gift小説 | ナノ


「嗚呼、退屈!」

溜息と共に吐き出された女の重苦しい溜息は、星が煌めく夜空に溶け込む。
上流階級貴族の娘がこんな悪態を吐くなどもっての他、人知れれば羞恥そのもの。
だが彼女は、目の前で広く澄み渡る空と、人々が暮らす下町が一望出来るこの大きなバルコニーでいつもその景色を不服そうに眺めていた。

「退屈なら拐ってやろうか」
「!」

バルコニーの手摺を軽々と越えてふわりと深紅のマントを翻し、颯爽と現れた見知らぬ男に女は目を瞬かせる。
月光に照らされた男の表情には、口角を吊り上げ愉快そうな笑みを浮かべていて、空いていた距離は直ぐに縮まりその指先を女の顎に添えて持ち上げた。
彼の色素の薄い紫の瞳と彼女の深い翡翠の瞳がかち合う。あまりの唐突さと恐怖で言葉も出ないかと男がほくそ笑んだ時だ。

「拐ってくれるの!?」

ぱぁっと女の顔が明るくなり彼に詰め寄ったのだ。
これには男の方が拍子抜ける。

「・・・は?」
「今、言ったわよね。『拐ってやろうか』って」
「それがどうした」
「拐ってくれるんでしょ?ほら、早く」
「はぁ!?」
「あら、一度口にしたことは突き通さないと。それとも嘘なのかしら?」

挑発的に微笑む女の態度は男が思っていたものとは明らかに掛け離れていた。
貴族と言えば大概はこんな身の危機に震えたり、助けを叫んだりが殆どだ。けれど目の前で細部にまで施されたビーズのワンピースに身を包み、恐怖とは無縁な微笑みを自分に向ける女はまるで違う。
寧ろ喜んでいる。

「テメェな、初対面でいきなりこんな奴に『拐う』なんて言われりゃ身震い一つするもんだろ」
「それはごめんなさい?歓喜で身震いしましょうか」
「可笑しな奴だぜ。仮にもオレ様は『盗賊王』だってのによ」
「『盗賊王』?ああ、だからそんなに身軽なのね」
「曲芸師と同じ認識かよ」
「じゃあ私、歌いましょうか」

一向に怯える様子を見せないどころか、すっかり相手のペースに乗せられて思わず盗賊王は肩を震わす。
そして堪えきれなくなった笑いは彼の愉快さを増して声を上げさせる。

「――ヒャハハハッ!気に入ったぜ女!テメェはオレ様が奪ってやる!」
「ホント!?なら今からでも・・・「ナマエ様!如何なさいましたか!?」

『ナマエ』と呼ばれた彼女の科白を遮り、衛兵が部屋に近付く。

「残念だなお姫様。続きはまた今度だ」
「今からでも構わないわ」
「ハッ、それじゃあつまらねぇだろ」

何かを企む様な、悪戯な笑みを溢してバルコニーから飛び降りた盗賊にナマエは手摺から身を乗り出し、彼の姿を眼で追った。
衛兵が心配気に彼女の身を案じて部屋に入るも、そこには不貞腐れてバルコニーから衛兵達に一瞥の眼差しを向ける彼女の姿しかない。

「単に奪うだけってのは、こんな無機物にしかやらねぇんだよ。お姫サマ」

街の中で高々と聳え立つ城の下、彼女の自室を見上げてその手にしていた宝石を握り締めた。



―――――――――――――
―――――――

「ちゃんと次の夜に訪ねるなんて、意外と真面目なのね」
「口の減らねぇ女。父親の嘆く姿が目に浮かぶぜ」

盗賊はバルコニーの手摺に腰掛けてケラケラと笑う。広い寝具の上から降りたナマエは盗賊に歩み寄り、右手を差し出した。

「今夜こそ拐ってくれるんでしょ?」
「・・・その前に一つ聞きてぇな。何故テメェはオレ様に拐われるのを望む?」

何気ない盗賊の問いに彼女は差し出していた手を引っ込め、代わりに両手を広げて夜空を仰ぐ。

「毎日毎日、衣服も髪もやることなすこと全て決められた生活が『生きている』と誇れると思う?貴方が拐ってくれなきゃ今にも窮屈な日常に窒息しそうよ!」
「ほー、そりゃ大変だな」

『何だ、そんな程度か』とつまらなそうに聞き流した彼が気に食わなかったのか、彼女はムッと顔をしかめる。

「そりゃあ貴方には縁も由も無い話よ。でも私にとってこれは何よりも重大な話なんだから」
「まぁな、貴族の悩みなんざ知ったことじゃねーよ」
「だったら聞かないでさっさと奪えば良いじゃない」
「言ったろ?『それじゃあつまらない』ってな」
「・・・貴方の自己満足の方が私には知ったことじゃないわ」
「ヒャハハハハハッ、そりゃ違いねぇ!」

散々人を期待させるだけさせて、また盗賊は夜の闇に消えた。
その日だけじゃない。
次の日も、その次の日も――盗賊は拐われるのを待ち望む姫に会いに来ては何もせず居なくなっていた。
ナマエにとっては歯痒い処の話ではない。

「これでもオレ様は姫サマを気に入ってんだぜ?ンな不貞腐れんなよ」
「なら今すぐ拐いなさいよ」
「そういや『ご褒美』ってのは、後で貰えるもんだって誰かが言ってたな」
「それは何かを成し得た時に貰えるものでしょ?何、私に何かしてほしいの?」
「『オアズケ』が出来るかどうか」
「バカにしてるの!?何ならその右頬の傷を左頬にも増やしてあげましょうか」
「ハハハ!そりゃあ、おっかねー」

どんなに夜を越えても変わらぬ状況に到頭痺れを切らせたナマエは、今にも泣きそうな顔を伏せて唇を噛み締める。
いつも高飛車な彼女とは打って変わった態度に、流石の盗賊もこれには参ってしまいナマエの頭に軽く手を乗せた。

「変な奴だな。本当に」
「褒めてないわ・・・、口説き下手ね」
「甘え下手に言われたかねぇよ」

わしゃわしゃと強く撫で回されて乱れた髪のままナマエは口先を尖らせ、浮かぶ涙を堪える瞳を盗賊に向ける。
そんな彼女の姿に爆笑した彼は、再びその大きな掌でナマエの頭を軽く叩いて「またな」と一言、バルコニーを越えて姿を眩ませた。

毎晩現れては何事もなく消える盗賊に苛立ちと歯痒さを抱いていた。しかし、その姿を見るだけで淡い期待と何故か嬉しさが込み上げたのは事実。
まだかまだかと只ひたすらに彼が現れる夜を待っていた。

だが、盗賊はその日を境に来なくなってしまった。

今夜もバルコニーで彼を待つ。
もう来ないかもしれない。
元々盗賊な彼が気紛れにやって来ただけで、保証は全く無かった。
だがそれでも、彼女は待っていた。

すっかり夜更けた空を見上げていたナマエは、溜息一つ吐いて寝具に向かう。
部屋の灯りを消して床についた瞬間、突然バルコニーから風が吹いて窓を覆っていた大きな布が揺らめいた。

「!!」

月光がその布越しにある者の影を照らす。
ゆらゆらと揺らめく布を退けて現れたのは――ずっと待ち望んでいた彼だった。
途端に彼女は寝具から飛び降りて彼に駆け寄ろうと走り出す。

話すことが沢山あるわ。
今すぐ拐ってほしい。
日常の不満なんかじゃない。
この寂しさを拭い去る貴方だから、拐ってほしいのだと・・・待ち望んでいた貴方の姿を見て気付いたの。

「すまねぇな、来れなくてよ」

唐突に口を開いた盗賊に、彼女の足は自然と止まる。

「いいわ。こうして貴方は会いに来てくれたんだから」
「・・・・・・」
「あのね、私貴方に話したいことが沢山あるの。それで・・・」

ハタとナマエは言葉を詰まらせた。
目の前の盗賊が自分へ花を向けている。
そんなあまりに似合わない光景に。

「な、に・・・?」
「知らねぇのか?白睡蓮だ」
「そんなの知ってるわ・・・どうして、この花を私に?」
「この先のナイルに睡蓮が沢山咲いてんだよ。しかもそこは王宮の奴らだって知らねぇ秘密の場所だ」
「秘密の場所・・・」
「オレ様はこれからまた暫く忙しくなる。だがよ、それが全部終わったらテメェを拐ってやるよ。真っ先にその場所へな」

盗賊から美しく咲き誇る白睡蓮を手渡され、ナマエは未だ見ぬ地への夢を抱いた。
彼は笑う。
屈託無い太陽の様な笑顔で――。



何日も、幾つもの夜を、どんなに越えても彼は現れなかった。
あの夜から彼女の時間は止まっていた。
飾られた白睡蓮は朽ち、新たなる王が崇められても彼女の時間はあの夜のままだ。

「あら、これは・・・?」
「白睡蓮よ。朽果ててしまっているけど」

ある日、召し使いの女が卓上に飾られた花だったものを不思議そうに眺めていたのでそう答えたナマエに、女は喜ばしいと顔を明るくさせた。

「どなたかの贈り物ですか?素敵ですね」
「・・・ええ」
「御存知ですか?この白睡蓮、神聖な意味合いとして大切にされていますがもう一つ、素敵な意味合いがあるんです」
「ふぅん?どんな?」

半ば興味がてら聞けば、女は至極嬉しそうな満面の笑みで答えた。


「“ナイルの花嫁”――そう云われてるんですよ」


息が詰まった。
それと同時に視界が歪む。

彼がそんな意味を知っていたかは今となっては確める術がない。
それでも、それでも・・・。
力無く折れた膝は床につき、彼女はそのまま泣き崩れたのだった。


ナイルの花嫁



ある者が問う。

「これは誰から貰ったの?」

朽果てて見る影無くとも飾られた花。
すると彼女は皺を深くさせて唇に弧を描き、ゆっくりと目を細める。


「可笑しな盗賊からよ」


あの夜を思い出しては、優しく微笑んだ。







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