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▼ White Out.


学校全体に充満する陽気な空気が足元をふわふわさせる。高揚感と緊張。楽しいのは間違いないけれど、文化祭一日目である今日の午後、重大な任務を控える私は、まだ手放しにリラックスは出来そうにない。

三年五組お化け屋敷、大道具裏方―――いざ、参る。


教室というスペースを限られた空間で机や棚をフル活用し、様々な場所に仕掛けを施した私たちのお化け屋敷の裏方は当然それなりに忙しい。生徒によるネタバレ対策のためにも一部のネタは三日間日替わりとする予定のため、その準備もある。お化け担当の入れ換えにはメイクや着替えも必要だ。
だがその手間の甲斐あって、クラス総出で本気で怖がらせにかかった私たちのお化け屋敷は、開始から大盛況だった。

ダンボールで仕切られた裏方用通路の一画、仕切られた狭いスペースから出ると、私は氷水を張った洗面器に右手を突っ込んだ。通りかかる人が分かれ道で迷う間に、キンキンに冷えた手で腕あたりを掴むのが私の役割だ。地味だがなかなかハードな役回りである。主に体温的な意味と、たまに驚いたお客にかなりの力で手を振り払われるという意味で。

だが限界の高さで教室に設置した鉄棒から突如逆さまにぶら下がるという、アクロバティック系お化け役を買った体操経験者の子もいれば、奇声を上げながら貞子よろしく地面を這う体育会系男子もいるので文句は言うまい。私の役は十分文科系である。
それに必ず全員に仕掛けるわけではなく、タイミングが合えばという不規則制を生むことで、口コミによるネタバレに混乱と新たな恐怖を加える…という我がクラスの敏腕プロデューサー(学級委員長)の提案もあって、私は実に楽をさせてもらっているのだ。

あえてBGMは流さず静寂を保たせた教室内部には時折女子の悲鳴と男子の叫び声が木霊する。私はふう、と息をついた。
少し離れたところで、演劇部の女の子がさすがの演技力で「出してよぉ…ここから出してよぉ…!」と壁向こうの通路に向かっておどろおどろしく囁いている。ちなみに彼女もお客の三組に一組に向かっては、その真っ白な手で紙の壁を突き破ることになっている。うーん、身内であっても怖い。

私はもう一度深呼吸する。酸素が薄いのは気のせいだろうか。気道が少しずつ狭くなる錯覚で気持ち悪い。それでもやはり準備していた分、パニックに陥るような兆候はなかった。私にしては上々の戦況である。
大丈夫、あと一時間の辛抱だ。腰掛けた地べたの床に張られた蛍光シールの端をなぞりながら、再び深く息をついて、

「名字」
「ッ!」

ふっと落ちてきた声に肩が跳ねた。暗がりの中反射的に顔を上げる。さすがに暗さに慣れた目が捉えた輪郭と、低く抑えられた声に感じる既視感。

「え、…岩泉くん?今って…」
「及川がうぜぇから戻ってきた」
「…左様でございますか…」

学校のアイドルと名高い幼馴染を遠慮なく切り捨てる物言いに苦笑いしか出てこない。だがその口振りからすると、バレー部、少なくとも幼馴染みコンビは一緒に回っていたということになる。意外だ、及川くんなんて特に彼女さんと巡っていそうなイメージがあるんだが。

「それに、準備期間はロクに手伝わなかったからな。当日ぐらい働く」

お客がまだ来ないのを確認しながら、さも当然の如く言ってしまう岩泉くんに一瞬言葉を失った。仕切りの隙間を伺う姿すらサマになるから男前とは恐ろしい。
だが彼の担当時間は明日のはずだ、それをそんな義理堅い理由でわざわざ戻ってくるなど。

「でも役は…」
「半から須藤と交代する」
「半…一時半?」
「おう。あいつ彼女出来たっつってたし丁度良いだろ」

暗がりの中こちらを見やった岩泉くんが、ちょっと得意げにニッと笑う。返す言葉もない、なんて男気溢れる気遣いだ。これがギルティ岩泉の真骨頂…!と脳内で一人実況をしていれば、立っていた岩泉くんが私に合わせてしゃがみこんだ。…待て待て待て近くないか。どうした距離感仕事しろ。

「名字は平気か」
「えっ!?うん、え、いえ…!?」
「っぷ…なんだそれ、どっちだよ」
「いやいきなりしゃがむから…!」
「だって話しにくいだろ」

「だって」って。いや確かにそうだけども、近い方が声のボリュームも落とせるけど。もごもご言いたいのを堪え曖昧に同意せざるを得ない私の心臓の小ささが憎い。

だが何より驚いたのは、彼がわざわざ私に気を留め声をかけてくれたことだった。無論単に通りすがりに私を見かけただけのことに違いない。それでも屈託なく笑う彼の顔を見れば喜ばずにはいられないから困った話だ。

「で、どうなんだ」
「…今のところ平気だよ。わざわざありがとう」
「気持ち悪いとかねーの」
「あー…それはちょっと。でも、我慢出来ないほどじゃないから」

それに、こうして誰かと話していればいい具合に気も紛れるのだ。
通路に背を預け、二人並んでしゃがみこむ。光源ゼロでもわかる、彼の視線を感じる身体の右側がちりちりと焦げ付くようだ。

「あんま無理すんなよ。キツかったら代わってもらえ」
「うん、ありが、」

ぶつん。言葉が切れた。くしゃり、降ってきた何かが私の頭をかき混ぜる。分厚くて硬い、大きな―――手のひら。岩泉くんの手。

「っ…!?」

彼の制服のブレザーのボタンから目を離せない。全神経が頭頂部に集結する錯覚。長い指が無造作に頭をなぞる。
仕切りの向こう側、演劇部の彼女にさんざん肝を冷やされたカップルが通り過ぎてゆくのが聞こえる。あ、腕掴むの忘れてる…。

「い、いわ、」
「うわっ!?」
「きゃあああ!!」

必死の限りで絞り出した声は、カップルの悲鳴で掻き消された。何があったか理解するより早く、ガタン、仕切りが大きな音をたてて振動する。
あ、と言う間もなく傾く仕切り。確かコレ木材を釘とガムテープで―――。

「ッチ!」

足元をぐらつかせた客のどちらかが、思いきり仕切りにぶつかったのか。思ったその時には目の前から岩泉くんが消えていた。否、正確には立ち上がっていた。どんな敏捷性と反射神経だ。
だがかく言う私も彼の動きにつられて、何が起こったか理解する前に全身で仕切りを支えにかかっていた。一瞬私を見た岩泉くんが一歩こちらに踏み出し、私の後頭部を通り過ぎた左斜め上へ腕を伸ばす。はっとして見上げれば仕切りの上側がぐらついていた。あ、危なかった…!

「釘打ちが甘ぇ…!」
「っ…ごめんありがとう岩泉くん、」
「いい。そこ動くな名字、」

岩泉くんがぎゅっと眉間に皺を入れる。力を込め過ぎれば向こう側に倒れてしまうであろう仕切りを、私の頭上のために左腕を明け渡したまま、右腕と右膝だけでゆっくり水平に戻してゆく。非力な自分が申し訳ない。

「名前そっち大丈夫!?」
「っ…なんとか!」
「俺もいるから問題ねぇ、反対側手伝ってやれ!」

通路左から飛んできた友人の声に応じれば、彼女はすぐさま反対側の確認に回った。お客を誘導する声、にわかに慌ただしく響き始める足音。
私も正直左腕が限界近い。でも初日でセット崩壊は何としても回避しないと、

「!?」

どん。後ろから伸びてきた腕が私の顔の右側の手につく。突然背中に迫る人の気配。断じて言うがホラーじゃない。むしろ熱い。左腕にかかっていた重力が一気に軽くなる。

「なんっ…!?」
「じっとしてろっつったろ」
「っ!」

真上、至近距離から降ってきた声に否が応でも現実を理解した。いや落ち着け、これは偶然の産物であり事故であり緊急事態であるが故の苦肉の策だ。断じて最近巷で噂のああいう、何だ、つまり壁ドンとかいう少女漫画イベントじゃない。沈め私の煩悩、そもそも私も壁に向いてる時点でいろいろ違うわ!

だがそんな完全にテンパってるところに追い打ちをかけたのは、仕切り一枚越しに向こうから聞こえた委員長の声。

「名前平気っ?助けにいきたいけどこっちヤバくて、」
「いっいや大丈夫!多分こっち平気だからそのままそっちいてあげて!」

いいえ嘘です全然平気じゃないです。予期せぬどころかいっそ未知の状況に脳味噌が沸騰しそうです。
でも今助けに来られたら間違いなくとんでもない誤解が生まれる。クラスで生きていけなくなる。涙目である。

体が縫い付けられたように動かない。顔の横、捲り上げられたシャツの袖から露わになった逞しい腕が緊張し、しなやかな筋肉の輪郭を浮かび上がらせている。完全に機能する夜目が仇になる。じわじわ上昇する体温は誤魔化せそうにない。
気付けば仕切りはバランスを取り戻していた。

「何とかなったな」

同意を求めるようにも独り言のようにも聞こえた岩泉くんの声が、鼓膜を貫き心臓を震わせる。うんともああともつかない応答をなんとか零したものの、どういうわけか彼が動く気配がない。

いや何故だ。もう仕切りは自立可能のはずだ。むしろ二足歩行もできるんじゃないかという直立具合である。なのに続くこの沈黙の意味は何だ。彼は一体何がしたいんだ。
いっそ現実逃避に走ったその時、表情のわからない彼が言った。平坦で、感情の読めない、けれど気のせいでなければ少し緊張した声だった。

「名字」
「な、なにっ?」
「…この前の、『たまたま』っての、取り消す」
「…うん?」

停電ン時も、今日のコレも、

「偶然じゃねーから」

す、と背中から離れてゆく温度。顔の横にあった大きな手が仕切りの壁から離れてゆく。足が縫いつけられたように振り返れない。心臓以外の全身が死んだようだ。

沸騰しそうな頭はまるで役に立たず、散らかった言葉の中で途方に暮れた唇が、譫言のように問い尋ねた。

「―――それは、…どういう」
「…」

突然の停電と暗闇、パニクった私を見つけ、教室から連れ出してくれたこと。文化祭当日の今日、二時間の当番を果たす私に声をかけてくれたこと。ココアの味と頭を撫でる手、背中に感じる高い体温。

――――まさか。
血迷ったか私の煩悩、身の程を弁えろ。あの岩泉一だぞ。ため息が出るほど素で男前で、男子からの人望は厚く女子からの評判も高い岩泉くんが、そんな話あるわけない。

彼がふっと息をつく音がした。そうしなければならない気がして、私はゆっくり背後を振り向く。
暗闇の中、停電の時と同じだ。微かに空間を漂う光の粒をすべて集めて淡く輝く双眸が、私を真っ直ぐ見下ろしている。

一瞬視線が逸らされた。二、三度迷うように唇を開いたり閉じたりした彼は、ガシガシと頭を掻き、彼らしくなく言葉を濁す。

「…なんか目につくんだよ、お前」
「…。…それは目障り的な意味で…?」
「アホ、ちっげぇよ!お前は俺をなんだと思ってんだ」

一瞬ぱきんと固まった私のとち狂った返しに、彼は勢い良く吹き出した。幸いにも気を悪くした様子はなく、酷くおかしそうに肩を揺らして笑っていた彼は、それからどこかすっきりした顔で私を見る。

人工的に作り出された暗闇の中、色彩の無い視界と僅かな光量のもと、この人の表情だけが、その些細な変化に至るまで鮮明に浮かび上がるのはなぜなのだろう。

「ただまあ、アレだ」

岩泉くんが笑う。口元に浮かぶ少年のような悪戯げな笑みと裏腹に、軽く細められた瞳に閃いた光に一瞬息が詰まった。

恐怖はない。けれど今までにないサイレンが私の中に鳴り響いている。
不敵な色、こういうのをなんて言うんだっけ。何か、心臓を掴み取られてしまいそうな、心を駆り立てるそんな予感を、


「もうちょっと自惚れてくれりゃ、俺もやりやすいんだけど」


くしゃり、再び私の髪をかき混ぜた彼が言う。背を向けた彼の姿が闇に溶け込んでゆく。
「須藤、代わるわ。回ってこいよ」なんて、何でもない声音で交代を申し出る彼の言葉を呆然と聞く脳味噌が、今更すぎる解答を提出した。

――――そうか、これ、宣戦布告。


150608
ちょっと気になるヤツ→ターゲット認定。
もう続きません...

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