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▼ 酔わざれば

その一瞬、その瞬間、まるで月9のドラマで観るエンドロールの5秒前のように、感覚神経を置き去りにしてすべての音が消失した。

動けない、理解が及ばない、体の機能が戻らない。僅かにシャツが重なるだけの距離などまるでないかのように、身を焦がすような体温が伝播してくるのは気のせいじゃない。

きつく香るアルコール、唇に触れる火傷しそうなほどの熱。痛いほどの静寂に微かな衣擦れが爪を立てる。
灯りの届かぬ陰った暗がり、ピントの合わない至近距離で、それでも眸を閉ざしたその顔は、酷く鮮烈に瞼に焼き付いた。


―――時刻は30分ほど遡る。





「あっ、名前ちゃんも何か頼む?」
「、あー、じゃあ柚子酒ロックで」
「またロック?ホンット強いね、全然酔ってないじゃん!」
「まあ、あんま酔う方じゃないよ」
「うわーヨユー!」

悔しそうに笑う女の子に薄い笑みを返す。なるべく鷹揚に、落ち着き払った所作を意識してグラスを傾ければ、原液に等しいアルコールが喉を焼いた。

余裕を装う無表情は幸いまだボロを出していない。グラスを空けるたびに顔色を窺われている自覚はある。平然とドリンクメニューを手に取れば、視界の端で先輩が面白くなさそうな顔をするのが見えた。

ザルを装うのは得意だ。アルコールで思考が鈍ったことはない。受け答えははっきりできるし、記憶が飛んだこともない。多分これは持って生まれた体質だ。通常運転が冷めてるどころか冬場には冬眠できそうなテンションも、平然を装うにはアドバンテージだ。

問題は意識を呑まれることが無いとしても、身体に回るアルコールまで無効化できるわけではないという点だ。



潰されにかかっている自覚はあった。

その意図は知らない。飲みの席でもスカした態度の後輩をオモチャにしてやろうという悪ノリかもしれないし、はたまた女なら何でもいいというクズ思考に端を発する可能性もある。そこまでゲスい話でなくとも、酔い潰れて醜態を晒す様をスマホで撮ってネタにする程度の企みはあるだろう。

わかっていれば回避すればいい話なのだが、そこそこに煽られて黙っていられるほど私も大人じゃない。通夜テンションでも負けず嫌い、買った喧嘩には釣りまでつけたい主義である。最後まで悠々飲み切って平然と帰ってやろうではないかと算段をつけたのは、要らぬ負けず嫌いが顔を覗かせた結果だ。

そうして出来るだけちびちび飲み進めることでなんとかペースを保ってきたものの、やはりグラスが増えるのは避けられない。のらりくらりと躱すおかげで相手方は気付いていないようだが、恐らく立てばすでに足元が怪しいはず。

ちらり、隣の数席を確認すれば、悪ノリの中心核らは別の後輩女子に絡み始めていた。今のうちに少しお腹にモノを入れておこうか。思ってテーブルを見渡し、出し巻きの皿に目星をつけながらグラスに手を伸ばした時だった。

「おい、名字、もうやめとけ」

カサついた厚い手のひらが甲に触れる。跳ね上げたのは反射だった。グラスを取り上げる大きな掌と共に降ってきたのは、見るに見かねると言いたげな険しい声と眼差し。

「岩泉?」

思わず眼を見張ったのは予想外の制止のせいより、まるで普段と変わらない彼のはっきりした物言いと揺るがぬ視線のゆえだ。走った視線でテーブルのグラスを数えれば口元が引き攣りそうになる。私より遙かにハイペースで空けられていたはずのアルコールはまるで仕事をしていないらしい。
なるほどこれがホンモノのザルか。恐れ入る、私のような付け焼刃とは話が違う。

「…平気だよ、思うほど酔ってないから」
「嘘つけ」

お前、気づいてンだろ。

へらり、笑って言えばしかし、一刀両断に斬り捨てた男は大層不機嫌そうに言う。気付く、という動詞の目的語は共通認識だ。周囲の意図に、自分の立場に。回されるグラスの意味に気付いていながら、なぜ手を打たないのかと言いたいのだろう。ともすれば意識ははっきりしておれど体はそこそこ限界に近いところまでお見通しなのか。
どちらにせよ、私は肩をすくめて応じる。

「敵前逃亡は好かないんだよ」
「ああ?」
「いや、岩泉が怒るとこじゃないだろ…」

奪われたグラスに代わって箸を取る。出し巻き卵を頬張れば、広がる卵の柔らかさに心が和んだ。果実酒のロックは味が濃い。普段はそこが好きなのだが、グラスの数を稼ぐために呑む分には喉にも胃にも酔いにもクる。

「…それで本当に潰されたらどうするつもりだ」
「あー…でも意識ははっきりしてるし」
「体はまともについてきてねーだろ」

平たくされた半眼にじとりと睨まれ、返す言葉に思わず窮した。やはりそこまで見抜かれていたか。体育会系は飲み会の場数が違うと聞くが彼もそうなんだろう。どちらにせよ平然を装う動作が緩慢になるのを隠せていない自覚通り、彼の目を欺くことは出来そうにない。大抵のことには無頓着に見せかけて、肝心なところで人をよく見ている男だ。

憮然とした表情を盗み見、思わず緩みそうになる緊張感に息を吐く。不機嫌を隠さない精悍な横顔に浮かぶのは、周囲の過ぎた悪ノリに対する義憤。そのうちのほんの僅かが私のために割かれているのかと思えば、心身共に張っていた糸がうっかりほどけてしまいそうになる。純粋な気遣いは素直とは程遠い心にも利くのだ。軽くなる口が惰性で割れた。

「まあ、そうだね。気楽に酔えない酒は不味い」

ちらり、寄越された一瞥には応えず、ふたきれ目の出し巻きを頬張る。酔うわけにはいかない酒は楽しくない。まあ普段から酔えない体質ではあるが。

胃袋に卵を送り込んでいれば、ふと思い立ったように岩泉がグラスを置いた。あ、また空にしたな。ぼうっと思う思考に落ちる影、喧騒に混じる衣擦れの音。右側に座る右利きの彼が、私の視界を横切るようにして出し巻きの皿に箸を伸ばしたのだ。

当然の結果縮まる距離に思わず反射で硬直する。すぐに離れる、そう設定した脳みその感覚に現実の時間が追いつかない。
伸ばした箸が一瞬止まった。武骨な手がふとそれを握り込み、代わりに指先で皿を引き寄せた。その長い指を見詰めながら、ちらり、あの隙の無い眼差しがこめかみを掠めるのを確かに感じる。

酒の席の騒がしい喧騒を縫うように、淡々とした低音が鼓膜を震わすように落ちた。

「…名字。スマホ、音出るようにしとけ」
「っ、……?」

陰った視界が再び晴れる。引き寄せた皿から出し巻きを摘まむ箸を追いかけるように、滑らせた視線で盗み見た横顔は先ほどとなんら変わりない。実に何事もなかったかのように振る舞う岩泉に、一瞬迷い、それからスマホを引っ張り出した。マナーモードを切り、音量を七割まで引き上げる。
視線は飛ばさずあくまで正面を向いたまま、無言でそれを机に置けば視界の端、ふ、と掠めるような笑みが口端に見えた気がした。

「あれ、名前ちゃんグラス減ってないじゃん!そろそろ限界?」
「や、流石にロックは味濃いんで。箸休めっす」
「味のモンダイとか!ヨユー過ぎる!」

まあ味だけじゃないけど。正直喉は焼けるようだし、心臓が耳元まで移動したんじゃないかと思うほど脈打つ血管の拍は速い。平気なのは顔色だけだ。

そこそこに飲んでいるらしい、陽気にげらげら笑う同期に邪気はない。だがその横で「ほんとにィ?」と茶化す女の先輩の目は笑っていなかった。シャドーとマスカラの下、油断なく探りを入れる不躾な視線にげんなりする。
どうにも好かれていないのは知っているのだが、如何せん嫌われるようなことをした覚えがないのでやりづらい。まあ、思い当たる節がない時点でアウトなのかもしれないが。そうとも、無神経だとはよく言われる。

「じゃあもう一杯頼んどくね?梅のロックでしょ?」
「あー…」

いや、まだ結構残ってますし。適当に躱そうと開いた口を遮ったのは、鳴り響いた着信音だった。
メロディーに連動するバイブがテーブルを震わせる。ラインの無料通話。

まさか。投げ上げそうになった視線を寸でのところで引きずり降ろす。岩泉は反対隣の男子と談笑している。その右側、腕の先は見えない。

端末を手に取り、慎重に、だがなるべく素早く立ち上がる。ぐらり、一瞬重心を見失いそうになるのを辛うじて踏ん張った。自然に見えるよう肩幅まで足を開き、体重を片側へ傾け姿勢を整える。ちらり、カバーの下から除いた着信相手の名前はローマ字。
気合いを入れた渾身の「申し訳ない」笑みを作り、こちらを見上げる連中に言った。

「スミマセン、なんか急用っぽくて。ちょっと外します」
「え、大丈夫?結構飲んでたけど…」

足元とか、と付け加える同期に内心ガッツポーズ。ナイス同期、良いアシストだ。立ち上がろうとした彼女をやんわり制し、いつも通りを心掛け、口元に余裕な笑みを刻む。そうしてさもなんとも無いことのように。

「ヘーキ、何ともないよ。ありがとね」

やったな。
同期の背後で先輩方が浮かべたあからさまな悔し顔に完全勝利を確信する。気付かれていない。ハッタリは成功だ。
実に面白くなさそうに唇をゆがめる連中を尻目に、足の感覚を慎重に掴みながら背を向ける。通話ボタンを押し、着信音が途絶えた端末を耳に当て、座敷の出口に向かってゆっくりと歩を進めた。

「…もしもし?」

ざわざわ、スピーカー越しに聞える喧騒から返事はない。やはりそうか―――それもそうだろう。同時に重ねて思ってにやり、笑おうとした唇はけれど、歩行による振動でぐらつく脳味噌に思わず歪んだ。

身体の底に沈殿していたアルコールが立ち上がった勢いで一気に回り出したようだ。ぐるぐると襲い掛かる眩暈と吐き気にみぞおちを押さえる。座敷を出た瞬間座り込みそうになるのを耐え、私は必死で店の外へと向かった。


170428
出来れば後編に続きたい。

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