short | ナノ


▼ 代役を所望する!



「待ちやがれ!」

ぐわし、ばき。

擬音化するならまさにそんな鈍い音を立てた右肩に、何がどうしたとか思うよりああ今骨死んだと軽い絶望に襲われる方が早かったのは仕方ないだろう。そして「何がどうした」という正常な思考回路が戻ってくる頃には、私の視界は右肩から強引に反転させられていた。

がらん、手に持ったバケツと掃除用具が大きな音を立てる。大勢とは言わないがそれなりに存在する廊下の生徒の目が一気に集まるのを感じた。しかし私とて今は周囲に構っていられない。さすがにこの随分と手荒い待遇には思わず顔をゆがめ、一体なんだと視界を瞬かせれば、目前には男子用のネクタイとシャツ。視線を持ち上げれば、どういうわけか烈火の如く怒れる同級生の顔が飛び込んできた。

「え、なん…」
「しらばっくれんな!」
「!?」

えっちょっと待ってくれ、待ってくれ。頭の中の名字さんが理解の追いつかないエマージェンシーを前に走り回っている。ちょっくら整理しようじゃないか。

目前にいるのは確かバレー部の副将、岩泉一。彼自身と接点はないが、何かと有名な同じくバレー部のキャー及川サーン(同クラ)と幼馴染で部活でもコンビという立ち位置故、面識はなくとも顔と名前は一致する。もう一度言うが私と接点はない。大変お顔の整った幼馴染を容赦なく蹴り倒す様と、体育祭なんかでその幼馴染をゆうに超える見事にヒーローな活躍をすることで、学年を超えてそれなりに有名な人物だ。もう一度言おう、私と接点はない。

つまりトイレ掃除終わりに掃除用具をひっ提げて備品補充にゆかんとしていた真面目な一モブに、彼をこうも鬼神の如く怒らせる罪科などあるはずがないのである。

「てめぇ、さっきは良くも…!」
「さ、さっき…?」

えっ私トイレ掃除してただけじゃね?しかもそれ女子トイレだし、そりゃ他の子がお喋りしてたとこ邪魔したくらいはしたけど、それが男子たる彼にどう関係するんだ?確かに便器磨きに本気出し過ぎてブラシ一本折っちゃったけど、それを詫びに行くかつ新しいのギブミ―と頼みに用務員室まで行くつもりだったんだけど、仕方なくない?あのブラシもう寿命だって、おじいちゃんブラシだったんだって。もう引退…えっもしかしてそれがアウト?有終の美を飾らせてやらなかったから?

「ごめ、ちょっと本気出し過ぎて…」
「ああ?」

やっぱ違いますよねー!もうやだこの視線人殺せるんじゃない?むしろ私死ぬんじゃない?おじいちゃんブラシと運命を共にするってか、むしろこれはブラシの復讐か。やっぱりじゃあ有終の美を飾れなかったのが原因なのか?ていうか肩、肩がマジで痛い。みしみし言ってる。とりあえず逃げないから離してくれ頼むから。

「あの、肩、肩が…っ」
「逃がすかよ、今日こそ落とし前つけて…」
「はじめくんッ!!」

跳ね上がる肩、緩む拘束。廊下を突き抜けた声が目前の般若の背中に衝突するのが目に見えた気がした。
思わずと言った様子で背後をふり向く岩泉くんの肩越しに見えたのは、道行く人にぶつかりかけながら転がるように走ってくるこれもまた同級生の女の子。

必死の形相で駆けてきて私たちの傍で急停止した彼女はしかし、どういうわけか頭からずぶ濡れだった。色を変えた制服のまま肩で息する姿に仰天する。どうしたんだその格好。
思わず痛みも忘れる私も髪から滴る雫も気にせず、本当は綺麗に整えてあったはずの髪の下、可愛らしい顔を焦燥にゆがめた彼女は、私の肩を圧迫していた岩泉くんの腕に猛然と掴みかかった。

「何してるの…!名字さんを放して!」
「お前待ってろって…つーかそもそもコイツが、」
「違うってば、名字さんは関係ない!」
「エッ関係ないの?」
「え?」

アッやっべえ墓穴掘った。ぽかんと私を見詰める彼女と一瞬呆然と見つめ合って思う。瞬時に降ってきた射るような視線が猜疑の色を取り戻すのを感じ、己の迂闊さを盛大に呪った。ああもう母ちゃんのバカ、私を嘘が吐けないように産みおって!嘘嘘ホントは感謝してる!

「やっぱりコイツに、」
「ッ違う!勘違いだってば、名字さんが来てくれたからこれで済んだんだよ!名字さん何もしてないよねッ?」
「エッ何もしてないの?」

万策尽きた感が凄まじい。頭の中の名字さんが路頭に迷ってギャン泣き一歩手前である。いやいっそ現実でも座り込みたい勢いである。
しかしそんな私の大混乱は頭上の般若殿にも伝わったらしい。剣呑な気配を残しつつも、幾分抑え気味の声で岩泉くんが尋ねてくる。

「じゃあさっきの、『本気出し過ぎた』ってのは何だったんだよ」
「いや、折る気とかなかったんだけど、本気で磨いてたらこう」
「は?何の話を、」
「トイレブラシの話じゃないの!?」
「「!?」」

ヤダもう詰んだ。ブラシの話じゃないなら何なの。脳味噌がギャン泣き通り越して炎上しそう。何もう私何に巻き込まれてんの終ぞ理解がついてこない。
カラン。間抜けな音を立てて自己主張するバケツの中の折れたブラシとその柄に、二人の目が仲良く落ちる。その二対の瞳が全力で途方に暮れた顔の私を映して混乱ここに極まれりという顔をするのを見ながら、私は掃除終了のベルが鳴る音を聞いた。






「スマン、本ッ当に悪かった!」
「あ、うんいいよ」
「!?」

がばり、勢いよく下げられた頭が間を置かずして上げられる。浮かんだ表情が今コイツなんつったと語るので、「うんいいよ」と言い直せば、ますます耳を疑うような顔をされた。え、そんな変なの?だって謝ってくれてるし。相場ってもっと根に持つ感じなんだろうか。標準価格がわからない。

「あの、私が言うのもおかしいんだけど、それでいいの名字さん…?」
「エッ駄目なの?」
「…いや、駄目じゃないよ…」

なんだかすごく疲れた笑みを浮かべさせてしまった。こんな可愛い女の子に実に申し訳ないことをした。ごめんね平熱思考で。友人にはよく「お前の怒りスイッチはどこにあるんだ!」と言われる。おへそから南南東に指二本と答えたら脇腹をどつかれた。あれは痛かった。
閑話休題。


とにかくずぶ濡れの彼女を着替えさせねばと移動した保健室、保険医不在のそこで着替えの終わった彼女から受けた説明はこうである。

まず一つ、彼女は隣の岩泉一およびその相棒として知らぬ者はいない及川徹の幼馴染であるという(「って言っても、二人と違って私は小学校からなんだけど…」と眉を下げる彼女は大変可愛らしかった)。
そして二つ、そのポジションゆえに彼女は特に中学以来、要らぬ勘違いを起こした一部の女子から嫌がらせやいじめまがいの仕打ちを受けてきたらしい(「それもこれもクソ川が考えなしにコイツに構うのが悪ィんだよ」と岩泉くんは盛大に舌打ちして言った。超怖かった)。
からの三つ、基本的に大ごとにしたくない彼女はそうしたイザコザを黙って凌ぐことが大半なのだが、最近かなり過激な女子一派が嫌がらせを激化させており、他クラスの及川くんはともかく同じクラスの岩泉くんには隠し通せず見抜かれたという。

ホッホウなるほど幼馴染の男子二人(正確に言えばその片割れのみ)ゆえに他の女子に絡まれる可愛い女の子か。なんだもうそのお約束展開。どこの少女漫画だ。なんで私が主人公なんだ。メタ発言だって?この際何でもいい。言うべきことはただ一つ、さあヒロインをチェンジせよ。
閑話休題。

ともあれそれ以降岩泉くんは、彼の目の届く範囲限り最大限――相手方を過度に刺激せず、また大ごとにしないように細心の注意を払いながら――彼女を庇うべく牽制と威嚇を続けてきた。
だがしかし当然ながら細々した嫌がらせを防ぎ切れるわけもない。男子の介入が火に油となることはすでに中学にて経験済み、表立って糾弾するまで踏み込むことは憚られた岩泉くんの迷いを賢しい女子共が見逃すわけがない。及川くんに告げ口する可能性もないとわかれば彼の牽制も効果は半減しただろう。

だがそもそも人一倍正義感が強く、かつ即断即決即行動が基本(と評判の)彼が陰湿を極める女子の手口に義憤を募らせるのは必然だ。大ごとにしたくないという彼女の懇願が無ければすぐにでも殴り込み…はせずとも怒鳴り込んでいたところ、最大限自制して事に当たっていたに違いない。
そしてその彼の堪忍袋の緒を断ち切ったのが、

「私か…」
「イヤ、悪かった、マジでスマン」

状況は最悪だった。
一人トイレに立ち寄った彼女の後をつけた複数の女子は、人目のないそこで彼女にいわれのない中傷を投げつけ、あまつさえ最後にはバケツ一杯の水を浴びせかけた(それも雑巾を洗った後の!)。それでも飽き足りぬ性悪共がさあ二杯目をと蛇口を捻ったその時、その修羅場に現れたのが何を隠そうこの私。

まさかそんな壮絶ドロドロのいじめ現場に迷い込んだとは露知らず、バケツに水をため始めていた女の子たちを前にもしや掃除仲間かと暢気に礼を言い(今思えば彼女らは凍り付いていた)、何の疑いなくそのバケツを受け取って(というよりむしろ強奪し)、「いいよーここ私洗っとくからー」なんてなんならちょっと良いことした気分で便所掃除を引き受けた(成り行きで連中を追い払った)挙句、誠心誠意便器を磨き、その熱意ゆえに引退寸前のボロブラシの柄を折って、やっちまった仕方ないと用務員室目指して意気揚々トイレを後にして。
そしてそのほぼ同じタイミングで、彼女が戻っていないことに気付いたのが岩泉くんだったのだ。

「姿が見えねぇから嫌な予感がして、廊下に出てみたんだよ」

嫌がらせの定石スポットとして最も近いのはやはり女子トイレ。無論女子トイレに立ち入るわけにはいかないので入口付近で様子を見ていれば、案の定ずぶ濡れになった彼女がこっそり出てこようとしたところで。

その姿を見た瞬間彼がキレたのは致し方ないことだろう(なんせ私も驚いた酷い状態だった)。これまで我慢してきた怒りが爆発した彼には瞬間的に思い当たることがあった。

そう、皆さんおわかりだろう。女子トイレから出てきたところを擦れ違い、何食わぬ顔で廊下を遠ざかろうとしていたモブwithバケツ。

「今思えば犯人がバケツなんて証拠抱えて廊下歩いてるわけがねーのに、つい頭に血が上って、」
「ホントにごめんね名字さん、私がはじめくんにすぐ言わなかったら勘違い起こしちゃって、」
「あーそりゃ間違えるわ。カモがネギしょってバケツinだもんね、私だったら火にかけてるわ」
「「!?」」

むしろ振り向きざまに一発殴られなかっただけ儲けものである。あっでもそれしたら部停とか大会出場停止になりかねないからアウトか。よく自制してくれてよかった、流石にあれだけ人の目があればその理由がいじめであっても勘違いであっても職員室送りは回避できまい。

「ていうかごめんよ、私ほんと頭回ってなくて全然気づいてなくて」

そもそも私がトイレに入った瞬間機転を利かせてイジメ現場を見抜けていれば、連中を追い払い彼女をこっそり連れ出して穏便に保健室へ向かうこともできていたはずなのだ。代わりに私がしたことと言えば暢気に便器を磨きブラシを一本駄目にしたことである。生産性の欠片もなかった。実に申し訳ない。

そう言ったところで私は凍り付いた。目の前で呆然としていた(だがそんな顔も可愛い)女の子の大きな瞳から見る間に潤み、次の瞬間ぼろり、大粒の涙がこぼれ落ちたのである。

「ぇうっ!?エッ待ってごめん何した!?」

本日最大のエマージェンシーに頭の中の名字さんが悲鳴を上げて卒倒した。いや卒倒するな起きてくれ、せめて走り回るくらいの努力はしてくれ!

「おっちょっ泣かっ」
「ご、ごめん、違うの…っ」
「待って私美人の涙に弱いの、エッどう償う?腹切る?首吊る?」

切腹なら介錯人は岩泉くんにお願いするとしよう、彼ならきっと一思いに斬ってくれそうな感じするよね!よし来い!

「…っふ、ふふ、あはは…!」
「!?」
「おま…っふ、あークソ、」

なんだなんだ二人して。泣きながら笑い始めた彼女と、その隣で顔を背け、肩を震わせる彼の姿に一瞬呆然とする。ぽろぽろと零れる涙をぬぐいながら、彼女は笑い冷めやらぬという様子で、しかしやはり潤んだ声のままぽつぽつ語った。

実は今、片想いをしている相手がいること(少女漫画路線の定石を逸する事態に勝手に驚いた)。しかしその相手はいつも及川くんと彼女の仲を冷やかし、自分など眼中にいないこと。そうしていれば女子の一団から、及川くんとその彼とに二股をかけているとか、思わせぶりに振る舞っているとかとあらぬ噂を立てられたこと。その噂を信じているわけではないらしいものの、周りの目もあって最近は自然に接することすらできなくなっていること。

努めて明るく、しかし隠せぬ涙声で語られたそれを聞いて一番初めに思ったことを正直に告白しておこう。ヒロインをチェンジせよ。
それはこの際置いておくとして、むくり、起き上がった頭の中の名字さんが何事かを思い出そうと駆けまわり始めている。どこかで聞いたぞそんな少女漫画ストーリー。いや違う、実際漫画で読んだとかそういう話じゃなくてだな、なんせ私は少年漫画生まれのジャンプ育ち…あ。

「…あのさ、つかぬことをお聞きするんだけど、その相手ってバレー部の人だったりする?」
「え?」
「ちなみに同級生」
「…え、名字さん、知ってるの…?」
「ポジションは?」
「WS」

反射的にと言った具合だろう、答えたのは岩泉くんだった。その答えに確信する。

「特定した」
「は?」

ポケットに突っ込んだスマホを取り出す。ちょうど五限目終了を告げるチャイムが頭上で鳴り響いた。ラインを呼び出し、名前をタップして、無料通話画面を引き出す。そのまま耳に当ててコール。出ない。切ってもう一度コール。出た。

『…名字?いきなりどーした、つーかお前さっき岩泉と何かあったって…』
「よし花巻、今からする質問に答えろ」
「「!?」」

ぎょっとした様子でこちらを見た幼馴染コンビ(ただし阿吽ではない)を無視し、私は通話をスピーカーモードに移行させる。

『はあ?なんだよいきなり』
「花巻の片想いの子ってさ、超可愛い子だよね」
『は?』
「マルかバツかで10秒以内」
『いやだからマジ流れがわかんねーんだけど』
「はいじゅーう、きゅーう、はーち、」
『マルに決まってんダロ』

ッかー即答かよこれだから恋するDKは!という茶化しはこの際割愛する。

「が、しかしその子には超イケメンの幼馴染がいる」
『…まあ、そうだけど?』
「かつどうやらその子はその幼馴染と良い感じである」
『……名字お前何?わざわざ人の心抉りに来てるわけ?』

届く声が不機嫌に低まる。うーんこれはなかなか地雷を踏み抜きに行ってるな私。まあ基本常に聞き役だしあんま余計なこと言ってこなかったから、いきなり不躾に突っ込まれて不審に思っている節もあるだろうけど。
だがここで心を折っている場合ではない。私の推測が正しければ、ヤツは私にこの先一週間シュークリームを献上しても不当ではない恩を私に負うに違いないのだ。いや別に要求しませんけれども。私はシュークリームよりピザまん派だ。

「ゆえにその子の前では精一杯幼馴染との仲を冷やかすことに決めている」
『だったら何だよ、ヘタレってのは聞き飽きて―――』
「ちなみにその子のお名前は?」
『だから、………おい、名字、今そこ誰がいる』

おや気づかれた。さすがに勘の良い友人である。だがしかしもう遅い。

私はちらり、沈黙を守る彼女の方を見やる。呆然とこちらを見詰める彼女の頬をじわりじわりと染める赤。その大層可愛らしい女の子の表情に、思わずへらりと笑って聞いた。

「ビンゴ?」

ぶわり、耳まで真っ赤に染め上がる顔が声にならない悲鳴を上げる。勢いあまって堪らずといった具合で隣にいた岩泉くんに飛びついた彼女を、きっと昔からそうしてきたのであろう、何の難なく受け止めた岩泉くんもまた、驚愕を隠せない顔でこちらを見詰めていた。「まじかよ…」うん、まじまじ大マジ。

『バッカ名字お前まさかッ…!』
「諦めろ花巻、男は度胸だ」
『はあ!?』
「保健室な。40秒で支度しろ」
『飛行石がねぇよ!!』

教室の喧騒に混じって叫ぶ友人の声を無視して通話終了ボタンを叩く。安心しろ、空飛ぶ島は存在するぞ。私はそう信じてる。
ぶつり、途絶えた通信にスマホをポケットにねじ込んで、ふと思い至って不安になり、私は幼馴染ズに向かって尋ねてみた。

「え、どうしようこれって二股疑惑深めたりする?」

真っ赤になって沈没する返事の無い彼女の代わりに岩泉くんが肺の空気を空っぽにするようなため息を一つ落とす。「マジかよお前…」うん、まじまじ大マジ。






「上手く行ったかな?」
「…まあ、アレで上手く行かなかったらそれこそ事故だろ」
「あー確かに、高速逆走するレベル」

クラッシュ必須の大惨事だね。神妙に頷き同意するも返事がない。どうかしたかと見上げれば、このわずかの間に何度見たか知れないどうとも言えない微妙な表情がこちらを見下ろしていた。どうも私はこの人を返事に困らせてしまうのが得意らしい。

無理はじめくん私死ぬと真っ赤な顔で取り乱し背中に隠れんとする可愛らしい幼馴染さんを、阿呆言ってんなと黙らせた岩泉くんが保健室に置き去りにし。
息を切らしてやってくるなりお前いきなり何して云々と苦情を浴びせる隣席の悪友を、文句は後で聞くからヘタレ卒業して来いと私が保健室に押し込んで。

そうしてなんとない流れで一緒に教室へ向かい始めた隣の彼は、私の相槌に返答を帰すことなく、徐に立ち止まるとぐっと背筋を伸ばしてこちらに向き直った。
そうしてそのままもう一度、保健室でそうしたのよりずっとフォーマルに、その長身を90度に折り曲げる。

「名字、改めて、本当に悪かった。ひでぇ勘違いだった」
「や、もういいって、そんな深刻なアレじゃないし」
「右肩」
「、」
「痛めてるだろ、本当は」

見抜かれていた。咄嗟の切り返しが出来ず、詰まった沈黙が差し向けられた断定を肯定してしまう。
右から左へ持ち替えたバケツへ視線が落ちるのを察し、言い逃れできず言葉を濁した。

「まあ、ちょっと痺れてはいたけどそれだけで…」
「自慢じゃねぇが、握力は学年トップなんだよ」
「あーどうりで、……おっふ」

納得したところでフリーズする。墓穴掘った。マジで恨むよ母ちゃん以下略。
どうするどう繕うとぐるぐるしていれば、はあ、と再び大きなため息を頂戴する。面目ないと縮こまれば、いやそうじゃなくてなと否定された。そのまま一瞬考えるように口を噤んだ彼が、独り言のようにこぼす。

「保健室―――はまだ無理か。なら、」
「っちょ、」

唐突に伸びてきた手に左腕を取られる。手首でなく肘を引いた大きな手に抗う間もなく、傾く体が自然と足を踏み出した。そして驚く。掴むとも呼べない強さで腕を囲う手は、小一時間ほど前に右肩の骨を軋ませた手と同じものとは思えなかった。

「職員室寄って湿布貰うぞ」
「や、そんな大袈裟な話じゃ…」
「俺の気がすまねぇんだよ。頼むわ、付き合ってくれ」

渋い表情はバツの悪い心境を代弁しているのだろうか。確証はないものの、ちらり、寄越された視線の苦い色には評判通りの義理堅さが滲んでいる気がする。気遣わしげに囲っただけの指先が力加減に苦労しているのは見て取れた。幼馴染さんを難なく受け止めていた様子から、失礼ながら意外にも器用な方なのかと感心していたが、どうやらあれは気心知れた相手限定の自然な対応だったらしい。本質はきっと印象通りそう器用な性質ではないのだろう、そのぎこちなさが可笑しくて笑った。

「…オーケー、じゃあ湿布貼ったらもうチャラね」

瞬き二つ、驚いたようにこちらを見詰めるきつめの瞳を見上げ、それが存外大きな猫目であることに初めて気付く。かと思えばふっと緩んだ面持ちに、やはり呆れと、しかし初めて余計な遠慮のない気の抜けたような笑みが浮かんだ。

「…ヘンなヤツ」
「それよく言われるんだよ、二時間に一回くらい」
「尋常じゃねぇ頻度だな」

可笑しそうに笑った彼に同じように笑って返す。しかしこの後、辿り着いた職員室にて仰せの通り湿布を貼るべく緩めたシャツの下、見事な痣としてくっきり浮き上がった指跡を前に皆して仰天、先生方が家庭での虐待を疑い、岩泉くんが真っ青な顔で「名字スマンッ責任は取る!」と口走り、幼馴染さんの一件を聞いてジャストなタイミングで職員室にやってきた及川くんが「エッ嘘岩ちゃん待って、結婚は18ッ…アッもう超えてる!?」と壮絶な勘違いをかまして更なる混乱を巻き起こすことになろうとは、この時の私はまるで想像もしていなかったのである。


170310
いっそお相手は花巻さんにした方がしっくりくるトンデモ仕様。主人公のテンションが醤油すぎて糖分投与の余地がありませんでした…

prev / next

[ back to top ]



×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -