short | ナノ


▼ 君とのきせきの夢を見る



「おら及川、ちゃんと歩け」
「ゆっらさないでよーいわ、ちゃ…ぅえっ、」
「おいお前もう黙ってろ、吐くぞ」

頼れる幼馴染は言葉こそいつも通り厳しくも、勝利の余韻あってか多目に見てくれるようだ。抱え直す腕の慎重さに感謝しつつへらりと笑う。
盛大に行われた優勝祝い、すでに成人済みの部員内では年少たる二回生はここぞとばかりにさんざん飲んで飲まされ、お開きの頃には半数以上が潰されてたと思う。俺も三分の二くらいその一人だけど。

「勝ったねぇいわちゃん、」
「おー、そうだな」
「やっと…やっとだよ…」
「おー、長かったな」

大学進学から一年半、念願叶って積年の宿敵を下し、勝利を掴んだインカレ決勝。
爆発する歓声、仲間の叫び声で溢れるコートの上で咆哮一つ、感極まる思いで喜びを噛み締めた。長かった、そうとも本当に。もみくちゃになりながら騒いで、ようやく少し落ち着いたのは表彰台に上がる頃。

慌ただしくインタビューを受ける中、ようやっと緊張感を手放した思考で思い出したのは彼女のことだった。応援してるよ、と淡く笑んで目を細めた遠い日のあの子は、俺の勝利を見ているだろうか。

なんでまたこんな喜ばしい場面で思い出してしまうかなあと自分に自分で苦笑した。嬉しくて仕方ないのは本当なのに、その端っこ、まるで彼女がそうであったのと同じ慎ましさで、本当に微かな痛みが心臓を軋ませた。

たぶんそれを振り切りたかったんだと思う。祝勝会では必要以上にはしゃいだ。それはそれでもちろん楽しかった。楽しかったけど、ただ間違いなく飲み過ぎた。だってこれ明日起きれる気がしない。足元と思考がふわふわする。ぐるぐる回るのは胃の中か胸の中か。
ぺたり、尻をつけて座り込んだのは冷たい床。眩しいのは明かりらしい。いつの間に帰ってきたんだろう。
ああでもこれほんとにちょっと動けそうにないな。気を抜いたら本気でリバースしそうだ。食べたものも飲んだ酒も、そのもっと奥底深くに沈めていた未練も一緒くたに。

「おれさあ、いわちゃん、あのね、」

でも仕方ない、出てきてしまったのだ、あの瞬間。幼馴染みに弱音を吐くくらい許してほしい。勝利の余韻を噛み締めるその最中、不意に脳裏に閃いたのは遠い昔、制服に身を包んだ彼女の姿だったのだ。

「…あいたいなあ」

名前に会いたい。どうしても、会いたい。





ものすごく美人ってわけじゃない。でも普通に可愛い子。大人しいわけじゃないけど男勝りなお転婆でもない。ピンクも巻き髪も好きじゃないけれど、可愛いものが嫌いなわけじゃない。我儘はあんまり言わない。でも実は結構我が強い。振り回すことはしないけど、簡単には手のひらに収まってくれない。
美人でスタイルもよくて話も上手、そんな女の子はきっといくらでも見つかる。でも俺が恋したあの子は、当たり前すぎて今更何をって話だとわかっていても言いたい、やっぱり名字名前以外どこにもいないのだ。

出会ったのは高二の春。体育館のギャラリー席に並んだ女の子たちの中、黄色い声も染まった頬もなく、ただ真っ直ぐに俺を見つめる眼差しに気づいた。そんなごくありきたりな始まりだった。その後岩ちゃん経由で知り合って、中学で肩を壊してバレーを辞めたのだと知った。

私、及川のバレーが好きなんだ。

眩しいものを見るような目で言った彼女の言葉に嘘はなかった。たとえ俺が大抵の女の子にそうするように、ドラマの俳優の話や新しいスイーツ店の話を振っても、彼女はといえば三言目にはこの前の試合のセットアップはこうだ、スパイカーの打点と高さはああだとバレー談義に入るのだ。初めこそ戸惑ったが、それが無理に合わせているわけでもなんでもないとわかってからは、ルーズリーフを囲んで二時間以上、レギュラー陣も交えて熱く語ったこともある。

バレーをしてる及川くんが好き。
そう言ってくれる女の子はそれまでに何人もいた。そのうちのかなりの数と付き合って、けれど結局彼女たちは大抵バレーを理由に俺の元を去っていった。俺にとってバレーはいつだって最優先事項だ。チームメイトと天秤にかけられれば辛うじて勝るギリギリだけど、女の子より劣るなんてことは絶対ない。

バレーをしてる俺が好きなんじゃなかったの。
出来る限りの時間を割いて構って、それでも結局切り出される別れに、初めこそ凹んだし傷つきもした。それにも慣れて、そんなもんかと割り切って、付き合っては別れを繰り返して。

だから彼女の言ってくれる、俺のバレーが好きだという言葉と、その言葉に忠実な彼女のスタンスは本当に心地よくて嬉しくて―――けれど人間というものは貪欲で我儘だ。今思い出しても余りに女々しくて恥ずかしい台詞だったと思う。けれど気づいた時には彼女に恋い焦がれていた俺は、ある時勢いで口走ってしまった。

俺のバレーだけじゃなくて、俺のことも好きになってよ。

二年の冬、春高予選に負けたその日、ともにした帰り道で、半分泣きそうになりながら言った俺に、名前は眼を丸くした。けれどそれから、見たこともない顔で笑って言った。

どうしたの、今更。そんなのずっと好きだったよ。


恋人になってからも、名前のスタンスは変わらなかった。
私に構う暇があったらバレーしてきて。自主練を蹴って彼女と過ごそうとした俺を、そんな台詞と共に真顔で体育館に連れ戻した時には、笑っていいのか泣いていいのかわからなかったが(岩ちゃん達にはさんざん笑われた)、とどのつまり彼女もバレー馬鹿だったのだ。そのかわり時折自主練にずっと付き合ってくれて、真っ暗になってから俺に家まで送らせてくれた。負けた時には電話一本で飛んできてくれて、何も言えずに彼女を抱きしめる俺の背中に黙って腕を回してくれた。

言葉にされたことはない。けれど彼女はいつも、どんな時でも俺の味方をするのだと行動で雄弁に語ってくれた。相変わらず他の子から告白されるしファンサービスもゼロには出来ないし他の男みたいに十分構う時間もないし、こんな俺じゃいつか愛想尽かされるんじゃないかと本気で悩んだ俺にも、名前はやっぱり「今更どうしたの」なんて大笑いして、最後には「そういう及川を好きになったんだよ、私は」なんて死にたくなるほど優しい声で俺の頭を撫でてくれた。

夏が過ぎて秋が去って、冬の足音すら遠のこうとするにつれて、俺は臆病になった。

全国出場を逃した俺の元に舞い込んだのは都内の強豪大学からの推薦で、それが何の縁か岩ちゃんが一般で目指す学校だったというから腐れ縁とは恐ろしい。当然それは嬉しいニュースだったけれど、俺は迷っていた。名前が志す大学が地元の国立大だということはずっと前からわかっていたことだからだ。

及川は進路どうするの。

尋ねた名前に答えられなかった。あまりに真っ直ぐな瞳はいっそすべてを知ったうえで尋ねているんじゃないかと思うほどで、けれどこうと決めたら決してブレない彼女についてきてほしいなんてどうして言えるだろう。

…行った先でもバレーするの?

手をつなぐことが好きじゃないと言った彼女とそうして帰った記憶は乏しい。俺はそれをいつも物足りなく寂しく思っていたのだけれど、その時もやはり彼女はただ真っ直ぐ俺に向き合って立っていた。

うん、するよ。

それだけ言えた俺に、名前が浮かべた笑みを俺は一生忘れない。
それはつぼみをほどいて綻ぶような、酷く穏やかで淡い笑みだった―――そう、まるで別れの季節を告げる桜のように。

俺さ、別れたくないとか今まで思ったことなかったんだよね。
うわーそれ及川らしいね。人間失格。太宰もびっくり。
そこまで言う!?ていうかお前ね、真剣な話してるんだけど!
うん、知ってるよ。

『知ってる』

泣きそうな顔して笑みを浮かべた彼女は多分、俺の臆病さに、意気地の無さに傷ついていて、それでも全部受け止めて何一つ責める言葉もなく、ただ応援してるよとだけ言った。

そうして名前と俺は卒業した。俺は推薦で、岩ちゃんは一般で受かった大学に進むべく上京し、名前は無事地元の国立大への進学を決めた。
まるで明日からも会えるかのように、俺たちはいつも通りの別れを告げた。でもそのバイバイの四文字がこれまで繋いできた糸をついに断ち切るものになることを、みっともなく鼻をすする俺もそれを見て涙目で笑う彼女も十分すぎる程よく知っていた。

名字となら、大丈夫だったと思うけどな、俺は。

上京し、大学バレーが始まって、初めての合宿の行きのバスで流れる景色を眺めながら、不意に岩ちゃんが言ったことがある。俺たちの別れについて一言も口を挟まなかった幼馴染が今更そんなことを言うから、俺は困ったように笑うしかなかった。

あーあ、尻叩くならもっと早くに叩いてくれればよかったのに。そうしたら、もしかしたら今頃。
そんなことを思う時点で俺は相変わらず彼女に未練たらたらで、ついでに言えばこの男前な幼馴染に頼り切っているに違いない。

でもだって仕方ないじゃないか。押し込めて押し固めて、陽の当たらない胸の底に封じ込めていた想いはけれど、枯れるどころか手に負えないほど膨らんでしまっていたのだ。俺にそれをどうしろというんだ。摘み取るなんて死んだって出来るはずないのに。

見ていてほしい。それが無理でもどうか俺が、俺たちが掴んだものを、どんな形でもいいから知ってほしい。ああ、けどあの子は今何をしているんだろう。きっと綺麗になっているんだろうな。彼氏はいるんだろうか。いないといいのに。俺のことはもう忘れただろうか。
ああいやだ、忘れてて欲しくなんてない。

「忘れてなんかないよ」

いいやきっと忘れてるんだ。 俺なんて忘れて、それできっとチャラチャラした男とリア充してるに決まってる。経済学部とかそういうヤツ。どうせ俺は推薦組の体育学部だよ。あ、笑われた。俺はこんなに真剣なのに。ねえ岩ちゃん。あれ、岩ちゃんの声がしないや、なんでだろう。

「あのね、忘れてないし、彼氏もいないよ」

ふうん、そうなの、わかったじゃあそれはそういうことにしとくけど、じゃあ何でいなくなったりしたの。何で俺のそばにいてくれないの。何で行っちゃったの。

「ええー、何も言わないままバイバイしたの、及川だって一緒でしょ」

柔らかい声。呆れたみたいに笑う言葉が胸に刺さって、鼻がつんとする。そうだけど、そうなんだけど、そんなこと言うなよ。じゃあどうしたら良かったんだよ。お前は宮城で俺は東京で、バレーでいっぱいいっぱいになって今まで以上に構ってやれないってわかってるのに。
どうして言えるんだよ、好きでいてくれだなんて。

「…そんなの、言ってくれたらよかったのに」

言えたら苦労しなかったよ。誰かの手が頭を撫でる。優しい指だ。名前の指。いつだったかと同じように髪をすいてくれる。ああそうか、これは夢か。だとしたらなんて酷い夢だろう。あんまりだ、こんなのあんまりじゃないか。

「夢じゃないよ」
「ウソつき、起きたらいないんだろ、いつもそうだ」
「ウソじゃないよ、夢じゃない」
「…ゆめじゃないの?」
「あは、酷い顔」

大丈夫、ちゃんといるよ。

優しい匂いに包まれる。柔らかい感触と体温。背中を囲う細い腕に動きを封じ込められる。もういいや、夢でもなんでもいい。彼女がいてくれるならそれでいい。
耳元で懐かしい声が言う。

「私そんなに及川の夢に出てくるの」
「そうだよ、酷いヤツ、そんなんだからおれ、彼女出来ないんだよ」
「彼女欲しいの?」
「いらない、名前がいい、…名前しかいらない」
「…そっか」

私もずっとそうだったよ。
あのときと同じように鼻をすする。あのときと同じように、彼女は涙声で笑う。けれど、あのときの俺は意気地無しの腕を垂らしたまま彼女を見送るしかできず、彼女は笑って手を振るだけだった。今の俺の腕には彼女が収まっている。それで良い。夢であっても、それだけで十分だ。

顔を上げたそこには、あの時と変わらず柔らかな、あのときより大人びて綺麗になった彼女の笑みがあった。吸い寄せられるように唇を寄せた彼女のそれは、信じられないほど柔らかくて甘かった。ああずっと醒めなければいいのに、溺れそうな意識を繋ぎ止めながらその柔さを請い求めた。
名前を呼ぶたび返されるキスの優しさに涙がこぼれる。でも大丈夫、夢ならきっと許されるはずだ。




***




真っ赤にした鼻をぐずぐずと鳴らし、チョコレートブラウンの瞳と長い睫を涙で濡らして、くちづけを辞めてからも情けなく名を呼ぶ彼の意識がやや混濁していることを承知している彼女は、おんなじように濡らした目元を赤くして笑った。高校の頃より一回り大きくなった彼の背中を優しくさすり、胸元にうずもれるふわふわした髪を優しく撫でる。きっともう眠さも限界なんだろう、何かむにゃむにゃ言ってはいるがほとんど言葉になっていない。

重たいなあ。180越えの男を抱え、あちこち痺れる体を無視して彼女は笑う。目下の泣きはらした目の痛々しさにまた涙が滲んだ。きっともう少しすれば、この相変わらず泣き虫な男は眠りに落ちてゆくのだろう。果たしてベッドまで運べるだろうか。大事なスポーツマンの体を床に転がしておくわけには行くまい。

ほら、もう寝てしまえ。明日になったら夢じゃなかったろって笑ってやるから。
女の彼女がうらやむほどのきめ細かい肌をした彼の額に優しくくちづける。とろとろと重たげなその瞼にも同じように唇を落とせば、夢うつつに揺蕩う彼の瞳からまたひとしずく涙があふれて、ああ、早く泣き止んでくれればいいのに、なんておんなじように彼女は泣いた。




***




「…え?」

目覚めた彼は驚愕に染めた顔を呆然とさせて彼女を見詰めた。二日酔いで激しく痛むはずの頭から感覚神経が消滅したような気がした。キッチンからは良い匂いが漂ってくる。その源に立つ彼女は寝癖もそのままに自分を凝視する彼を見て、何でもないように笑って水を差しだした。

「あ。起きた?おはよ。飲んで」
「は、…え?」
「飲んで」
「……」

大きな手に押し付けたグラスが、有無を言わせぬ要求を前に大混乱の中傾けられる。ほとんど惰性だけでグラスに口をつけた彼の喉を滑り落ちてゆくミネラルウォーターは、痛む頭と荒れた胃、白紙の脳みそを洗い流していった。
遂に飲み干された空のグラスは彼の手を去り細い指のもとへ戻ってゆく。目元を擦る柔い指が、気づかわしげに彼を労わった。

彼は顔を上げる。現実に変わりはなかった。差し出された水もただよう出汁の香りも朗らかに笑む彼女の姿も、全ては彼の世界の内側に存在していた。

「やっぱり腫れちゃったか」
「…名前?なん…え、ゆ…」
「め、じゃないんだなあ、これが」
「―――…ッ!」

キッチンに戻り、マグに牛乳を注ぐ彼女の姿が、初めて現実感を帯びて彼の意識を殴りつけた。及川は布団を跳ね飛ばしベッドを飛び出した。そのまま大股で部屋を横切り、もう何度だって迎えた朝の中に決して存在することのなかった彼女の腕を掴んで思い切り引き寄せた。

「っわ、ちょ、牛乳こぼれ…っん!」

ああ、名前だ。腕に収めた華奢な体も伝わる体温も鼻孔いっぱいに満たす匂いも、性急に合わせた唇の柔さと熱も本物だ。
やわい身体の輪郭を確かめるように掻き抱いて、余裕のかけらもなく噛み付きながら、及川は心臓が軋むのをどうにもできなかった。吸い付き、むさぼり、文字通り食らいつくように求め、きつく抱きしめ直すたびに、渇ききった何かが潤いを求めてさらに彼を駆り立てる。濡れた唇から時折漏れる制止の声も吐息ごと呑み込んで封じ込めた。まるでもうずっと息が出来てないかったかのようだった。

「んんッ…っは、も、」
「っ…おねがい黙って、」

もう少し、もう少しでお前が夢じゃないって信じれそうなんだ、だから。

矢継ぎ早に語ったそんな言葉に、名前が息を止めるのがわかった。一拍おいて笑い出したその目元は真っ赤で、ああきっと昨日もまたさんざん泣かせてしまったのかと思うのに、今はただそれをどうしようもなく尊びたいと思った。



160328
タイトルは奇跡とも軌跡とも。

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