short | ナノ
「あの、前良いかな?」

最初は本を読んでいて自分だと分からなかった。
みょうじさん、と呼ばれてやっと気付いた。

『え、あ、はい?!』
「前、良いかな?」

私にそう尋ねたのは東月錫也くん。
同じ科の宮地くんとかと入学当初から女子の間でかっこいいと騒がれていた。

一瞬とか幻かと思った。あ、私重症とも思った。

なぜなら、私もその騒ぐ内の一人だからだ。
いや、騒いではない。ただこう…遠巻きに見ているだけ。

だって、東月くんには幼馴染で美人の彼女がいるって噂だ。
何度か見た事があるけれど、確かに可愛かった。

『あ、どうぞ…』

なんで私のところに。確かに席はほぼ埋まっているのだけれど、
彼女さんに嫉妬とかされないのだろうか。

「ありがとう」
『、』

東月くんの笑顔が好き。

最初に好きになったところはそこだった。その笑顔を私に、私だけに向けられたら
そりゃもう心臓が破裂するんじゃないかというぐらい鼓動が速くなる。

「なまえさんさ、ご飯食べないの?」
『え、…あの、どうして?』
「だってさっきからずっと本読んでただろ?」

見てたんだ…。いやいや自意識過剰ストップ。目立ったんだよ、多分。

「よければ、これ食べない?」
『え…』

そう言って机の上に出された水色の袋。なんだこれ。

「実は、月子…幼馴染が今日休みでさ、知らなくて作っちゃったんだ」

捨てるの勿体無いし食べない?と東月くんは言った。

「ていうか出来れば食べて欲しいなー、って」
『え、…っと』

なにこれ。きっと人生で一番の幸せだよ。ありがとう神様。

「…だめ?」
『や、あの…だめ、じゃない、です』
「本当?良かった、ありがとう」

それじゃあどうぞ、そう言って水色の袋を開ける。
中にはマフィンが入っていた。

『いただき、ます』

一口齧る。

「どう?美味しい?」
『おいしい、です』

わあ、なにこれー美味しー…!
口元が緩んだ。

「ほんと?それにしても美味しそうに食べてくれるね」
『え、あだって…美味しいし、』
「それはよかったです」

さっきの笑顔がまた繰り出される。
なにもう、東月くんってば私を心臓停止で殺したいの。

また、食べたいなあ…。

「また作ってこようか?」
『え!?』
「いま、"また食べたいなあ"って言わなかった?」

は、恥ずかしい恥ずかしい恥ずかしい!!
独り言のつもりだったのに!ていうか図々しすぎるだろ私!!

『や、あの…今のは忘れてくださって結構…ですので』
「そうなの、なんだ残念」

ッ、!
なんで、そんな期待をさせるよーな!

『と、東月くんは彼女が居るんじゃないんですか?
彼女じゃない子にそんな事しちゃだめなんじゃないですか』
「彼女?そんなのいないよ」

ははっと笑いながら言う東月くん。私は唖然。
え、居るんじゃなかったの!?

『幼馴染の彼女が居るって聞いたんだけど』
「ああ、月子はただの幼馴染。だいたい月子には彼氏が居るしね」

宮地龍之介くんって知らない?と東月くんは言った

『あ、あの宮地くん?』
「うん、その宮地くん」
『なんだあ…』

全身全霊で安心。いや安心したところで私に何もあるはずはないけれど。

「というわけで彼女は居ないんで、
みょうじさんに何かを作ってくるのに差し支えて不具合はないけれどどうする?」
『っ…あの、じゃあ食べたい、です』
「うん。何がいい?」

こんな幸せなことがあっていいの、神様。
頭がぐっちゃぐちゃになりながら「な、なんでもいいです」と答えると東月くんは笑った。

「じゃあ、何か作ってくるね」
『や、約束!』

子供のときのように手を差し出して小指をたてる。
はっ!と気付いたときには後の祭り。

東月くんを見ると目を丸くしている。
わあ、もう何やってんだろう!子供じゃあるまいし!!

だした手を引っ込めようとしたら

「約束、な?」
『っ、!』

悪戯に笑った東月くんの細くて長い指に絡め取られた。

心臓が口から飛び出しそうだ。
小指と心臓を絡め取られて
(はは、楽しみにしてて?)(神様神様、こんな事があっても良いのだろうか)