short | ナノ


▼ Black Out.


ばちん。

突然落ちた照明、どっぷりと闇に浸る空間。え、と漏れた自分の声は酷く間抜けていて、けれどそれで現状が巻き戻しになるかと言えばそうではなかった。

「えっ何停で…っい!」
「あっごめん踏んだ!」
「やだ怖い!」
「おい誰か電気消してねーか?」
「スイッチつかねーぞ」

ざわざわり、教室がざわめきに包まれる。女子の悲鳴に続いて、互いを探す声、モノがぶつかる音、足音や話し声が洪水になって暗闇を渦巻かせる。ぐらり、脳味噌が水平感覚を失う錯覚。どうしよう、どうしよう、うごけない。

文化祭準備期間に入って一週間、本番まで残り三日となった今日から、クラスの内装を整える作業はラストスパートに差し掛かっていた。当然放課後遅くまでかかるのは仕方のない話で、それでも普段は部活で忙しいクラスメートたちも三日前だということで多く集まり、とっぷり日の暮れた教室は文化祭シーズン特有の高揚感に満ち溢れていた。かく言う私も工作作業が好きで楽しんでいた人間の一人だ。そう、楽しんでいたのに。

前後感覚が麻痺しそうになる。窓の外も真っ暗だ。落ち着け、落ち着け、滑り落ちそうな冷静を必死でつなぎ止めながら、私はせめてもの抵抗として精一杯深呼吸する。
見開いたままの目ですら視界を捉えられない事実が心臓をぐらつかせる。いっそ両目を瞑ってうずくまってしまいたいのに、硬直した目蓋は眼球に貼り付いたまま動いてくれない。

「、…っ」

脳味噌の揺れが足にまで降りてゆく。前後も上下もふわふわし始めた。地に足がつかない。いよいよ呼吸が出来なくなる。どうしよう、どうしたら、誰か、

「…名字?」
「ッ!」

真横から降ってきた低い声が、錐揉みしながら下降していた私の意識を引きずり上げた。
ぱ、と差し込む光。天井じゃない、もっと小さくて、けれどもっと強く鋭い光。

ぐらつく頭を何とか持ち上げる。酷い目眩に吐き気がした。気持ち悪い。それでもようやく見上げたそこには、予想外の人物の顔があった。

「どうかしたのか?」
「っ、…?」

短い黒髪、逞しい体躯と、見上げるような長身。眩しいライトの上、圧倒的に乏しい光源を集めて薄く被った双眸の鋭さ、その淡い輝きに、思わず息が止まった。

それが準備期間ラストスパートのみ参加する部活組の一人である岩泉一の姿であり、加えて彼が頭上に翳したそれがスマホのライトと気付くのに、少し時間がかかった。

「、おい大丈夫か、真っ青だぞ」

なにが、と聞く間もなく、ようやくそれが私の顔のことだと理解した頃には、胸前で固まっていた手首を一本掴まれていた。

彼はそのまま何の躊躇もなく歩き出す。当然手首を取られた私はそれに引っ張られて進むしかない。
まさに即断即決、いっそ驚く私の方が間違ってるんじゃないかと思うほど迷いのない行動に、私は目を白黒させた。ちょっと待て、何がどうしてこうなった。

「こっち」

ほとんどもつれるばかりの足があちこちに散らばったダンボールやガムテープにつまづく。わけもわからないまま進む私をちらり、振り向いた彼が、スマホを後ろ手に差しだし、私の足元を照らし出して、―――す、と頭が軽くなった。
床が見える。ちゃんと歩ける足元がある。

「見えるか?」
「…う、うん、なんとか…」
「よし、気ィつけろよ」

凍り付いていた心臓が動きを再開する。勢いよく送り出される血液が全身に酸素を巡らして、麻痺した感覚を拾い集めてゆく。
彼は未だざわつくクラスメートたちの間を縫って、時折断りを入れながら歩いてゆく。同じようにスマホのライトを付ける人たちがこちらを怪訝そうに見るのがわかったけれど、気まずいと感じるだけの余裕はまだ戻っていないようだった。
そうして手首を掴む大きな手の温度をようやく感じれた頃には、がらり、開かれたドアの向こうへ足を踏み出し終わっていた。

「うわ、これ校舎全部かよ…ブレーカーから落ちたな」

きっと顔をしかめているんだろう声音で岩泉くんが言うのが聞こえる。真っ暗な廊下に煌々とともる、壁沿いにある消火器の赤いランプが目に痛い。

それでも窓際から届く外の街灯のおかげで、廊下は教室ほど暗くはなかった。少しずつ暗さに慣れてきた目が、ちょうどこちらを見やった岩泉くんの輪郭を捉えた瞬間、右手首を掴む力がふっと緩んだ。

「あ…、」

声にならない声が零れる。ゆるむ拘束、薄れる温度。宙ぶらりんに浮いていた手が追いすがるように前のめりになる。

我に返った時には遅かった。機能し始めた夜目が仇になる。彼が驚いたようにこちらを見下ろすのが、暗がりの中でもわかってしまった。

「、…」
「ご、めん。その」

続いた言葉はぶつ切りになる。岩泉くんが、正確には、私の手首をしっかり握り直したその大きな手が遮ったのだ。

「下行くか。…多分、そっちのが明るいだろ」
「…ごめん、あの、」
「いい、気にすんな」

羞恥と気まずさで顔が熱い。なんたる失態。心臓が燃え上がりそうだ。

自分で離して欲しくないような態度をとっておいて身勝手なのは百も承知だ。それでも突然戻ってきた現実感についた火は消せそうにない。初めはただ掴まれていることしかわからなかったはずの手のひらのその厚み、武骨な堅さと少し高い温度がびりびりと感覚を痺れさせる。

だって普通じゃない、こんな状況。相手は女の子じゃない、背丈も体格も行動パターンも全く違う、もっと言えば生きる世界から違う男の子――――それも「あの」岩泉くんなのだ。


岩泉くんがものすごくモテるという話は聞かない。でも幼馴染みだという及川くんにこう、フワッとしたファンが大勢いるのに対し、岩泉くんを好きになる子は基本的に皆本気、いわゆる「ガチ勢」だよなという男子の評価を耳にしたことはある。

女の子たちの好意が表面化しないのは恐らく、彼が360°どこから見ても隙無く部活一筋だからだろう。大抵の子は邪魔したくない、或いは振られるのが怖いといった、当然抱くのも理解できる感情から告白しないケースが多いらしい。ありがちだが実に納得のいく推論だと思う。

及川くんと並ぶと余計際立つのだろうが、彼は普段積極的に女子と関わるタイプじゃない。会話すれば普通に話せるけど、見てるからに男子とワイワイやる方が性に合うんだろう。

そのくせ重い荷物を運んでいる子がいれば当然の如く手伝うし、係決めや順番待ちなんかでは大抵女子を優先する。その行動すべてには下心どころか、何の気負いも迷いも一切ないのだ。
事実私も何度か彼に助けられたことがある。資料を運ぶとき、ゴミ捨てに行くとき、自分一人でも出来なくはないが少し骨の折れそうな絶妙なタイミングで、彼は不意に手を貸してくれるのである。

とは言え恐らく岩泉くんは別に英国紳士タイプじゃない。むしろいろいろ無頓着で拘らない、割と雑な方なんじゃないかと思う。それはすなわち彼にとって、そうした「紳士的行為」は呼吸に等しい当然の行いであり―――言い換えればきっと、さして特別な意味のない些末な事なのだろう。

文句無しに男前でありながら、むしろだからこそ、そこに深い意味が一切ないことは彼を少し観察すればすぐわかる。こうなると彼に想いを寄せる子たちは大変だ。惚れさせるだけ惚れさせておいて、当の本人は悪意も自覚も(恐らく)一切皆無なのだ。
これが本物のタラシ。ギルティ岩泉恐るべし。

しかしそれが彼の評判を落とすことはない。まさに一昔前の男気というものを息するように体現するそんな彼が、知る人の間で密かに評判となるのは当然である。

格好良いよなあ。
そこに恋愛感情がないにしても噛み締めるようにそう思う感情は多分、感心ないし憧憬という名前がよく似合う。それはきっと、きっかけさえあればいとも容易く、叶う見込みのない厄介な感情に姿を変えるだろう。
何を隠そうとどのつまり、私も単なる女子Bに過ぎないという話だ。


そんなあれこれを考えれば、どうしようもなく目の前の背中を意識してしまう自分が実に情けない。身の程を弁えろ、これは彼にとっては何でもない偶然の通り道なのだ。そこにたまたま私がいた、それだけの話で勘違いするなんて愚かしいにもほどがある。

とは言えあんな真っ暗な場所で私の様子に気付くとは、岩泉くんの観察眼(視界ゼロだったけど)は恐ろしい。それも教室から救出してもらうとは、私そこまで呼吸がおかしかったんだろうか。…ああなってしまうといつも、自分じゃ自分をどうにも出来ないからわからない。
まあ同じ大道具を担当する彼が近くにいたのは不思議じゃないから、それも単に偶然なんだろうが。

時折切れるライトを付け直しながら、岩泉くんは私を連れて廊下を進み階段を下る。どう考えても私より遙かに長い脚なのに、私は少しも速度を上げることなく彼の後ろを歩くことが出来た。

ようやくまともに機能し始めた思考が冷静を手繰り寄せた頃に、昇降口近くの自販機傍にまでやってきた。街灯が明るく照らすベンチに座るよう導かれ、とにかく促されるまま腰掛ける。岩泉くんはやっぱり迷いなく自販機に小銭を入れ、それからくるりとこちらを向いた。

「名字、何にする」
「え、…い、いいよそんな」
「今飲むと気分悪ィか?」
「いや、そういうわけでもないけど…」
「ならいいだろ。あったかいの飲めば、ちったァ落ち着くだろ」
「…ごめん、じゃあ…ココアか紅茶があれば」
「ん、ココアな」
「あとでお金返すよ」
「いーよ、気にすんな」
「でも、」
「黙って奢られてろ、大したもんでもねーから」

ピ、ガコン。大きな手に無造作に掴まれた缶が差し出される。躊躇うものの、視線だけで促され、恐る恐る両手で受け取った。缶の熱さと触れた彼の指先で一瞬肩が跳ねそうになる。なんとか堪えて平然を装った。プルタブに指をかけた。あ、堅い。

岩泉くんは缶コーヒーを選ぶと、呆気なくプルタブを引いてベンチに腰掛けた。人一人分空いた空白が気まずさを呼ぶ。缶を空けられない。ふっと手が伸びてきて、きれいに切り揃えられた爪の指が私の手からココアを抜き取った。あ、と言う間もなく、ぷしゅ、と響いた軽い音。開封済みのそれが飲み口から湯気を立てて戻ってくる。

「ん」
「……ありがとう」

圧巻である。恐ろしい人だ。これを他意なくやってのけるとは何事。
岩泉くんって怖いね、という本音は熱いココアと一緒に飲み込んだ。一拍遅れて胃が温まる。ほう、と息が漏れた。本当だ、落ち着いた。…問題ない、もう平気。

「ごめん、さっきはありがとう」
「いい、謝んな。…暗いの苦手なのか?」
「うん、全然ダメ。トラウマとかそんなんはないんだけど、生まれつきで」
「、ふうん…高所恐怖症とか、そんな感じか」
「あー、まさにそんな感じ。夜の暗さとか、自然な暗闇はある程度平気になったんだけど、停電とか、突然で人工的な暗さはテキメンに駄目」

単に怖がりと言えばそうだったのかもしれないが、幼い頃は夜も電気を付けていないと寝れなかった。幼稚園で停電が起こった時に一度きりだが、パニックで過呼吸になったこともある。
まあ一番酷くてもそれで済んだし、そもそも停電自体そう日常的に起こることもないから、普段生活する分には支障ない。ただこうやって久々に、しかも台風や雷雨なんかの予兆もなく不意打ちでやってこられると、さすがに対処に手間取ってしまうのだ。

「…待て、じゃあうちのクラスの出し物…」
「うん、お化け屋敷だね」
「…大丈夫なのか?」
「…辛うじて根性でセーフかな」
「じゃあアウトじゃねぇか」

呆れたように言った岩泉くんが顔をしかめるのを見て苦笑する。けどまあ心の準備さえしていればさっきみたいにパニックになることは殆どないし、私は裏方だから周りにクラスメートもいる。蛍光シールで足元も確保するらしいからそれほど問題じゃない。
そう言うと、しかし岩泉くんは眉間に皺を入れたまま、納得しかねる顔で言った。

「けど、怖ぇのに変わりはねぇんだろ」
「…それは、まあ。でも事前にわかってるから心の準備も出来るし、アレルギーでもないし」
「出し物自体は変えらんねーにしても、客寄せに回るとかなかったのか」
「客寄せは万場一致で高橋さんと町田さんに決まったからなあ」
「なんでその二人なんだよ」
「え」

私は思わず目を丸くして岩泉くんを見た。なんでも何もない、その二人はクラスで一、二を争う美人と評判だぞ。

「そりゃ、クラスの美人どころだし…」
「はあ?…ああ、そういや及川がなんか言ってたな」

「はあ?」って、いや、マジっすか。
なんてこった、クラスメートの女子の話なのに及川くん経由ってどういう事態だ。どんな興味ないんだ。ていうか及川くん別のクラスなのに何で詳しいんだろう。イケメンだからか?

にしてもこのひと、ホント興味がないものには無頓着なんだなあ。そう思ったらなんだかいろんなものがどうでもよくなって笑えてきた。

「?何笑ってんだ」
「いや、ふふ、ごめん、岩泉くんってホントなんていうか…素で格好良いよね」
「は?…何だよいきなり」
「うーん、こう…親切に裏がないところが。ほら、よく女の子助けてるけど、周りをよく見てるし、すごく自然体だから」
「…別に慈善事業でも、誰彼構わずやってるわけでもねーよ」

気のせいか、心なしやや歯切れの悪い口振りで言う彼は少しバツが悪そうだ。謙虚だなあと感心しつつココアを傾ける。
とは言え本当に感謝しているのだ。見たところ停電はまだ復旧してないし、あのまま教室で動けずにいたら最悪人生二度目の過呼吸に陥っていたかもしれない。

「でも本当によく見てると思うよ。あんな暗い中で気付いてくれる人がいるなんて思わなかった」
「…それもたまたま近くにいただけだ」

たまたま。

やっぱり無愛想に返された言葉がさくっと心に突き刺さった。そんな自分に驚き呆れる。
これは単なる偶然で、彼に他意というものは基本的に皆無だと、初めの初めから言い聞かせた筈なのに、煩悩とはこうも忍びやかに人を駄目にするらしい。

ため息をつきたくなるのを堪え、気が抜けるのに任せて、私は出来るだけ軽やかに見えるよう笑った。

「うん、わかってる」

そう、人間には落ちていいものと落ちてはいけないものがある。取るに足らない女子Bであっても、分を弁えれば道を踏み外さずに済むはずなのだ。叶わぬ恋煩いがいかに面倒で厄介かなど考えるまでもない。

大丈夫、私はまだ陥落していない。よしよしと頷き、勝手に都合の良い勘違いをしようとした自分をけちょんけちょん(死語)に踏んづけていると、岩泉くんが虚を突かれたような顔でこちらを見た。
何がそんなにおかしいのかと首を傾げれば、気のせいでなければ、彼はなぜだか少し不満げな顔をする。少し心配になってどうしたの、と聞くより早く、彼はコーヒーを呷ってから言った。

「復旧したみたいだな」
「、あ…ホントだ」

彼の視線の先を追って気づく。校舎に灯りが戻っていた。木陰になっていてすぐには気づかなかったようだ。
もう一度見やった彼の表情に私が読み取れる感情はすでに見当たらなかった。その時不意にその凛々しい面立ちはこちらを向き、背中を軽く折って覗き込んできた。
飛び退きそうになるのを寸でで堪えてフリーズする私に構わず、彼はふっと眦を緩めて柔らかな声音で言った。

「名字の顔色も戻ったみてぇだな」
「…!」
「教室帰るか」

さすがに作業も再開してんだろ。

立ち上がった岩泉くんが空き缶をゴミ箱に投げ入れる。綺麗な放物線を描いてゴミ箱に吸い込まれていったそれを見送り、私は殆ど惰性でココアを飲み干した。ややぬるくなったココアの甘さを味覚がうまく拾えない。

彼のようなコントロールを持たない私は素直にゴミ箱まで歩いて行って空き缶を捨てた。からん、軽やかな音を立てて落ちる缶の反響が鼓膜を震わす。…なるほど、人もこうやって落ちるのかもしれない。

顔を上げれば、すでに数歩進んでいた岩泉くんが少し先で待ってくれていた。

「ごめん、お待たせ」
「おう」

肩を並べて歩き出す。ざわざわする心臓には気付かないフリをして、私は光の漏れ出る校舎の窓を見つめた。


150604
続きます。

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