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▼ Oh Our Sleeping Beauty! 3

夜更かしせず布団に入って、朝七時までしっかり寝ても、お昼の授業で起きているのが難しくなり始めたのは中学三年の頃だ。


「名前ちゃん、どうする?今週の土曜、映画見にいこって話なんだけど…」
「けど、ほら、映画だと、お金の無駄になっちゃうかもだし」

ためらいがちな口調と気遣わしげな瞳がこちらを伺っている。ぼんやりした思考がこんな時ばかりうっすら立てるアンテナが、遠慮がちな顔に浮かぶ気まずさを拾ってきてしまう。なんともない笑顔をつくるのが、少しずつ上手になってゆく。

「んん、そうかも。ごめんね、ありがとう」

みんなにも悪いしね、なんて余計な付け加えは呑み込んだ。それは多分、私の罪悪感を薄めるかわりに、皆を悪者にするような都合のいい気遣いになると思った。
気に病ませないように。そのせいで、これ以上私と一緒にいるのを億劫に思われないように。でもその努力には本当のところ、どれだけの意味があるんだろう。

「ごめんね名前、また今度どっか行こうね」

申し訳なさに滲むほっとした色に、気づかないふりをして笑ってうなずく。その「また」と「今度」はもしかすると、もう二度と来ないかもしれない。予見しつつあるそんな未来を仕方ないと諦めてしまうほど、中学生の私は十分大人になれていなかった。




XXXX




「すみません、提出期限が今日だって聞いてなくて…」
「そりゃ名字は聞いてないだろう。授業中あんだけ寝てるんだからな」

重たい頭に降ってきた棘だらけの言葉に口を噤む。職員室のどまんなか、注がれる視線の白さを染める軽蔑が、俯く頭を一層重くした。

「…明日必ず持ってきます」
「提出期限は今日だ。名字だけ特別扱いは出来ないぞ」
「……今日帰って、放課後持ってきます」
「…、最終下校までだぞ」

すみません、ありがとうございます。
締まった喉をなんとか開いて、苦々しい声に向かって深く頭を下げる。下げた頭のまま職員室を後にした。教室に向かう爪先を見つめる。

仕方がない。授業を聞いていなかった自分が悪い。せめて聞きそびれた場合を考えて、友達に確認しておけば良かったのだ。提出を認めてもらえただけで御の字だ。それさえ許されなかったら、評価してすらもらえないのだから。

そう、だから、仕方ない。煮詰めて煮詰めて量を減らしただけの苦しさが、鍋底にこびりつくカラメルのようにだんだん取れなくなっても。言い聞かせる「仕方ない」が納得のためなのか暗示なのかわからなくなっても、それ以外に自分を守る方法がわからないのだから。




XXXX




「このまま行くと、名字さん、志望校を変更しないといけません」

一瞬の間を空けて、意を決したように言った担任の言葉が、聴覚を半分放り出した頭にぶつかる。かろうじて上げた視線の先、机の上のインクジェット紙に浮かぶ模試の結果をぼうっと見つめた。
落ちてきそうな瞼を見せまいと俯かせた頭がせめて船だけは漕がないよう、必死で瞬きを繰り返す。第一志望、E判定。第二志望、D判定。

「え…でも先生、このまま行けば大丈夫って二年の時は」
「ええ、でもお母さん、『二年の時は』なんです」

隣に腰かける母さんが言葉を失う。言葉にならない母の痛みは、顔を上げなくてもひしひしと伝わってきた。
その衝撃はいつ失望に、いつ憐れみに、いつ軽蔑に変わるだろう。覚悟して身構えた痛みはけれど、ただ悲痛な色をしたままだった。

「…先生、じゃあ、第二志望は?Cに近いDですよね?」
「そこなら、可能性はありますが…とにかく授業を起きて受けて頂かないことには」

何故だか急に眠気が飛んだ。母さんは私を詰る言葉をひとつとして出さなかった。言わないだけで思っているわけでもないのはすぐわかる。心にないもないことを言葉にしてしまえる人がいることも、心にあることを隠さず押し出す人がいることもよく知っている。そんな人は周りにいくらでもいるものだから、母さんが私のために必死で道を探そうとしてくれていることはすぐにわかる。

わかって、それは本当に幸福なことで、けれどそのことと開いた目を閉じられないことには、何か関係があるんだろうか。

「いつも遅くまで起きていないといけない事情なんかは…」
「いえ、普段から早くに寝るよう本人も気を付けているのですが…」
「眠りが浅かったりは?」
「見ている限りは、よく寝ていると思うんですけど…」

間が空いて、担任がため息をつく。剥がれかけた辛抱強さの下、苛立ちと諦めがちらつく声が降ってくる。

「名字さん、自分のことなのよ。このままだと本当に志望校を変えなきゃいけないわ」
「…」
「…夜更かしでないなら、逆に睡眠時間が長過ぎるのかもしれないわ。八時間か、七時間ほどにして…それに授業も、もちろん苦手で眠たくなる科目もあるかもしれないけど、」
「ありません」
「え?」
「眠たくしてたい授業なんて、ひとつもありません」

なんでだろう。ぼんやり視界は霞むのに、いつもなら重たくて仕方のない瞼がちっとも降りてこない。見開いたままの目とつきつき痛むこめかみが、のし掛かるような眠気を吹き飛ばしたままにしている。

ただただ締め上がる喉だけが、声を絞るたび酷く痛い。


「わたしだって、」

起きて、ノートをとって、友達と話して、映画を観に行って。


「わたしだって、起きて、普通にしてたいです」


眠気の代わりに込み上げてきた熱くてぐちゃぐちゃないろいろが溢れて、滲んだ視界が急に晴れた。机に落ちたふたつの滴を見て、それが涙だったことにやっと気づいた。

きりきり痛む頭で思う。いつも泣きたい思いでいれば、眠たくならずに済むんだろうか。こんなに心が痛くなければ、起きてはいられないのだろうか。


それなら、そんなことなら、私はもうずっと眠っていたい。

だってそうだろう。こんなに苦しい思いをしないと目を覚ましていられないなら、友達も学校も何も知らないで、一生眠っている方が良いじゃないか。




XXXX




「俺がプリント写させてくれっつーのはダメなのに、名字にノート貸すのはいいんだ?」


ああ、聞かれてしまった。ついにこの日が来てしまったと、身構えていたはずなのにこころも体も凍り付いてしまう。

その時が来ることはずっと前からわかっていて、でも高校の制服を纏うクラスメートたちの少し大人びた沈黙が、ずいぶん長いことそれを先延ばしにしてくれていたものだから、準備していたはずの心は間違いなく油断していた。そんなわけないのに、このまま何も言われず聞かれず、綱渡りのままでも進めるんじゃないかなんて、あるはずのない期待が芽生えてしまっていたのだ。

「ああ?」

受け取ったノートが手の中で軋む。じわり、滲む手汗と一緒に顔を出す諦めが、ほんの少し顔を出そうとしていた希望を摘み取ろうとする。

目の前に佇む隣の席の男の子が、ぎゅ、と眉間に皺を入れて私の肩越しの男の子を睨む。ひどく今更で、けれど他でもない私が、今までこの不機嫌な顔を向けられたことが無いこと自体おかしな話だったのだ。


岩泉一というそのひとは、部活に熱心で、それなりに真面目で、何よりフェアで公平なことが伝わってくる男の子だ。その彼が素っ気なくもイヤな顔一つせず、毎授業となりで舟をこぐ不真面目な女子に、それもほとんど毎日ノートを貸してくれることが、ずっと不思議でならなかった。
でも彼は何も聞かないし何も言わない。回数が重なるにつれて呆れた目をする人が普通なのに、いつまでたっても迷惑そうな顔をしない。

頼めば必ずいつもの温度で頷いてくれる彼は、私にとって不思議で不可解で、でももしきっかけさえ見つかるなら、どんな言葉を尽くせばお礼を伝えられるのかわからないほどの存在で。


その彼が息を吸う。私の肩越しへ答えを出そうと言葉を準備する。

手の中のノートを落とすわけにはいかないから、耳を塞ぐことは出来ない。そんなみっともないことは、しなくて済む。代わりにきつく目を瞑った。上手に笑う準備をする。仕方ない。そうだ、仕方がないんだ。だから早い方がきっといい、


「そりゃ、名字はサボろうとして寝てるわけじゃねーし」


目を開けた。時間が止まったみたいだった。
ウワンウワンと耳鳴りがする。いまなんて。このひと今、なんて言ったんだ。


「もしそうならわざわざノートなんか開かねぇで、最初っから突っ伏して寝てんだろ」

どこの誰も口にしてくれなかった幻みたいな台詞が、今日の曜日を答えるのと同じくらい当然みたいに、目の前にポンと差し出される。
私の何を知るわけでもないはずの同級生が、自分でも考えるのもやめてしまったような自己弁護を、いともあっさり言葉にしてしまった。

言葉どころか息も出なかった。酸素と一緒にまばたきも忘れてしまった両目で見詰めた、きつめの猫目がそろってこちらを向く。続いた会話はノートを返すための事務連絡で、重ねた言葉はわずか数度で、けれど、だから、その瞳の方がずっと雄弁だった。

しゃんとしろ。

背中を叩かれた。なんでもかんでも諦めるクセを一喝されたんだと思った。
へらへら笑って済ますなと、やましいことが無いのなら堂々胸を張ってろと、目だけで叱り付けられた気がした。

そんな意図はなかったのかもしれない。黙りこくってる私にイラッとしただけかもしれないし、私の勝手で都合のいい拡大解釈でしかなかったのかもしれない。むしろ多分そうだと思う。

でもそれは間違いなく、私の人生で一番の衝撃で、世界が変わった瞬間だったのだ。




XXXX




「岩泉、あのね」


下駄箱にでも突っ込んどけ。そう言われたノートを抱えて、下駄箱前で彼が来るまでずっと待っていた放課後、やってきたジャージ姿の彼は私を見つけてとても驚いた顔をしていたと思う。

思う、というのはその時の私は自分のことで精一杯で、彼がどんな顔をしているかをまじまじと見る余裕も、一緒にやってきたチームメイトさんたちを気にする余裕もまるで持ち合わせちゃいなかったからだ。
ただへらり、いつもみたいに笑って、それでもノートに染みを作ってしまった涙の数だけはちゃんと覚えている。

「あのね、私ね」

言いたいことは半分も言葉にならなくて、そもそも言いたいこととただ思っただけのことの境目もはっきりしていなくて、ただずっとそうだったんだと噛み締めるほど理解した。

わかってほしかった。どうしようもなさとか、寂しさとか、諦めたものとかなくしたものとか、それでも頑張ってきたことを、本当はずっと誰かに認めてほしかった。でもそれも諦めた。諦めたことさえ忘れてしまっていた。

岩泉の言葉が開けたのはその全部の蓋だった。当然のように、それこそあっけなく開けてしまったのは彼自身なのに、ぜんぶで九つの染みをつくった私を前に、岩泉はひどく慌てていた。

「待て、泣くな、ノートならまた貸してやるから」

その見当外れの慰めがあまりにもおかしくて、同じくらい心に沁みて、私は追加でもう二つ染みをつくることになった。でもその時には半分泣いたまま笑っていて、岩泉もそれを見て、見たことがないぽかんとした顔をしていた。

それからさっきよりほっとした風に、けれどちょっと怒ったように彼が言ったことを、私はもうよく覚えていない。それはとても残念なことで、でも仕方のないことだった。その遠慮のない呆れ顔がなんだかひどく温かかったものだから、そればかりを心に焼き付けておこうと、私はそれに一生懸命だったのだ。


170629

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