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▼ Don't let me recall that.



『ねえ知ってる?岩ちゃん好きな人がいるんだって!』

人生で一度だけ、失恋の瞬間を味わったことがある。



自分のそれが一般的なものなのかどうかは知らない。ただ私にとってのそれはあまりに唐突で呆気なく、衝撃的で無慈悲だったのを鮮明に覚えている。否、私はそれを未だに、「覚えている」なんて生易しい言葉じゃ片づけられていないのだけれど。

とは言えあえてその語彙のまま言わせてもらうと、その日のことはよく覚えている。なんでもない日のなんでもない休憩時間、ヘーゼルの瞳をきらめかせた見目麗しいその男が、ふわふわの茶髪と一緒に弾ませた声で告げた悪意無き一報は、何の前触れもなく確かに私の感情を叩き壊した。

『へえ、』

そうなの。

呆気なく頷くことのできた自分の惰性にあれほど感謝したことはない。それ私に言ってどうすんの、なんて笑えたのはほとんど奇跡に近かったし、むしろ今思い出せば、思考回路と心臓を結ぶ神経がいろいろ麻痺してたのかもしれないなんて思う。その後続いた彼の追及に返事するだけの余裕があったのも多分そのおかげだ。

『え、名字は?いないの、好きな人』
『いるよ、ずっと』

たった今絶対叶わないってわかったけどね。
そんな一言は呑み込んだまま告げた返答に、彼の、及川徹の綺麗な顔から少年の様な笑顔が見る間に消えていったのを覚えている。それが何故だったのかは終ぞ知らないままだ。私は友人に呼ばれたふりをして、その場を立ち去ったからだ。

何となく誰かが気になることはあって、けれど告白どころか本当に好きかどうかわかるまでもゆかず、進学だのクラス替えだのでそのままゆっくり忘れてゆく。そんな恋とも呼べぬ感情をカウントしないのであれば、それは私にとって紛うことなく初恋で、彼は人生で初めて好きになった人だった。

告白することも付き合うことも考えたことはなかった。同じように、失恋することも想像したことはなかった。ただ好きだと、漠然とそれだけを抱えていた私は、突如降ってきた現実に対して驚くほど無防備だった。

幼すぎたのだと今ならわかる。当たって砕けるなんて発想も次の恋を探すなんて逞しさも皆無だった私に、残された成すべき術はなかった。ただ足元で粉々に割れた薄く淡い感情の残骸を握り込み、ようやく逃げ込んだ一人きりの部屋で、涙と一緒に気持ちが枯れるのを待つ以外出来ることなどなかったのだ。



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「そろそろさあ、腹くくったらどうなの名前?」
「安心して、余計なお世話だ」
「まだ何も言ってないじゃん!」

お決まりの様式美だ。返す台詞は決まっている。にも拘わらず同じ台詞で攻め込んでくる目前の友人に、私は一瞥もくれずに応答した。

「経験則から言ってその切り出しにはロクでもない招集しか続かない」
「しっつれいね、華の二回生にもなって彼氏いない歴絶賛更新中の親友に出会いの場所を設けてあげようっていう気遣いでしょ!?」
「よく噛まないね。将来は民放でアナウンサー?」
「ツッコミがズレてるもう一回!」
「私がいつお前の親友になった」
「予想外の方向かつガチトーンの指摘やめて。マジで刺さる」

人のことを言えないガチトーンで返してきた友人を無視して唐揚げを頬張れば、「ちょっと人が真面目に話してるってのに!」とボリュームを上げた声で詰られる。やかましい、食堂で騒ぐんじゃない。いやむしろもっと騒いで参加希望者でも募ればいいんじゃないか。そう言ってやれば頬を膨らませて睨みつけてくる。可愛い女子は何をやっても可愛く映るから得だと思う。騙されるつもりは毛頭ないが。

「だァってもう何年目?高校でしょ?18歳よ?もう2年とか潮時でしょ!」
「潮時も何も…別にそういうんじゃないし」
「はあ?引き摺ってませんって?何そのバレバレの虚勢。引き摺ってないなら次いってるわフツー!」
「普通の定義に謝れ。広辞苑にもだ」
「だからツッコミが斜め上過ぎる」
「あのね」

ぱちん、合わせた箸をおき、冷めた視線を真っ直ぐ向ける。途端に逃げる視線に構わずガン見すれば、友人は見る間にバツの悪そうな顔をする。そうとも、こういう手合いにはシリアスに首尾一貫した態度が一番効くのだ。

「何回も言ってるけど、それとこれとは話が別だ。きっかけがそこにあることは認めるけど、事実現状現時点、そういう面倒事に需要はない」

入学当初からの付き合いであるこの友人は誠に遺憾ながら、私が恋愛ごとを敬遠する理由を概ね知っている。基本的に付き合いやすく気のいい子なのは間違いないが、如何せん私には似合わぬイマドキの女子大生というか、とかくイケメンだ何だに騒がしく生きており、機会があれば私を合コンやら何やらに投げ込まんとするのだ。正直に言おう、いい迷惑である。

「恋愛が面倒だっていうの?」
「それが変だっていうの?」
「…」

冷静に切り返せば沈黙が返ってくる。無論本気で嫌悪しているわけじゃない。彼女なりに私を心配してくれていることはわかっているし、フットワーク同様に口も軽そうに思われがちな彼女がしかし、私の事情に関して誰かれ構わず言い触らすようなことを決してしたことがないのも知っている(であればとっくに友達なんてやめている)。

だが事実どうやったって「そういう」気分になれないのだから仕方ないし、別にそれで不便していないのでどうこうされる必要もない。引き摺っていると言われればその通りだ。今でも好きなのかと聞かれれば流石に首を傾げるが、全くどうでもよくなったかと言えば否定はできない。けどそれだけだ。

傷は癒えた。もう痛くはない。だから特別不便はなくて、でも傷跡が消えるにはまだ時間がかかる。
多分今はそういう時期なのだ。

「他をあたってきな。私じゃなきゃダメな理由なんてないでしょ」

黙り込む友人を前に、私はこの時疑いなく勝利を確信していた。
そして時間を巻き戻せるなら、私はこの時の自分を助走をつけて殴りたい。


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「えーと、名字…だよね?覚えてるかな、俺らのこと」

忘れるわけないだろうがこの唐変木。
そんな悪態を腹の底に沈めることが出来たのはやはり、ほとんど奇跡に近かった。



オーケー落ち着け私。状況を整理しろ。つまりこうである。あのしつこい友人の攻撃を躱してから一週間、いつも通り大学とバイト先と自宅戸を三角形で結ばんと帰路についていた夜11時。もう少しでいつもの大三角形(と呼ぶと友人には星座に謝れと言われる。お前は私のデイリーライフに謝罪しろ)が完成するという手前で鳴り響いたコール音に驚けば、スマホの液晶にはかの友人の名が煌々と浮かび上がっていた。

あれでそこそこ常識は守るヤツだ。この時間に電話するならまずラインに一言入れてくるはず。そんな友人からの突然の連絡に、何かあったのかと身構えたのも束の間だった。通話ボタンを押し、どうかしたのかと聞くより早く飛び込んできたのは、電話線を刻むような喧噪とそれに負けないハイテンションな声。

『あっ名前ー!?ねー聞いてよ今日の合コン超サイコー!みんな超イケメンなんだって、もーだぁから私おいでって言ったのにー!』
「うっ…るさいなちょっと声デカいっての!いきなり何、」
『あっこれからカラオケ行くんだけど名前来ない?二次会二次会!』

このバカ聞いちゃいねえ。
家まであと100メートルの路上で全力で頭を抱えたくなった。というか抱えた。心配した自分が馬鹿だった。だがすぐさまはたと脳みそは切り替わる。二次会って合コンの?カラオケって今からか。電話の様子からしてこのテンションの高さは場の空気によるものだけじゃない。間違いなく酒が入っている。目測からして泥酔二歩手前――――カモがネギしょって鍋インしてやがる。

美味しく喰われる5秒前。コンマ数秒で浮かんだ笑えないグルメ映像に表情が消し飛んだ。低まる声もそのままに告げる。

「…わかった。すぐ行くから場所教えな」

我ながらいっそブリザード級の声が出ていたはずだ。だがアルコールでネジの緩んだ友人に電話線越しで冷気が伝わるわけもなく、むしろさらにテンションを上げた声で現在位置を告げられた。場所は駅前、繁華街の中心部。ついでに言えば一本入った路地にはホテル街が広がっている。カラオケに入るより早いに違いない。

私は電話を切らないまま大通りに戻り、タクシーを捕まえ行先を告げた。なるべく早くお願いします。運転手に告げたそれが電話越しに届いたんだろう、友人は盛大な勘違いをかまし、「やだぁ名前乗り気じゃ〜ん、よかったぁやっと吹っ切れたんだねぇ」なんて嬉しそうにのたまうから頭痛がした。失恋克服だの二年越しの復活だのダダ漏れにしてくれるのはアルコールのせいだろう。覚えてろよ、いや忘れてても関係ない。あとでまとめてぶん殴ってやる。

だがまあそれを聞いた相手方がカモが増えると踏んで足を止めてくれるなら好都合だ。通りまで呼び出して見つけたら問答無用でタクシーに引きずり込んでやる。拉致誘拐?ドンと来い。

だが若干の深夜テンションに身を任せてブーツの紐とマフラーを締め直し、殴り込みをかける心持ちで現場に向かった私はしかし、指定されたバーの入口横にて、予想外の人物二名との邂逅―――正確には二年ぶりの再会を果たすこととなる。つまり冒頭に戻るわけだ。

160927
すみません多分続きます。

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