short | ナノ


▼ 幕開けは夜明けとともに


言い訳をさせてもらえるなら言いたい。
昨晩は本当についていなかったのだ。


まずここ最近の課題の多さで夜更かしが続いていた。バイトは人手が足りず店長が悲鳴を上げていたため、少々の無理は根性で乗り切ろうと連勤を買って出た。当然休まらない体が熱っぽさを訴えるのを黙殺して迎えた週末、サークルの同輩に捕縛され強制連行、拒否権ゼロで飲み会に参加させられた。

とりあえず早抜けは絶対だ、と内心誓ったのに運は私を見離すどころか助走つけて崖から蹴落としに来た。私にあてがわれた席の隣にいたのは最近妙に絡んでくる先輩だったのだ。とんだガッデム。ハメられた。周りの先輩たちの視線が物語る策略に、重い頭で天を仰いだ。

生憎そこまで鈍い方ではない。連絡が頻繁に来たり食事に誘われたり、周りの視線や反応を見ていれば何となく察しはつく。
彼は話せば楽しいし女子の扱いもわかってるとかで女子の間では評判の先輩だったが、私は一時期彼と付き合っていた友人が浮気されて別れたことを知っている。その時点で好感度は最底辺なのだ、間違っても靡くわけがない。

急いで席を立ちトイレと称してその場を離脱するも、そう上手い解決策は思いつかない。仕方なく戻ってきた座敷で、しかし今し方腰掛けたその人を見た時、そうだこれだと思い至った。
この人の隣にいれば、滅多なことにはならないはずだ。

一方的かつ根拠のない信頼を基にしたそれは殆ど賭けに近く、藁にもすがるような思いだったのは間違いない。それでもわざわざ席を変えてついてきた先輩に寒気がした瞬間、せめてこのひとの隣で本当に良かったと思ったのだ。

『ごめん、隣いいかな』

岩泉一。

それが学科内一の硬派な男前と名高く、男女問わず信頼と人望の厚い、そしてその分け隔ての無さゆえに私でも比較的気軽に話が出来る彼の名前だった。



XXX



『あー名前ちゃんもう帰ろっか。すげー顔赤いじゃん、ヤバいって』

隣の先輩が何を言っていたのかは、正直なところ殆ど覚えていない。

飲み会の後半からは本当に意識が危うかったと思う。多分熱の所為もある。それでも覚えているのは腰に回された手の感触だ。アルコールが入ってから肩や腕へのスキンシップがやけに増えているのは察していた。それを可能な限り躱すのもギリギリだったところを、馴れ馴れしく腰を触られた時にはたまったものじゃなかった。

急沸した拒絶反応は、それまで何とか押し殺していた吐き気と嫌悪の蓋を木端微塵に吹っ飛ばしたらしい。すでに朦朧とした意識の中、溢れ出した感情の濁流に飲み込まれ、自分で自分をどうしようもなくなった。まさにその一言に尽きた。

気持ち悪い、触るな、誰か助けて。吸うばかりの酸素が喉奥に詰まって呼吸一つままならない。助けを求めて伸ばした手が触れた温度に気づけばすがりついていた。

…何度も繰り返すが、私は先輩が言っていたことを殆ど覚えていない。でも記憶が完全に吹っ飛んだわけでもないのだ。つまり自分が何を言ったか、何をしたのか、全て忘れているわけじゃない。

思い出せるのはどうしようもない感情が涙腺を半壊させたこと。号泣とは言わない。けれど昨晩の私は下心丸見えの腕に対する気持ちの悪さで錯乱し、挙げ句みっともなく泣き出した。
そうして身をよじって隣の腕から逃れようともがき、まるで為す術を失くした子どものように隣の彼に縋りついたのだ。

『おい名字、』

彼が途中から私に回されるグラスを自ら空にしたり、水の其れに代えて寄越してくれたりしていたのは覚えている。それがなければ間違いなくその時点までに私は陥落していたはずだ。だからこそここが最後の砦、そんな認識がきっと混濁した意識のどこかに引っかかっていたのだと思う。

濡れた目元を押し付けた肩は厚い筋肉に包まれていて、触れた腕もまた惜しみなく鍛え上げられた逞しいものだった。
耳元で私の名を呼んだ驚きと焦りの混じった声、放すまいと握り締めた腕の温度。ここにしか救いはない。この腕を離したら何をされるかわからない。
アルコールで瓦解した理性は感情の荒波に耐えきれず、恐怖と嫌悪で完全に押し潰された私は、取り乱し、しゃくりあげながら口走っていた。

『やだ、たすけていわいずみ、やだ』



XXX



『名字、落ち着け。なんともねぇから』

背中を叩いてくれる手のひらと落ち着いた声は、泣き疲れてぐったりするまでそばにあったはずだ。
喧騒が遠ざかり夜風が頬を冷やすのを感じたのは覚えている。地に足はついていなかった。体勢からして間違いなく、いわゆるお姫様抱っこというヤツで、私は岩泉に運ばれていたのだ。今思い出してもそのなんと安定感のあったことか。
そこで私の記憶は完全に途切れている。これは消えたとか飛んだのではなく、寝落ちというやつによるものだ。

そして意識ははっきりしている今、私は全力で途方にくれていた。

目を覚ましたのは温かな布団の中。自宅のものではないベッドの感触、見慣れぬ天井を前にさっと血の気が引いた。飛び起きたそこには薄暗い早朝のリビングと、右側にはソファが一つ。その肘掛けに乗った短い黒髪を見た瞬間、凄まじい懺悔の思いが私を呑み込んだ。ここ、岩泉の家だ。

「…うそだ…」

どう考えても嘘じゃないけど言わせてほしい。そろそろとベッドを抜け出しソファの傍に座り込み、私は頭を抱えて呻くように言った。

私はコートと靴下だけ脱がされ、暖かな布団に寝かされていた。対する岩泉は薄いタオルケット一枚にくるまり、ソファで体を折り曲げ静かに寝息を立てている。真冬ではないにしろ、これでは風邪を引いてもなんら不思議じゃない。

何の関係もない彼を巻き込んだ私は、さぞ面倒極まりなくぐずったに違いない。挙げ句意識を飛ばした私を連れ帰り、彼は指一本触れるどころか楽な服装に整えさえしてベッドを譲ってくれたのだ。その余りの気遣いの程にほとほと申し訳なさが募る。

ならば尚更こうしてはおれない。私はベッドから布団を運んできて、起こさないよう細心の注意を払いつつ岩泉の体を覆おうとした。しかし肩口まで布団を引き上げたその時、薄闇の中、不意に彼の瞼がゆっくり持ち上がった。

「っ」
「…」

思わず息を殺して身構えたのは寝ている人を起こしてしまったときの通常反応だ。眠気を纏い、常の隙のない鋭さの影を潜めた瞳が、緩慢に瞬きながら私を捉えた。硬直したままの私を見つめていた岩泉が不意に身じろぐ。タオルケットから伸びてくる大きな手。
戸惑いながらも動かずにいれば、体温の高い指先が私の腕を捉える。何を。思って反射的に身構えた私の体はしかし、男の力を前に呆気なく重心を傾かせた。

「…さみぃ、」

辛うじて聞こえたのはその一言だっただろうか。曖昧なのはブレた視界が思考もろともブラックアウトしたからだ。

目の前が暗い。何かに肩甲骨を拘束されている。回されたそれが私のものより一回りも逞しい腕だと理解した瞬間、二度目の衝撃が頭を真っ白にした。ちょっと待てどういう状況だ。どういう状況だ。

「い、わいず、み?」
「…んん…」

完全にひっくり返った声で呼ぶも反応は鈍い。恐らく夢心地というところ、寒い、と零した彼であるがしかし、伝わる体温は寝起きの人間らしく十分高かった。
身じろぐにも身じろげない。ぎゅうと押しつぶされそうな顔を何とか横向かせるのが関の山だ。さすればぴたりとくっついた頬に、硬い筋肉に包まれた胸板が押し付けられる。

シャツ越しに鼓膜を揺らす心音。駄目だ飛ぶ。現状一つもわかってないのに意識飛ぶとか冗談じゃないけど、このままなら間違いなく飛ぶ。好きとは言わずとも普通に良い人だよなあなんて人並み程度の憧れを抱くような相手にわけも理由もなく抱きしめられ、冷静に実況見分出来る鋼の心筋など私には装備されていない。

「いわ、っ…!」

なんとか状況の打破を。意を決して呼んだ名前はしかし形になる前に粉砕された。
すん、と首筋にうずまる鼻先と肩口に触れる柔らかな感触。襟口から吹き込まれる熱い吐息に首裏の毛が逆立った。顔が熱い。今絶対見れない顔してるに違いない。

そろり、手が伸びたのは距離を空けようとしてのことか、応えようとしてのことか。なんであれ完全なる無意識だった。抱きしめ返すとは言わない、けれど彼の腕に触れた途端、輪郭のはっきりしない意識を纏っていた指先は、触れた温度にびりりと痺れる。

しかしその余韻に浸るまもなく、襟元に感じていた呼気がその温度を失った。いや、正確には、呼吸が止まった。

「…岩泉…?」

呼んだ瞬間両肩へ加わる尋常じゃない力。思わず呻き声が漏れ顔がゆがむ。がばり、体を引き剥がされる勢いで脳みそが揺れた。
次は一体、なんて考える間もなく目前に飛び込んできたのは、雷に打たれたように呆然とする岩泉の姿だった。

「…は…?なん…今、俺…」
「…えーっ、と」
「っ、悪い!」

見事な腹筋力と言うべきか、岩泉は布団を蹴飛ばす勢いで見事にソファから跳ね起きた。同時にまるで火傷したかのように放された肩がじんじんと痺れる。薄暗い室内のはずなのに、愕然とした彼の顔からさっと血の気が引いていくのだけははっきりと感じられて、私はがらりと変わる彼の面持ちを声もなく見上げていた。

「スマン、完全にボケて…っ」
「あ…ああ、うん、いや」
「悪かった、俺お前に何か」
「大丈夫、してない。何もしてないよ」
「怖がらせたり」
「してない。全然してない」
「じゃあ気持ち悪いとか、」
「落ち着けそれは絶対ない!」

流石にそれは心配のし過ぎというか、いっそ卑下に近いような確認に私の方が飛び上がった。さっと走った視線で確認されたであろう着衣もコートと靴下以外見事に昨日のままだし(むしろそれこそこっちが申し訳ない)、寝ていたベッドとソファもかなり距離がある。
つまり彼の脳内をどんな想定が駆け巡ったかは神のみぞ知る領域だが、少なくとも顔を真っ青にさせてしかるべき事態は何一つ起こっていない。むしろ加害者は私である。

「…本当に平気なのか?」
「本当に平気だよ」
「けど昨日触られた時…」
「アレ!?いやアレは完全に別件というか、まるで比較対象にならないっていうか、…いやそれより昨日本当ごめん、どうしよう私死ぬほど迷惑かけてホント、」
「俺のことは今どうでもいいんだよ。それよか、名字があんな弱るなんて相当だろ」

大丈夫なのか、他に何かされたんじゃないか。そう重ねて問う彼の面持ちは先ほどの動揺を見事に消し去っていて、そこには普段の凛とした表情があるばかりだ。それはその場しのぎの話題ではない純粋な気遣いと心配を語っていて、厳しい表情に隠れた優しさにありがたい思いが沸き上がってきた。

先輩の一件に関して言えば昨日の一件以外無理やりの接触はない。ただ昨晩のアレは完全に仕組まれていたというか、早い話が下心丸見えだったのが一番生理的に無理だったのと、私自身のコンディションの悪さが相まってダメージが増幅したのが悪かったのだ。それに比べて岩泉とのコレは単なる事故というか、気の迷いというか、つまり彼の疑うような視線に改めて考えても、昨日のような嫌悪感が沸いてくることはないのである。

「アレはこう…下心が露骨過ぎて拒絶反応出たっていうか」
「なら余計に、――――あ、」

はっとして何かを言いかけた岩泉の言葉が止まった。やらかした。ポーカーフェイスなどとは無縁に違いない彼の表情が語る焦燥に、思わず彼の口走った言葉を反芻する。なら余計に。余計に、何だ?余計に……、

「…、…は?」

まさか。
思って顔を上げた先、ぱちん、一瞬噛み合う視線が間髪入れず逸らされる。背けられた横顔は酷く決まりが悪そうで、頑なに背けられた眼差しがこちらを伺うことはない。

回収不能の沈黙。上がっていいのか下がっていいのか、首元で滞留する血の気が頸動脈でどくどくと脈打つが聞こえてくるようだ。いやでもそんな話。…けれど万一、もしかして。

「…岩泉、あの」
「言うな。わかってる」
「いや、けど何が」
「名字がそういうの好きじゃねぇのは知ってる。だから言うな、頼むから」
「…じゃあ、岩泉が助けてくれたのって」

冷静に聞こえるようで余裕の感じられない制止を無視して踏み込んだ一歩、核心は突かず結論を委ねた問いに、しかし彼は応じなかった。
背けられた顔の角度がますます深まり、その横顔がほとんど見えなくなる。こういう時のこういう無言は、十中八九が肯定を意味するのが定石。

最後に沈黙を破り捨てたのは、彼の諦めたようなため息だった。

「…悪い」

忘れろ、…ってのは無理な話か。
続いてこぼされたそんな小さな彼の声に、ぶわり、行き場を失くしていた血潮が体温と一緒に急上昇した。
返ってこない返事、苦々しさと諦めを足した表情をした彼がそっとこちらを伺う。しかしそれより一瞬先に、私はがばりと身を翻し、彼の背後、その視線の及ばない先に逃げ込んでいた。

「おい、」
「タンマ、ストップ、ちょっと待て」
「…名字?どうかし…」
「ごめんちょっと今顔見れない」
「、」

ソファに腰掛けたままの岩泉の腰、その影に隠れるように垂れた頭に注がれる驚きと困惑の視線を嫌というほど感じる。ようやく出した呻きに近い弁明の声のなんと情けないものか。

カーテンの向こうの空は穏やかな夜明けを迎えようとしている。遠慮がちに私の顔を覗きこんだ心配顔の彼からこの額まで火照って真っ赤に違いない私の顔を隠すには、この部屋はもうすでに明るくなり過ぎていた。


150916
岩泉さんはいつも難産です。

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