short | ナノ


▼ PM11:27


悪い癖だとはわかっている。

覗き込んだ時計は駅前を出た時点で11時を回っていた。出来るだけ車通りの多い道を通って、辛うじてコンビニに足を向けた。目についたものを適当にかごに突っ込んでレジに向かい、何が入っているのか自分でもイマイチわかっていないレジ袋を手に店を出た。

肉の内側の骨がカタカタ鳴るような足の浮わつきを堪えて、無理矢理いつも通りの歩調を被せて辿り着いたアパートを見上げる。散らかしたままの頭の中、気づいていながらそのままにしていた思考を一つ拾い上げた。彼女は今家にいるのだろうか。

スマホを取り出しラインを起動する。無料通話のコールボタンに指を伸ばして、寸前でタップするのを止めた。ツイッターを眺め、煮ても焼いても食えないようなネットニュースに目を通し、意味もなく潰した時間は多分、歩いた時間より長かった。

それでもコンビニにだって寄ったんだから。ネットのニュースよりくだらないそんな理由を繰り返してようやく、のろのろと階段を登る。そうして見慣れたドアの脇、小窓からはわずかに光が漏れていた。
ドア横に背中を預け、さっき閉じたアプリ画面を再び呼び出す。そうして吹き出しを一つ作った。今家いる?

十分経って既読が付かなければ帰ろう。決めて、スマホをポケットに突っ込んだその時、不意にドア向こうから足早な足音が響いてきた。
みるみる大きくなるそれに思わず身構えた瞬間、がちゃん、鍵音が大きく鳴り、間髪入れずドアが開いた。踏み出された裸足、それと一緒に突き出た首が、ぐるり、見回すように捻られる。そうして脇に立つ俺を捉えた名字は、瞳を大きく見開いた。

俺はアプリの画面を見る。吹き出しの横に既読の文字はない。通知を見て、それで出てきたのか。

再び名字へ目を戻すと、彼女は黙って俺を見詰めていた。その瞳が二、三度瞬きを繰り返す。
鼻だけで息をついた名字はけれど、まるでさっきからずっと一緒にいたように、会話の延長線に似た調子で言った。

「来る前に連絡しろって言ったろ」
「……わり、そうだっけか」

へらり、わざとらしく笑ってやれば、呆れたように笑われる。七分丈のパンツとシャツ、濡れている事が見てわかる髪。きっと風呂上りからそう経っていない。剥き出しの裸足はサンダルすらひっかけず、コンクリートの玄関にぺたりと乗せられている。

折れそうな細腕が重たいドアを広く開ける。玄関口から漏れる柔らかな光の中に佇む彼女は、靴裏に根を生やして立ち尽くす俺を振り向いた。きっともう日付が変わる。いつものように、彼女はあとはただ寝るだけだったはずだ。

それでもそれが当然のように、中に入るよう俺を眼だけで促す姿を、俺は何度見たってまじまじと瞼に焼き付けずにはいられないのだ。







「ご飯は?」
「食ってきた」
「風呂は?」
「ヘーキ」
「明日は?」
「昼から」

最後の返答には首だけで応じ、体ごとキッチンに向き直る。ケトルの湯がふつふつ沸き、テーブルに滑らせたマグがぶつかり高い音を立てた。緑茶やコーヒじゃ目が冴える。ミルクで割った温かいココアを入れようと決める。

そうして戸棚の奥からパックを出しながら、私は気付かれないようにリビングを伺った。ワンルームの隅のソファに長い脚を余らせ沈黙に佇む黒尾が、どこを見ているのかはわからない。
均整の取れた体格、艶のある黒髪から覗く切れ長の瞳、通った鼻筋と薄い唇。恵まれた容姿は黙ってたって人を引き寄せるには十分だろう。ついでに言えば恐らく、無用な厄介事を引き寄せるのにも。

彼は自分を語らない。私も聞いたって仕方がないと思っている。ただその完全な無表情は、先程のへらへらしたあの笑みがまるで作り物であったことを物語っていて、わかっちゃいるが相も変わらず器用過ぎるのも考えものだと息をついた。


黒尾は時折、そして大抵は夜遅く、突然うちにやってくる。

いつからだったかは正直覚えていない。ある時はつまみと酒を手に、ある時はDVDを小脇に、彼は思い出したようにふらりと私を訪ねてくる。
来てもらう分に不便はない。ただバイトが入る日もあるし、家にいたって振る舞うものが何もない時もあるのだから、せめて事前に連絡してくれ。何度目かの訪問で頼んだそれを守る代わりに、彼は次から必ずと言っていいほどコンビニで手土産を買ってくるようになった。
そうじゃないだろと突っ込んだものの、来るたびプリンやらケーキやらを無言で突き出す真顔はただの真顔ながら頑なで、ああこれはこのひとなりの何かがあるのだろうと、反駁は早々に諦めた。

ちなみに今日はチーズケーキとゼリー飲料、パックジュースとカレーパン。ジャンルがやたら自由過ぎるあたり、恐らく惰性で手に取ったものを適当に買ってきたらしい。となれば相当キているのか。

「ココアでいい?」
「…、おう」
「あと、いろいろありがとう。明日朝に食べようか」
「……」

レジ袋ごと揺らして告げれば、黒尾は何も言わず私をじっと見詰める。反応の鈍さは疲れか懸想かはたまた故意か。やはり私にはわからない。

淹れたてのココアを二つ運び、ラグに腰掛ければ、黒尾もまたマグを手に取った。マグを包んで余るほど大きな手と長い指に反し、湯気を立てるそれに慎重に息を吹きかける様は子供のようで、思わず綻んだ口元を隠すように私はマグに口をつけた。


飲み終えたのは案の定私が先だった。
マグを手にキッチンへ向かう。水を張った盥にマグを浸け、歯ブラシの予備を棚から出した。多分彼は泊まってゆくだろう。客用布団を準備せねば。

日付はとうに過ぎて一時に差し掛かっている。大学でもバレーに励む彼に夜更かしは良くない。そう思ったその時、不意に背後から伸びる手がもう一つのマグを盥の中に落とした。思わず肩が大きく跳ねる。気配くらい醸してくれと思い抗議せんと体をねじった瞬間、当然のように腰を引き寄せられた。

「っ、」

長い腕が背中で余る。ふわり、鼻を掠める控えめなムスク。ゆっくりと肩に加えられる重みから、じんわり熱が伝わってくる。

周囲から頭一つ抜き出て、コートの上で躍動し、女の子の視線を集める鍛え上げられた大きな体にうずもれて、私は暫し沈黙した。いよいよ弱っているらしかった。

「…黒尾」
「…」
「黒尾、もう寝よう」
「…」

返事はない。自由のきかない腕を伸ばして、子供のように丸まった大きな背中を撫でるように叩いた。器用な顔はきっと無表情なのだろう。だから背中が饒舌なのだ。

「黒尾がいいなら隣で寝るから、」

唐突にムスクが強くなる。あ、と思う間もなかった。
するりと首裏をつかまえられて、近づく整った顔に息が止まった。キスされる。思うばかりで棒立ちになるだけの私に、けれど触れる寸前、黒尾はぴたりと動きを止めた。
前髪が触れるような距離は変わらない。首裏にかけられたままの骨ばった手の指先が、酷く躊躇うように髪を撫でた。
目だけを動かし彼を見る。伏せられた瞳の余りの透明度に、今度こそ私は息を呑んだ。ただ明朗に、欲しいと語るそれから、逃げられないと思ったのは事実だった。
固い親指の腹が唇に触れる。平淡な声が呟いた。

「なあ」
「、うん」
「キスしていい?」

―――コンビニ袋を片手に引っ提げ、夜更けに私の家を訪れる時、黒尾はきっと彼の中で、何かのバランスを崩している。

見目よく人当りよく要領も良いこの男が、何をどれだけどこで溜め込んでくるのかわからない。わからない私が出来ることなど、ただ小さな子どもが信じてそうするように、背中をさすることだけだ。

この人の張り詰めた何かを掬えるなら、自分に出来るすべてをしたい。いつの間にか居座るようになったその感情を何と呼べばいいのか、本当はもうずっとわかっている。
だからこそ浮かんだ疑問は息するように言葉になった。

「それして、どうなるの」
「…」
「私は黒尾の何になるの」

それをして私が彼にとって何になり、何を意味するのだろう。気晴らしになるなら一緒に映画もテレビも見るし、望むなら愚痴だって聞ける。けれど唇を合わせることは、このひとの何を掬い取り、私の何を壊すのだろう。

黒尾が身を起こす。逆立った黒髪が遙か頭上まで呆気なく遠ざかるのを見て、今更ながらその身長差を思い知った。

「何にならなってくれんの?」

ややあって自嘲するような声が言った。投げやりな声と一緒に、背中に回る腕が力を強めるのが分かった。

「何でも。私になれるならそれで」

驚くほど冷静な声が出た。顔を埋めた温かな胸の内側、温度に反してささくれだった心を前に、私は静かに呼吸する。
多分きっと、そういうことじゃないのだ。言ってて自分でもよくわからない、ただきっと、彼は何かを持て余している。私を試しているし、彼自身をも試しているのだ。

すべてを預けて晒してほしいなんて傲慢は言わない。ただそれで彼が引いた一線を書き換えることが出来るなら、それを彼が望むなら、私がそれに応じる準備はもうずっと前から出来ている。

案の定黙り込んでしまった彼の背中を目一杯優しく叩いた。包み込むには余るほどの背が逆立てた棘を仕舞えることを願いながら。緊迫が解かれる。黒尾の背中から力が抜けた。

艶のある黒髪が右肩に落ちてきて、そのままぎゅうと抱きしめられる。あとは酷く持て余した声だけが耳に届いた。

「…お前さァ、マジそういう、…あーくそ…」
「うん、寝る?」
「寝ねぇよ。いや寝るけどちげぇわ。このタイミングおかしいだろ」

不貞腐れた不機嫌な声に突っつかれ、私は思わず笑い声を上げる。腹いせとばかりに思い切り抱きしめられ、甘さなど欠片もない抱擁で一瞬呼吸困難に陥りかけた私に、今日一番に小さな声で、呟くように黒尾は言った。

「…敵わねーなあ」

ああ、もう大丈夫そうだ。
見上げた顔を見てまずそう思った。プラスチックで固めたような笑みはもうそこにはない。苦笑交じりに呟く彼は、凝り固まった無表情とつくりものの笑みをようやく外し、初めて本当の色を乗せた瞳で私を見下ろしている。

それが嬉しくてまたも笑えば、こつり、額をぶつけられる。思わず揺れた肩を微かに笑われ、何をするのだと身構えれば、いつも通りの軽薄な声が、微かな緊張を隠して言った。

「名前」
「、…なに」
「恋人になってって言ったら怒る?」

あまりに臆病な言い回しに思わず虚を突かれた。それから意味を理解して、私は込み上げてきた笑いを抑えきれなかった。一瞬呆気に取られた黒尾が、見る間に苦々しい表情をして私を睨むのを制し、ただ「怒んないよ」とだけ返す。

今更無理かどうかでなく怒るかどうかを聞くあたりが、私と彼の関係らしい。酷く満たされた想いでいるのが私だけでなく彼もであることを願いながら、今度こそ唇に降ってきた柔い感触を受け止めた。

160703
初黒尾さん。いろいろよくわからない。難産でした。

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