short | ナノ


▼ アンビバレンツ・エスケープ


昔から優柔不断だという自覚はある。それでも自分はもう少し賢明な性質だと思っていたのだが、どうやらそれも買い被りだったらしい。

ざわざわり、二限終わりの食堂の込み具合にはいつもうんざりする。歩み去ってゆく女子学生から送られた視線はすれ違う人間への無意識のものか、それとも私の顔に見覚えがあるゆえのものか。やめよう、神経質も通り越せば自意識過剰だ。思い出して右ポケットが重くなる。新調したばかりのカバーに包まれたスマホの内側、並んだ噴き出しは私の愚かな歩みの軌跡をそのままに表している。

ピコン、再び鳴るメッセージの受信音。取り出して画面を見れば小さな窓に並ぶ文字が映る。今日家に行っていいかと尋ねる文面から目を逸らした。悪いクセだ。見たくないものに蓋をして、わかりきった結論を先延ばしにする。この関係が不毛だなんてこと、とうの昔に気づいているはずなのに。


浮気されていると気づいたのはもうずいぶん前のことだ。初めは些細な事ばかりだった。例えば親しくラインする女の子がいる、友達の誕プレを選ぶのを手伝いに一緒に出掛けた。束縛気質でもないし、その程度はまあそんなものかと普通に送り出していた。それが徐々に二人でカラオケに、あるいは飲みに行くようになり、互いの家を行き来しているようだなんて噂に気行くようになるころには、今更どこから浮気と定義すべきなのかわからなくなっていた。

思えばそれが巧みな罠だったのかもしれない。それが意図的であるかどうかは置いておいて、彼は私に糾弾する隙を与えてこなかった。そこには私自身の変な我慢癖とか優柔不断さとか情とか慣れとか、そういうものも十分影響していることは自覚している。

そもそも私の完全な片想いから始まった交際だった。それなりに大切にされてはいても、自分ばかりが好きでいる感覚はいつまでたっても消えなかったし、彼の交友関係の広さを知れば知るほどそんな不安はむしろ増長していった。周囲に似合いだと言われるその評判に縋るように、いつでも物わかりの良い出来た彼女でいようと努め、時にはそれを無理にでも演じるようになった。彼がそれに応えてくれることはついぞなかったけれど。

でも仕方がない。初めから付き合ってもらっていると呼ぶのが適当な関係なのだ。私が彼の心を満たしきれないから仕方がない。繕って笑って、平気だよと首を振る私に、初めは心配していた友人たちも、釈然としていないながらも徐々に頷くようになった。

「ほんっと名前って寛大だよね、懐広いっていうか」
「私だったら絶対真似できないわー」

天を仰いで苦笑する彼女らに私はそんなことないよと笑い返した。そうとも、寛大さなんていいものじゃない。ただ仕方ないことなのだと言い聞かせて目を背けていただけだ。私には彼を繋ぎ止める手段も、どうすれば好きになってもらえるかもわからなかったのだから。

そうして行き着いた今をなんと定義すればいいのだろう。事実上の二股、暗黙の浮気だろうか。
現状維持に甘んじようとぬるま湯でぐずぐずしていた私の横っ面がはたかれたのは先週の金曜日の夜。忘れ物を取りに戻った薄暗い部室内、ガラス越しのその中心で抱き合って唇を合わせる二人が誰であるか理解した瞬間、私の中の何かがぽっきりと折れてしまった。

冷えた脳みそは感情の色さえ捉えられず、セピアに映ったそれが怒りだったのか悲しみだったのかはわからなかった。
みんなお似合いだなんて言ってくれたけど、全部嘘だったな。
私より可愛くて、愛想がよくて話してて楽しい、男子にも人気のサークルの後輩。その唇が彼のそれに押し付けられ、真っ白い細腕が彼の首に回されるのを、痺れる指先を持て余した私は棒立ちになって見つめていた。

心臓が破れそうなほど脈打ち、足は細かく震えている。行かないとと思っているのに動かない筋肉、見たくもない光景を焼き付ける網膜。
そうして立ち尽くしていた私は、情けなく震える腕を掴まれるその瞬間まで、あの人気のない廊下に私以外の人間が登場していたことにまるで気づいていなかった。


「名字」
「――――、」


重く淀んだ思索の海がざぱんと波立つ。弾かれたように持ち上げた頭、白く粟立つその向こうに現れた揺るがぬ瞳の強さに、視界が拓けたような錯覚がした。

ざわざわり、水面の上に残してきた雑音が突然帰ってくる。耳鳴りがするほどの既視感。あの時と同じだ。冷たい水底に沈んだ意識を引き摺り上げる、迷いの無い眼差しに一瞬息が止まる。

「相席いいか。他空いてねーんだ」

ぶっきらぼうで愛想のない声音。その声が語る意味を理解するのに数秒かかる。
岩泉一。学科が同じでゼミ仲間でもある彼は、あの時もこうして何の前触れもなく、私の世界を乗っ取った。

「あ…うん、いいよ。どーぞ」
「サンキュ」

がちゃん、定食セットが乗ったお盆が音を立ててテーブルに着地する。椅子に腰かけようと屈められた厚みのある体躯と、前屈みになるせいで伏せられる鋭い三白眼。…この男はどうやらいつも呆気なく私の目の前に現れ、当然のように視界に収まってしまうらしい。

今までだって約束して顔を合わせることなどなかったにも拘らず、こうして彼の唐突のなさにいちいち反応してしまうのは、あの廊下に現れ、私を閉塞から外に連れ出して以来に違いない。

「珍しいね、今日は及川と一緒じゃないの」
「それよく言われるけどな、いつも一緒なわけねーだろうが」
「でも小学校から一緒なんでしょ?阿吽の呼吸だっけ、運命共同体的な?」
「冗談でもヤメロ。死んでも御免だ」
「そこまで言う?」

心底嫌そうにしかめられた顔は間違いなく本心からのもので、その酷い言い草には思わず笑ってしまう。けれどこの男が学部違いのイケメン幼馴染と(一部ではホモ疑惑すら出る程)呼吸のあったコンビであることは、所属するバレー部でのプレー中以外でも確認済みである。

頂きます、丁寧に告げられた一言共に豪快ながらも想像よりずっと綺麗な箸遣いで食事を始めた岩泉から視線を外し、私もまた親子丼に目を落とす。半分も減っていないそれを掬い、惰性で口に押し込んだ。最近は何を前にしても食べる気になれない。原因はわかっている。

「…あのさ」

岩泉がこちらを見る。私は親子丼に目を落としたまま、次の言葉に躊躇っていた。岩泉が箸を止めようとするのが分かって、私は思い切って告げた。

「結局別れなかった」

ぴくり、わずかに動いた男らしい眉が、言葉などなくとも彼の心境のいかばかりかを雄弁に語る。ごめん、浮かんだそれを言うのはおかしい気がして、私は突き刺さる視線に目を合わせらないまま、黙って箸を運んだ。


あの夕暮れ、部室の廊下で無様に立ち尽くす私を掬い出したのは、他でもなく今目の前に腰掛けるこの男、岩泉一だった。

いつから彼がその場に居合わせたのかはわからない。ただ背後から突然腕を掴まれ、声もなく呆然とする私に、岩泉はいつもの淡々とした声で言った。

『行くぞ』

それは部室の二人の耳には入らない、しかし確固たる響きを持った声だった。それだけ告げた岩泉は踵を返し私を部室棟の外へと連れ出した。私といえば何が起こっているのかほとんど考えられず、惰性だけでついて行った人気のない夕刻の中庭で、漸く振り向いた岩泉に腕を離された。
私がいったいどんな顔をしていたかはわからない。ただ岩泉は私を振り返り、しばらくの間黙って、それからたった一言こう言った。

『肩貸すか』

…なんだそれ。

何の前置きもなく降ってきた短い申し出。文字通りの字義を理解するまで十秒、その意味を理解するのにさらに十五秒はかかったと思う。肩貸すかってつまり、どういうことだ。
いや確かに彼氏の浮気現場に遭遇した女にかける言葉なんて私でも思いつかないけど。何言ったってどうせ他人事ではあるけど。それにしたって相場は胸とかじゃないのか。どんな斜め上行くんだ。

けれど時間が経つにつれじわじわと染み込んでくるその言葉の意味、呆然とする私に呆れるでも急かすでもなくじっと応答を待つ、余りにいつも通りのその立ち姿に、先に追いついたのは思考より涙腺だった。みるみる霞む視界、火傷したみたいに熱くなる目の縁、あふれ出した涙に思い切り泣きたいのに笑いたいような、おかしな心地がした。

そうか、私浮気されてたんだ。

ベールで包んで箱に詰めて、そうやって見えないように片づけていた現実が岩泉によって何もかもを剥ぎ取られ、むき出しのまま目の前に突き出されたようだった。それは身を切るほと痛くて、けれど心は解放されたようにほんの少し軽くなった。

肩貸すか。尋ねたその言葉のなんと、岩泉一というこのひとらしいことだろう。
事実言うだけで岩泉は私に指一本触れようとしなかった。一歩進み出て距離を縮めることさえせず、ただ私に答えを委ねてきた。それこそ優柔不断で流されてばかりの私の悪癖を見抜いているかのように。お前が決めろ。そう言われているようで、事実上多分そう言われていて、そこには強引さはないが甘やかしもしない、岩泉らしい厳しさがあった。

普段から気取った様子も意図的でもなく、ただその自然体で成すところが一本筋の通った彼の実直な人柄を証明する。岩泉はいつだって何事にも正々堂々真正面から挑み、狡さや不義など嫌う以前に必要としない。

岩泉が私のことを心配してくれていたことは知っている。知らない女の子と肩を並べて談笑する姿、一緒に食堂に向かう背中を見る時、日に日に増えてゆくそんな光景で何かが折れそうになる時折、岩泉は私に声をかけてきた。レジュメを見せてほしい、次の発表のパワポの話、私がぐらぐらしているときに限って岩泉は私を一人にしなかった。女子の友達のように心配することも励ますこともない、ただいつも通りの日常を膨らませ、私は少し呼吸が出来るようになる。
そうして話すネタがなくなり、私が世間話にすら応じられなくなった時になってようやく、「大丈夫か」と一言聞いてくる。岩泉一とはそういう男なのだ。

そしてこんな修羅場というか情けないシーンでさえ岩泉の姿勢、生き様とも呼べるそれは一貫していて、その愚直なほどの真っ直ぐさに私は泣きながら笑ってしまった。見据えた現実が心臓を切りつけるなら、岩泉はそこから滴る赤色を掬ってくれる。触れることはない距離に佇んだまま。

岩泉が私のことをどう思っているかはしらない。目を離せないゼミ仲間、手のかかる学科の友人、はたまたふらふらしてる友人の哀れなカノジョか。なんでもいい、ただ私はしゃくりあげながら笑って、涙をぬぐい、俯くことなく返事した。『平気』、告げた私に、岩泉は眉間に皺を入れて表情を崩し、小さくため息をついただけだった。そう、ちょうど今みたいに。

「お前な、」
「うん」
「…やっぱいい。俺が口出すことでもねえし」
「そこまで言ったら最後まで言ってよ」
「……また泣き見ることになんぞ」
「やっぱりそう思う?」
「いい加減学習したらどうなんだよ」
「うん」
「そうやって何でも流してなあなあにすんの、お前の悪いクセだぞ」
「…うん、そうだね」

思った通り見抜かれている。頬杖をついてこちらを睨むように上目に見る岩泉に、私は苦笑いをこぼす。わかってて、それでもその日していた約束通り私のところにやってきた彼氏の姿に、結局私は別れの一言を切り出せなかったのだ。考えても悩んでも仕方のないところでもうずっと足踏みしている、その愚かしさには笑うしかない。

「ごめん」
「……それはどういう意味の謝罪だ」
「…心配し甲斐のないヤツで?」
「よりによって疑問形かよ」

顔をしかめた岩泉に私も口を閉ざして食事に戻った。ポケットからまたメッセージの受信音が鳴る。私は電源を切り、それを鞄の奥深くに押し込んだ。このひともいつかこんな風に、私の愚かさに愛想を尽かす日が来るのかもしれない。日常の片隅に押し込まれ、記憶から霞んでゆくのだ。
想像したそれは思った以上に悲しくて、私は掻き消すように箸を動かした。


151012
続かせても仕方ないのに続くかもしれない不毛な話。

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