short


▼ Don't let me repeat that.


「…え、もしかしてマジで覚えてない?青城バレー部の、」
「覚えてますじゃあさようなら」
「ちょっストップ待って待って!」

へらへら笑う友人の首根っこの代わりにマフラーを掴み、カエルが潰れたような声を無視して力ずくで引き寄せる。踵の低いエンジニアブーツを選んで正解だった。小柄な女子とはいえ同い年、しかも足腰が使い物になっていない成人を支えるにはそれなりに骨が要る。

確かコイツ大学近くのマンション暮らしだったな。部屋番号何番だっけ。この時間じゃ管理人もいないだろう。いやこの際なんでもいい、とりあえず鍵出させてオートロックのロビーに乗り込めばこっちの勝ちだ。
そこまで淡々と考えていた思考は掴まれた肩ごと無理やり引き戻された。

「待って誤解!誤解といてから行って!」
「何も誤解してないから離してくれる?あと持ち帰るなら他の子にして」
「間違いなく誤解してるしタクシーなら後で俺が呼ぶ。それから俺も岩ちゃんも持ち帰りなんてしようとしてないし、岩ちゃんに関しては俺がさっき呼んだだけだから合コンに参加してすらないよ!」

がつん。懐かしい声が変わらぬトーンと慣れた様子で紡いだ愛称に、ではやはりそうなのかとようやく現実と対面した。
頑なに目を向けずにいた及川の肩越し、数歩後ろで黙したままマフラーに顔の下半分を埋める青年は、確かに私の知る高校時代の面影を残した同級生の男の子に違いないのだ。

「ッ」

一瞬噛み合った視線から逃げたのはほとんど条件反射だった。心拍数が深夜テンションで誤魔化せないレベルに来ている。最後の会話がいつだったかは覚えていない。ただあの日、彼に好きな人がいると知った日以来、私は彼との距離を開け、意図して避けるようになった。

「ええーやだやだ、放せよ名前ー、二次会行くっていったじゃ〜ん!」
「…行かない。ほら帰るよ、タクシー待たせ、」
「ええ〜なんでさ、せっかく会えたんじゃん?」
「、」

にへら、と笑う友人を一瞬じっと見下ろした。こいつまさかわかってて。いやでも目は潤んでるし顔も赤い。酔ってるには酔ってるはずで、

「オッケー、それじゃあ俺がこの子を送ってくからさ、名字は岩ちゃんに送って貰いな」
「っはあ!?何言って、」

どういうつもりだこの男。反論が唇に追いつく間もなく腕の中から重みが消える。私がやっとの思いで支えていた友人を軽々支えた及川が、迷いのない足取りで大通りへ向かうのをほとんど反射で振り仰いだ。けれどそれを見越したかのように、肩越しに振り向いていた整った横顔が先手を打つ。

「安心してよ、元同級生の友達を持ち帰るほど腐ってないから」
「そういう問題じゃ…!」

大体なんでアンタが私の友達を送る必要がある、私とアンタは面識があるがソイツとアンタは初対面だろう。返してくれ、そんなでも私の大事な友達だ。言い募ろうとした私の口を縫い止めたのは、背後からの予想外の援護射撃だった。

「おいクソ川、余計なことすんな」

記憶のそれより深みを増した耳ざわりよく通る低音。昔と変わらずぞんざいに響く不機嫌で素っ気ない口調に、吸った息がひゅっと音を立てた。
及川が一瞬私を見たのがわかる。マフラーでは隠しきれない表情筋の強張りは多分筒抜けだったはずだ。だが彼は何も言わず、友人をタクシーに乗せながら平然と返した。

「余計も何も、名字とこの子んち方向真逆だから。この時間から送ってたら終電なくなるでしょ。逆に俺んちは方向一緒だし」
「ンでお前がそんなこと、」
「この子が話してたんだよ。話題の半分名字のことだったから、家の場所から好きな学食のメニューまで把握済みだよ」
「ねえ待ってそれ何の合コン?親同士の見合い会場?」

一体どういう流れから私の煮ても焼いても食えない灰色のキャンパスライフが酒の肴になったのか。アジの竜田揚げが好きな女子の話でどう盛り上がるんだ。衝撃の再会のシリアスに浸る間もなく広がる謎展開でツッコミが追いつかない。なんだこの事故現場。

「とにかくそういうわけだから。岩ちゃんバイクでしょ?名字のこと送ってやって」

ここまで来るのにもお金かかっただろうし、なんて一言を加えられるあたりが記憶に違わぬ及川らしい。相変わらず恐ろしく気の回る男だ。
言葉を失い棒立ちになる私の耳を、一拍遅れて短いため息が掠める。まさか、半歩引いて振り向いた先、片足に体重を預け、ポケットに手を突っ込んだ彼が、ぐるぐるに巻いたマフラーから白く息をこぼすのが見えた。諦めたような呆れ顔、だろうか。ともかくそれを見た及川は、満足したように笑うとタクシーに乗り込む。

「じゃ、またね名字。ちゃんと誤解といてくんだよ」
「っ…?」
「岩ちゃんは明日な。駅前7時!」
「…おう」

バタン。呆気なく閉じたドアと共にタクシーは大通りを走り去ってゆく。随分な待ちぼうけを食わせながら待っていてくれた運転手さんにお詫びを言えなかったことに気付いたのは数秒後で、まだ人気の絶えない往来に残されたのが彼、岩泉一と、私の二人であるという現実に向き合えたのはさらにその数秒後だった。

「…あー、」

及川はああ言ってたけど、終電までまだ時間あるし、駅までそう遠くないから。よしこれで行ける、思って準備した体の良い断り文句が音になるより早く、被せられたのは心臓を貫く低音だった。

「家、どっちだ」
「!」

内心を見透かされたようだった。余計な遠慮を突っぱねる端的な問いに、用意した言葉は呆気なく藻屑と化す。繕いきれない平然と共に最寄りの駅名を告げると、「駐車場まで歩くけどいいか」と尋ねられる。…私を送ってくのは決定事項らしい。私が頷くまでじっと待っていた岩泉が向ける背中で、空気が軋む音が聞こえそうだった。


並ばず歩いていられるのは不幸中の幸いであり、同時に嫌というほど高校時代を思い起こさせた。彼の一歩は歩幅が広くて、初めは並んで歩き始めても結局は一歩半あとからついてゆくことになったものだ。
男バレと女バレ。私は主将でも副将でもなかったが、同じ競技に三年を賭ける者同士であることを差し引いても、部として仲は良かったと思う。メンバーはまちまちだったがご飯に行ったりコンビニに寄ったり、打ち上げに混ぜたり混ぜてもらったりもあった。

岩泉とは一年の時から部員伝いなんかで面識があり、親しくなったのはクラスが同じになった二年の時だ。好きになったのはその終わりで、彼に好きな人がいると知ったのは三年の春。関わりを断って避けるようになったのはそのすぐ後からだ。

今思えばなんてチキン。随分な意気地なし。友人に言わせれば健気な乙女だ恋する女子だとえらく綺麗に名づけられたが、断じて言う。私など単なる根性なしで十分だ。

あれ、でも。並んで歩いた記憶と重ねてふと気づく。確かに高校生だった時分と同じように少し後ろを歩いてはいるが、小走りにならなければついていけないなんてことはない。
それに気づいてはたと顔を上げたのを気配で察したかのように、前を向いたままだった彼が、こちらを伺うように首を捻じった。咄嗟に俯いたがそれには及ばず、岩泉は完全に振り向くことなく、少し間を空け、やはり放り投げるような口調で言った。

「…悪かったな、クソ川が」
「え、…ああ…いや、むしろ助かったかも」
「?」
「及川じゃなかったらあの子、本当に持ち帰られてたと思うし」

いろいろ言ったが友人のことは大事だし、及川もあれでちゃんとしたヤツだ。同意なくして馬鹿をするようなヤツじゃ決してないし、もしそうなら岩泉が黙っていなかったろう。この二人の絆がコートの外でも固く深いのはバレー部内じゃ周知の事実だ。

「普段からネジ足りてないのに、アルコール入ると余計ゆるゆるになるんだよ…」
「…それは頭の話か?」
「…駄目だ頭以外も足りてない気がする」
「随分辛辣だな…まあ、名字のダチには珍しいタイプには見えたけど」
「開拓された感じはするね」

一度口火を切ってしまえば自然に続いた会話がふと途切れる。そして気づいた。多分これは、序章とか前置きとか、そういう類の数分間だ。当たり障りのない世間話の切れ目に本題に入るきっかけを探るような、そういう。

「高校ン時」
「、」
「俺、やっぱお前になんかしたか」

ほら、やっぱりそうだった。思わず足が止まる。気づけば人気のいない路地に入っていた。数歩進んだところで岩泉もまた足を止める。くるり、やはり完全に振り返ることなく、直角に体の向きを変えた彼の精悍な横顔が、冴え冴えと落ちる街灯の白い光に照らし出された。相も変わらず、むしろ昔に増して悔しいほど格好良い。その視線が前を向いたまま、私を見ていないことが唯一の救いだった。

俺、お前になんかしたか。

それは高三の夏、私を廊下で呼び止めた彼が言った台詞だ。
並んで歩いて他愛の無い会話をすることや、男女一緒に寄ったラーメン屋で隣に座ること、擦れ違いざま声をかけること。削り落としたのはそんな何気ない日常の接触だけで、皆が不自然がって尋ねてくることもほとんどなかった私の行動は周囲に向けては成功していて、けれど岩泉は――そして多分及川と、私の仲間のごく一部も――それにつぶさに気が付いていた。

体育館までの渡り廊下、眉間の皺とぶっきらぼうな声は確かに不機嫌そうなのに、同時にどこか拗ねた小学生を思わせるような立ち姿を思い出す。
私が返した台詞もその時ときっと同じになる。

「……どうしたの、いきなり」
「いきなりじゃなかっただろ」

ずっと避けてた。
間髪入れず返される。白い光に溶け込んで、彼の白い息がはぜた。否定できずに口を噤んだ。二年だ。むしろ三年の春からカウントするなら三年近くにもなる過去なのに。
痺れる手足も噛んだ唇も上手に話せない心臓も、未だにこうも生々しい。

「…何も。岩泉は何もしてないよ」
「じゃあなんで、今もそうなんだよ」

彼が口走った「そう」という言葉が、このどうしようもなくぎこちない空気を指していることはすぐわかった。今度こそ切る手札がなくなって黙り込む。二年経った。それでも感情が未だに温度を保つ以上、理由を口にできないことは二年前と変わらない。上手な言い訳すら思いつかないのに、上手な本音の告げ方なんてもっとわからない。

今でも好きかと聞かれれば首を傾げる、なんてよくも言えたものだった。首を傾げるどころの騒ぎじゃない。心も身体も細胞全部で認めている。覚えているし、忘れていないのだ。
はあ、と再び白い息がこぼされる。今度はさっきのそれよりずっと大きなため息で、私はぎゅっと唇を噛み締めた。

「…質問変える」
「…」
「お前、高校ン時好きだったヤツのこと、今でも好きなのか」

このタイミング、この言葉で、今日初めてまともに視線がかち合った。予想だにしない質問と、逃げることを許してくれない眼差しの強さに立ち竦む。
それをどこで。どうして今。浮かんだ疑問は一つじゃ足りず、けれど指先と同じくらい悴んで上手く考えられない頭に最後に残ったのは、これが潮時だろうという一言だった。

傷跡をなぞる。癒えた顔して少しも治っていなかったそれを清算する時が来ているのかもしれない。冷たく冴えた冬の空気をしっかり肺に吸い込んだ。

「…まさか」

もう終わってるよ。

あの何でもない日の休憩時間、及川相手に保つことのできたそれより、少しだけ上等な平然を被せて告げる。白く散る息と顔を埋めたマフラーで不恰好な笑みをくすませて、岩泉こそあの頃好きだった子はどうなったの、なんて朗らかに聞こうと唇を開いた時だった。

「そうか」

酷く凪いだ声だった。時に怒声で体育館を揺らし、時に背中を殴る様な喝を入れていたのと同じ声とは思えない静かなそれに、思わず顔を上げる。岩泉は身体ごと向き直り、真っ直ぐに私を見ていた。冬の夜空を溶かし込み、一番星を埋め込んだような双眸。その深みにすうっと吸い込まれそうな気がして、

「じゃあもう遠慮しなくていいんだな」

ぷつん。途切れる視線と翻る背中。右に折れるコートの後ろ姿が視界から消え、靴音が遠ざかる。僅かな物音と衣擦れの連続と共に、再び現れた彼の横には、鮮やかなブルーの中型バイク。
え、いつの間に駐車場に。待ってそれより今さっき。

「ん」
「……え?」
「ああ、被り方わかんねーか」

差し出された丸い何かが視界を縦断し、次いで頭に振ってくる軽い衝撃。ぎゅ、と頭を押し込まれた重たいそれがヘルメットだとわかったのは首元のベルトを調節された時で、体が動き出したのは腕を掴まれ惰性だけで座席をまたいだ時。状況は未だわからない。

「よし、じゃあ―――」
「ま、待って、ちょっと」
「ンな身構えなくてもヘーキだっつの。普段及川乗せたりしてるし、ちゃんと掴まりさえしてれば、」
「いやそうじゃなくて、さっきの!」

岩泉の動きがぴたりと止まる。数秒の空白、そして徐に手袋をはめる。衣擦れが耳をくすぐるほどの距離に今更気づいて眩暈がした。頼むからどうか前を向いたままでいてくれ。背中でも死にそうなのに、今振り返られたらそれこそ高校時代ですら経験したことのない至近距離による言語喪失は目に見えている。

そうなってしまえば最後、まさかそんな、なんて淡く抱くには火傷しそうなこの仮説を確かめることが出来ないじゃないか。

「さっきの…さっきの、撤回する」
「あ?」
「もう好きじゃないっての、撤回する」
「…それは、」

固くなる声、振り返る気配の温度が下がる。違うそうじゃないと言葉が出るより先に、コートの裾をきつく握りしめ言葉を封じた。誤解をとけ。及川が言ったのは私に向けてじゃない。私にも当てはまるが、彼はむしろ私より岩泉に向けて言ったのだ。

「だから、一切、遠慮なんかいらない」
「―――…、は?」

密度を上げていた空気が急速に渦巻く感覚。毒気を抜かれた感嘆詞が白くはぜる吐息に溶けた。答えることができない。察してくれ、でないとこれが限界だ。耳元で鳴るほど脈打つ心臓はすでに精一杯で、これ以上の説明はおろか一言だって出そうにない。

誤解をとけ。及川が言った意味を初めて悟る。及川の言う通りであるならば、私は、そして岩泉もまた、ずっと同じ思い違いをしていたことになる。
そしてきっと及川だけがその「誤解」を、恐らくはほぼ初めからただ一人理解していたのだ。

161006

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