short | ナノ


▼ 結局はシナリオ通り



辿り着いた居酒屋のガラス戸に映る自分の顔は、何とも言い難い酷い顔をしていた。

思った以上の酷さに誰も見ていないとわかっていながらも無表情の仮面を被る。気まずさと怯え、不安と憤り。怒りの二文字で塗りつぶしていた感情すべては今や各々の色を取り戻して混ざり合い、とにかく落ち着かない、そんな一言でしか表すことのできない心地で私は店の敷居を跨いだ。
すぐに出てきてくれた可愛らしい女の子の店員さんに及川の名前を出し、迎えに来たと告げれば元気よく案内してくれる。可愛い子だなあ、ぼんやり思うのは現実逃避に違いない。今日も今日とてスキニーにエンジニアブーツ、好きで選ぶはずの格好に自信がなくなるのはこういうときだ。

「失礼します、お迎えの方ご案内でーす!」
「あー名字ちゃんいらっしゃーい!」
「え、嘘ホントに来た」
「……。帰る」
「ちょっ待て待てだから逸るな名字!」
「花お前はちょっと黙れ」

電話での冷静さはどこへやら、酔ったように見えるのはフリかそれとも本当か。どっちでもいい、結局はどこまでも一枚上手の及川にイラッとして思わず本気で帰りそうになるのを松川に止められ渋々向き直る。こっち、と手招かれて見やった座敷の奥の席、松川の隣には机に突っ伏したままの岩泉の姿があった。その前に並んだグラスの数に一瞬眩暈がする。…度数2、30越えを一体いくら片づけたんだ。ザルもザルで程がある。

スマホ片手にあれやこれやの話を始めた花巻と及川はもはやこちらに興味はない様子で、多分敢えてそうしてくれてるんだろうなあと何となく思う。松川も「俺トイレ行ってくるし、その間に連れてって」と言い残して座敷を後にした。場所的に松川にはどいてもらわなきゃいけないのはあるけれど、こっちもきっとタイミングを合わせてのことに違いない。相変わらず素晴らしいコンビネーションだことで、思ったけれどそうさせているのは意地っ張りで面倒な私のためで、それがわかっているから何も言わずに座敷に足を上げた。

「…岩泉」

がやがやと騒がしい飲み屋の喧騒、机の向かいの及川たちにも聞こえるかわからない声で呼びかけるも反応は皆無。ゆっくりと上下する背中から生きてはいるとわかるものの、ぴくりともしないその反応に少し心配になった。とは言え同時に今起きられてもどんな顔をすればいいかわからない。相変わらず不安定な気持ちを持て余しながら次の一手を考える。けれどここまで潰れたらここには置いておけないだろう。他の三人も結構酔っているようだし、あと一時間もすれば終電になる。

意を決し、肩に触れて体をゆすってみた。手のひらに伝わる体温に、びりり、電気が走ったように自分の肩が跳ね上がった。その筋肉の厚みが酷く懐かしいものに思えて、思わず声が上擦りそうになるのを何とか堪えて平静を装う。

「岩泉、…岩泉ってば。起きて、帰るよ。送るから」

そんなに潰れてるんならもう飲めないでしょ、確かに明日休みでも限度があるし、三人に迷惑かけるじゃん。外で友達待たせてんの、その子がタクシー呼んだから早くして。

一度口を開けばままならない不安を塗り消そうと、どうでもいいような言葉がどんどん溢れる。…ホントは起きてたらどうしよう。面倒でウザくて寝たふりされてたらいい笑い者だよな。現実逃避のために思い浮かんだそんな妄想が変な現実感を帯びて迫ってくる。そうかもしれない。だったら私なんのためにここに来たんだろう。
もう本当に帰ってしまおうか。肩を揺らす手を降ろした、その時だった。

「っ、ちょ…!」

ぐらり、机からずり落ちるように、岩泉の体が傾いた。考える余裕もなくほとんど下から掬うように受け止める―――否、正確には何とか潰されずに持ちこたえ、その身体の熱さに息を呑んだ。
肩口に感じる岩泉の頭の重み。鎖骨にかかる吐息の熱さに頬が燃えるように熱を帯びた。二週間ぶりに触れた逞しい体躯に酷く胸が苦しくなる。何とか顔を俯かせて髪で横顔を隠し、込み上げてくるいろんなものを押し殺した。とにかく体勢を立て直さねば、無心にそれだけ思ってぐっと足に力を入れた瞬間、背中に逞しい腕が回るのを感じた。

「いわ、」
「…名前、」
「!」

だらりと垂れていたはずの両腕が、ぎゅう、とかきあつめるように私の背を捉える。二週間ぶりに声を聞いた。それもいつもはぞんざいに名字を呼ぶ声が、なんだったらボケの二文字をおまけにする声が、酷く掠れた声で弱々しく私の名を呼ぶのを聞いた。及川と花巻が目を丸くしてこちらを見つめているのが見えた。

耳元が熱い。隙間なく触れ合った胸板が岩泉の呼吸のリズムを伝えてくる。手離していたすべての尊さが私を押し潰そうとして、途方もなく胸が苦しくて、目の縁が火傷しそうに熱くなるのを寸でのところで堪えた。
そうか、私は寂しかったのか。今更ながら思う。あまりにも今更な話しだ。私はこの男の温度が、声がないことが、この男がいないことが苦しくて苦しくて、からからに渇ききった心は酷くひび割れていたのだ。だからきっと今こんなに胸が痛いのだ。

「名前、…名前」
「……なに」
「…わるかった」
「っ、」

今にも泣きそうな懺悔。耳元で囁かれたそれはきっと、私にしか聞こえなかっただろう。抱きとめるだけのために添えていた手が宥めるように動く。いつだって大きくて頼もしい背中が、小さな子どものように震えている気がした。

岩泉は自分が悪いと思ったら潔く頭を下げて謝れる人間だ。それがどんなにバツが悪くても、プライドが傷つくとしても、自分の非を認める強さがある。この男がそういう男であることは私だってよく知っている。

「わるかった、」

―――だからこんな風に、赦しを請うように懺悔を繰り返す彼を、私は知らない。

「…名前…」
「…わかった、…わかったから、もういいってば」

あんなに怒ってたのに。怒って当然のことをされたのは私なのに。でもどうしようもない、この人に惚れ込んでいるのは私なのだ。こんな泣き落としみたいな謝り方をされては、曲げたヘソも損ねた機嫌もほっぽりださずにはいられない、これを惚れた弱みと言わずになんと呼ぼうか。

「あー…名字?」

様子をうかがうように及川が言うのが聞こえる。私は深々と息を吸った。ぐらぐらと揺れる心臓をほとんど力ずくで宥めて、瞬き数度で目元の熱を振り払う。

「…及川、手ぇ貸して。一人じゃ運べない。タクシー呼んで家まで送る」
「え、あ、ああ…うん」
「花巻ごめん、先に店先出ててくれると助かる。友達一人で待たせてて、酔っ払いに絡まれたら…」
「あ、それなら多分ヘーキ。松がもう行ってる」
「、…抜かりないね、流石だよ」

道理でトイレにしては遅いわけだ。松川と友人は私や岩泉を通しての顔見知りではあるし、気まずくて困ることもないだろう。存外この四人の中で一番器用であろう男のさりげないどや顔を思い出してちょっと笑う。その様子に及川と花巻を目を見開き、互いに顔を見合わせた。文句あるか、私だって素直になれるときはなれるんだ。…そう、ごく稀に、そして大抵は岩泉の前以外で。




案の定酔った大学生に絡まれそうになっていた友人は無事松川によって保護されていたらしく、店を出れば何に意気投合したのかすでにやってきていたタクシードライバーのおじさんと三人仲良く談笑していた。謎のコミュニケーション力である。
友人を松川達に託し(「手ェ出したら殺す」と真顔で告げれば「知ってる」と真顔で返され、黙る私の横で友人は爆笑していた。何事。)私は岩泉と二人タクシーに乗り込んだ。辛うじて自分でも歩く努力をしていた岩泉は店を出てから終始無言だった。

及川たちはその様子を神妙な顔をして眺めていて、随分な心配を掛けていたことを今更ながら実感し、少し申し訳なくなったのは秘密だ。名字、ともの言いたげに私を呼んだ及川は、結局「岩ちゃんをよろしくね」とだけ言って私たちを送り出した。それが今日家まで送り届けることを託した言葉だったのか、今後の付き合いも含めてのものだったのか、私にはわからない。

「よい、しょ…っ」

ただでさえ男、それも平均身長10センチ越えの鍛え上げられた体躯を女の力で支えるのは骨が折れる。それでもなんとか廊下を進んだ先、がちゃん、見慣れた学生マンションの自宅のカギを開けた。

懐かしい匂いに包まれてつんと胸がいたくなる。二週間前、目元を真っ赤にしてこの部屋を後にしたのが遠い昔のようだ。あの時はまたこうやって、しかも家主と共に戻ってくるなんて思わなかった。ぼんやりとそんな感傷に耽りながら靴を脱いで玄関に足を踏み入れる。
しかし次の瞬間ドアを目指そうとした体はぐっと引かれた腕もろとも、岩泉の胸にダイブしていた。この男はどうあっても私の不意を打たねば気が済まないらしい。

「っちょ…岩泉、」
「名前、」
「…なに、聞こえてるってば」
「…名前」
「…っ、」

一気に振出しに戻ったようだった。岩泉の反応も私の心境も。
涙など見せてなるものかと押し込んだ色んな感情が蓋を突き破ろうと沸騰している。勘弁してほしい、こんなはずじゃなかったのに。

家に帰って一人になってからから存分に泣けばいいと思っていた。そうしたらこの名前のつかないごちゃ混ぜの感情も一つ一つ整理して今度はちゃんとしかるべき場所に収めることが出来るはずだったのだ。
そうして男前男前と言われながら存外普通の大学生でしかなかったりもするこの男の酔いが醒めた頃合いに、思い切りアッパーを決めてやればいい。それじゃまた喧嘩になるならそれ以外で、この際何だっていい、思い切り困らせてやればいい。それでチャラだ。仕方ないじゃないか惚れたモン負けなんだから。
そう決めて店をでてきたのに。

「俺が悪かった」

耳元に零れる小さな声。掠れた懺悔が心を抉る。手綱を引けない感情で、堪え切ったはずの目の縁の熱が戻ってくる。前が空いたままのコートの中に引き入れられ、小さなこどもがするみたいにぎゅう、と、離すまいというように抱きしめられて息が詰まった。

柔い感触を感じたのは首筋、耳のすぐ下あたり。首筋に、こめかみに、伺うように何度も口づけられ、呼吸が震えて心臓が焦げ付きそうになる。薄い唇が髪をかき分ける音、柔く肌の触れ合う微かな音がしんとした暗い玄関に詰め込まれた静寂を引っ掻いた。耳たぶに感じた熱い吐息に心臓が揺れ、微かに音を立てた唇にぎゅっと目を瞑る。名前を呼ばれる。肩口から離れてゆく熱。
恐る恐る持ち上げた瞼、真っ暗な玄関でもわかる、見たこともない岩泉の顔にとうとう涙がこぼれた。

「…泣くなよ、」

随分な無茶を言ってくれる。それが出来ていれば苦労はしないし、一番それを望むのは私なのに。

困りきった指先が目元をなぞり髪を梳く。躊躇うように開かれた薄い唇が何度も言葉を呑み込んだ。それでも背に回ったままの逞しい片腕に私を放す気配はなくて、それがまた涙を止めさせてくれない。

言葉もなく目一杯嗚咽をかみ殺すしか出来ずに、ただ俯いて岩泉の腕の中にうずもれる。ごめんな、なお降ってくる謝罪に肩を震わせ鼻を啜れば、気遣わしげな手のひらに頬を掬われる。何をするのかと思えば拭っても仕方のないような涙を拭われて、それがさらに私を泣かせるんだと言ってやる余裕があればどんなにいいか。今は声を漏らさないようにするので精一杯なのだ。

もぞもぞと身じろぎ腕を持ち上げれば、背中に回る腕の力が一瞬強まり、それからはっとしたように弱まった。ちらと上を見やればこちらを伺う岩泉は不安げな表情をしていて、それを見てしまえば無用な意地悪などできようものもない。

私はその腕を振り払う気などないのだと示すように、出来るだけ縮こまって、引き上げてきた手のうち右手だけで涙を拭った。代わりに中途半端に引っ張り上げた左手を元の位置に戻そうとして、不意に彼のジーンズのポケットに引っかかる。かさり、指先に触れたのは服以外の無機物。岩泉の体が一瞬強張るのを感じた。
何だろう。自然、顔が下を向き、あ、と零れた声は私の声だったのか岩泉の声だったのか。

「…これ、」

ポケットから引っ張り出した小さな透明の包み、その中身には見覚えがあった。

くしゃくしゃによれたメッセージカードには「今までありがとう、これからもよろしく」の、いつもと同じ素っ気ないメモ。銀のチェーンのトップにはシンプルなプレートが一つ。

彼がスポーツ柄、というか性格上も指輪だの何だのをしないことは知っている。けれどこの前見ていたプロの試合放送で、スパイクを打った選手のユニフォームの胸元で一瞬ネックレスが輝くのを見た彼は、「ああいうのなら良いよな」と何気なくこぼした。それがちょっと意外で記憶に残っていて、だから選んだものだ。メッセージカードでさえ素直に好きとは書けなかった自分に呆れながらも、なんとか選ぶことのできたプレゼント。

そうか、思い出した。あの喧嘩した日、紙袋を駄目にしないよう鞄に入れず持ってきたそれを、岩泉の部屋に置きっぱなしにしてきたのだ。そして彼はそれを、今までずっと持っていたのか。ポケットに入れて。

「……、」

随分と長い沈黙だった。私は何も言わず、岩泉もずっと黙っていた。背中の腕が離れる気配はない。じわじわと込み上げてくる涙を零れる前に拭って、涙声なのを相殺するようにぶっきらぼうな声で言った。

「…持ってたんだ」
「…」
「捨ててなかったんだね」
「…勘弁してくれ」

いつになく弱った声が降ってきて、私は一度口をつぐんだ。なかなか酷い台詞を言っている自覚はある。副音声に隠した「別れた女の贈ったモノなのに」なんて一言がきっと彼を刺々しく責め立てているのだろう。けどこれくらいの復讐は赦されてもいいはずだ。

上目に彼を見やる。コート上でぎらぎらと存在感を放つ引き締まった面持ちも、友人とバカをやる時の少年みたいな無邪気さも、私の頭を掻きまわすときの意地悪な色もそこにはない。そんな彼しか知らない人が見たら目を丸くするに違いない、ほとほと困りきった顔。素直さも可愛げもない私でも、まだ彼にこんな顔をさせることが出来るらしい。

「…もらってくれるの」
「、…もらっていいのか」

みっともないけど鼻を啜り、返事をしないまま封を切った。手のひらに落ちてきた銀を受け止めて、留め具を外して腕を伸ばす。そっと頭を傾ける彼の首裏、その短い襟足の下に手が辿り着くと同時に、それが酷く自然であるかのように唇を塞がれ肩が跳ねた。思わずきつく目を瞑れば、逃がすまいというように抱きすくめられる。

吐息すら呑み込むように唇を押し包まれ、指先の動きが覚束なくなる。それでもなんとか留め具をつけ終えれば、一瞬離れた唇から、囁くように好きだと言われ、そのどうしようもない狡さに息が止まった。ようやく引っ込めたはずの涙がみたび戻ってきて、降ってくるキスのあまりの優しさが憎くて、猛烈に地団太を踏みたくなる。何だってんだ本当に。どいつもこいつも酔ってるなんて嘘に決まってる!

「…いわ、いわいずみなんて、嫌いだ…!」
「おま…あーいい、わかった、ホントに悪かった。ごめん」
「ホント、私がどんな、嫌いだ、っ」
「悪かったから、…嫌いって言うな、マジで堪える」

知ったことか。私が素直じゃないのも意地っ張りなのもよく知っている筈だ。本気で嫌いだったら大人しく抱きしめられたままでいるわけがないし、そもそもまず迎えになんか行かないのだって簡単にわかるはずだ。どうでも良いヤツの目の前で泣くなんて醜態晒すなら死んだ方がマシだと豪語する私を、「女子でもそんなん思うんだな」なんて神妙な顔して聞いていたのは他でもないアンタ自身だ。難しいことなどない、答えなんかそこから出せばいい。今日の私は過去最高に可愛くなく、しかしそうするだけの理由も権利も持っているのだ。
そう思ったはずなのに。

「…お前は嫌いでも、俺は好きだ」

今度こそ心に決めたはずなのに、これだから惚れたもん負けというのは不条理だ。酷く気遣わしげなキスに甘やかされ、その合間に拗ねたように「なあ、」なんて請うように促されて、結局私だって好きだなんて過去最高に素直な一言をこぼしてしまうまで、私にはものの十数秒しか残されていないのである。


151118
お待たせ致しました。

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