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▼ 恋を

恋を

「ん」
「…ん?」

今日は一体何を。
買い出しのための部費を収めた封筒を片手にした名前は、差し出された厚みのある手を前にしてフリーズした。

土曜の午後、長めの昼休憩に買い出しを済まそうと支度した彼女と鉢合わせたのは、ほぼ同時にドアを開けた岩泉。
あわや衝突寸前、たたらを踏んで後ずさった名前に驚いた顔をした彼は、タオルの替えを取りに戻ってきたところ。しかし1年マネの白くて小さな手に収まるメモを見た彼は、部屋を出ていこうとした名前を脊髄反射で呼び止めていた。

体育会系において先輩命令は絶対。思い切り驚きながらもきちんと振り向いた名前は、やや緊張気味に彼の言い付けを待った。そんな彼女に、岩泉は数秒の間にあーだのうーだの言葉にならない言葉を泳がせ、結局ずいっと手を差し出すに至ったのである。

名前は考える。かれこれ数度に及ぶこの手のひらコミュニケーションの経験を踏まえて考える。
そして手の中の封筒を見やった。もしかすると何か金額に不具合が見つかったのかもしれない。あるいは買い出しの内容か。伺いつつそろそろと、その大きな手にメモともども部費を差し出せば、岩泉はそれをしっかり受け取った。

やった、初めて正解した。人知れず高揚した名前はしかし、次の瞬間くるりと背を向け部室を出ようとする岩泉に面食らう。一体どこへ。自分はついてゆくべきなのか。

さっきまでの達成感を放り出した名前は、半分踏み出した足をそのままに進退ままならず立ち往生する。続かない足音に背後を振り向いた岩泉は、右往左往する後輩を目に、またしても露呈した己の言葉の足りなさにばつの悪い思い顔をした。
そうして空いた手の方でちょいと手招きしてみせる。さすれば名前は驚いた顔をするも、従順にそれに従った。二人は黙したまま部室を出る。
ちなみに敢えて明記すれば、ここまで未だまともなコミュニケーションはない。

大きな背中に導かれ名前がやってきたのは職員室、を通り過ぎたところにある自転車置き場だった。監督に用事ではなかったのか。いよいよ深まる謎にぐるぐるし始めた彼女に、しかし岩泉は迷うことなく中ほどにあったシティサイクルを引っ張り出す。

「…送ってく。重いだろ」
「!」

ぶっきらぼうに告げられた思わぬ申し出に名前は今度こそ目を丸くさせた。だが買い出しのメモを覗き見ていた岩泉に譲る気はない。
備品の内容は基本的に箱買いする粉末ドリンクやテーピング、またエアーサロンパスや洗剤その他もろもろ。最寄りのスポーツショップとその近くのドラッグストアまでは徒歩で15分以上かかる。自転車を持たない名前が持ち帰るには確かにやや負担が大きい。

「でも、先輩お昼は…」
「もう食った」
「けど、そんなわざわざ」
「…迷惑なら別に、」
「そっ、いえ、迷惑なんかじゃ!」

思いの外勢いよく響いた声に驚いたのは、台詞を遮られた岩泉のみならず名前本人も同じ。

びゅお、と吹き付ける風が沈黙の隙間を埋める。合わない視線が気まずさを水増ししてゆく。
岩泉は自転車のサドルに跨がった。くんっと傾けられた車体に一瞬名前はたじろぎ、これはどういう意味かと思案する。目だけで尋ねればこくんと頷かれ、一体何がイエスなのかはっきりわからぬままとにかく間違っていないことを祈り、名前はその荷台に腰掛けた。
岩泉は何も言わず前を向く。名前はほう、と息を吐いた。正解の、ようだ。

「…すみません、重いと思うんですけど…」
「……いや、お前、もうちょっと重くてもいいんじゃねぇの」

おずおずと言った名前に岩泉は一拍おいてそうこぼす。ほぼ筋トレに近い男同士の二人乗りを知る身としては、後ろに乗る華奢な後輩などどこかで落っことしてきてしまいそうな頼りなさだ。
掴まっとけよ。一言背後に言ってよこせば、迷子になりそうな小さい手がそろそろと彼のジャージを掴む。その余りの頼りなさといじましさになんかもういろいろいっぱいいっぱいなのだが、このままではちょっとした段差なんかでも落っことしてしまいそうで恐ろしい。
一拍深呼吸、腹を括り、気持ちばかり添えられた手を掴みぐっと引き寄せた。軽やかな衝撃、柔らかな感触。

「っ、…!」

突然のことに言葉を吹き飛ばしたのは名前の方だ。ジャージ越しにもわかるしなやかな筋肉に包まれた背中に、飛び込むように衝突する。驚きで声も出ないまま、ペダルはゆっくりと踏み出された。
体が熱い。熱が伝わってしまいそうになる。
おとこのひとの、背中だ。

改めてその男女差に直面し、じわじわと火照る顔を冷ますこともままならず、名前はぐんぐんスピードを上げる自転車に揺られて馴染みのスポーツショップへ向かう。

そろって耳を赤くした二人の後ろ姿を見送ったピンクブラウンの青年は、購買からの帰り、気に入りのシュークリームを頬張りながら緩く口角を上げた。

「ヤダヤダ、これだから青春は」

161412

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