ぎる名前にはこれで十分である。むしろこの台詞の引用そのものが分不相応かもしれないが、そこには目を瞑っての発言としたい。
一音一音大切にするよう丁寧に紡いだ彼女の言葉に、弁当組は一瞬しんと静まり返った。それから各々ため息をつくなり天を仰ぐなり苦笑するなり微笑むなりと好き好きに反応し、代わる代わる名前の肩を叩き、頭を撫で、デコピンをかまし、鼻をつまんで、まあぼちぼちやっていこうかと満場一致で頷いた。
「…ん?」
それじゃあ小テストの準備でもしますかと皆していそいそと単語帳を持ち出した時、招集をかけた名前の友人ははたと気付いた。さっきまで教室から姿を消していた渦中の男・松川一静が、ゆっくりと自分の席に歩いてゆく。
そうして腰掛けた彼は、心ここにあらずといった様子でしばし机の木目を凝視していたかと思えば、次の瞬間ずるずると崩れ落ちるように机に突っ伏した。
そういえば彼、まだ名前が話してた頃合いに教室に戻って来たっけ。なんで今頃席についたんだろう。ていうかなんであんなお通夜みたいな負のオーラ背負って突っ伏してるんだろう。なんていうかまさに、
「…世界が終わる五秒前?」
ぱたん、彼女の隣で別の友人が単語帳を閉じ、全員の注意を引いて宣言した。
「ちょっとみんな集合、今度はりっちゃんがおかしくなった。これは恐らく突発性中2病…!」
「衛生兵!衛生兵を呼べ!」
「総員退避!中2ハザードに警戒せよ!」
「どっちが中2だこのバカ共!!」
普段の静謐はどこへやら、単語帳片手にぎゃあぎゃあ騒ぎ始めた友人達を、名前はにこにこと楽しげに眺めていた。その視線は自然と意中の彼の元へと引き寄せられる。しかし松川と言えば相変わらず死んだように机に伏したままで、名前は少し残念に思ったが大人しく視線を単語帳に落とした。
彼女たちは知らない。名前が洋画の名言を引用したまさにその時、そのすぐ背後を松川が通りかかっていたことを。
そしてその健気な台詞をあらぬ方向に受け取った彼がたっぷり一分凍り付き、再起不能の痛手を負って傷心のただ中にいることも。
少年少女の恋の行方は、前途多難であるらしい。
初松川さん。続くかもしれません。
141220
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