雨の唄
長編 時雨
第5章
兆し
「よけてッ!!」「エリック、上だ!!」
「へっ?」
悲鳴にも似た叫び声と、危機迫った怒鳴り声と、そしてイカレた神の唸り声と。
全てが、水を打ったような静寂を切り裂いて、木霊するように響き渡った。
彼は声に反応して顔を上げ、間もなく驚愕と恐怖の色にその表情を染めたかと思うと、次の瞬間にはそのどれもが消えてなくなった。
思わず目を背けたくなるような陰惨な光景が広がる。
もし、確認するより早くその場を動いていたのなら、結果は変わっていたかもしれない。
しかしそんな後悔はもはや何の意味もない。
なぜなら、すでに事は決していたから。
鮮やかな紅は呑み込まれ、代わりに淀んだ赤が広がる。
その白い体躯に、やがて黒く変わっていく赤を散らして。
渇きを癒す獣のごとく。
弱いヒトを嘲うかのように。
神は喰らう。
ヒトを。
全てを──
◇ ◇ ◇
雨が降っていた。
嫌な雨だ。
じめじめしていて、心地が悪い。
雨は嫌いだった。
思えば、覚えている記憶の最初は、いつも雨だった。
廃研究所で保護された時も、孤児院の院長先生に拾われた時も。
だからかもしれない。
こんなにも、雨を厭わしく思うのは。
足音が近付いてくる。
決して大きなものではなかったが、かといって隠すように小さなものでもなく。
ガラス越しに聞こえる微かな雨音など、さしたる雑音にはならなかったから、容易に気付けた。
しかしレインは振り返らなかった。
自分のすぐ側でその足音が止まっても、なお。
「よお。早いな、レイン。」
名前を呼ばれ、ようやくガラスの奥に向けられていた視線を内側に戻す。
くるりと身体ごと振り返れば、第1部隊の隊長がこちらを見据えていた。
「おはようございます。リンドウさんも、早いですね。」
笑顔と無表情の境目くらいの顔をして、レインは返す。
そんなレインに、リンドウは少しだけ寂しげに目を細めた。
「飯は食ったか?」
「いいえ。」
「そうか。じゃあ一緒にどうだ?」
リンドウの言葉に、レインは微笑む。
「では、ご一緒します。」
食堂は、空を臨むようにつくられている。
展望レストランなどと言えば聞こえはいいが、そこから見えるのは、薄汚れた街並みと、荒み果てた大地だけだ。
しかも今日は生憎の天気で、辛気臭さはより一層増しているように感じる。
見ていて気持ちが弾むとは到底思えない。
だからだろうか。
頻りに窓の外を眺めるレインの瞳が映すのは、鉛色の空ばかりだった。
「ここに来たのは初めてか?」
配給を受け取って席に着き、ただ黙々と食べ進めているレインに、不意にリンドウが声をかけた。
レインは食べる手を止める。
「いえ。昨夕はここで食事をとりました。」
「そうだったか。…そういや昨日もこのトウモロコシだったな。」
リンドウがフォークでつついた黄色い物体は、通常の数十倍もの大きさに品種改良されたジャイアントトウモロコシの一粒だった。
もっとも、果たしてこれを改良品と言えるのか、些か疑問であったが。
「…朝から消化が悪そうだ。」
皮肉気にそんなことをぼやくリンドウを、レインはじっと見詰める。
視線に気付いたリンドウは首を傾げた。
「どうした?」
そうリンドウが訊いてみれば、レインはフォークを皿の端に置く。
「…何か、話があるんじゃないですか。」
尋ねているというよりは、促しているといった感じだった。
「話って?」
「たとえば、今日の任務について、とか。」
リンドウは苦笑いする。
「そうだな。話しておくか。」
カチャンと音を立て、リンドウもフォークを置いた。
「今日お前の任務に同行する先輩についてだ。」
事務連絡というよりは、むしろ思い出話を語るように、リンドウは話し出す。
この後入っているレインの任務に同行するのは、エリックとソーマという2人の青年らしい。
レインと変わらない年齢だと、リンドウは伝える。
エリックという人は、財閥のご子息…言ってみれば“ボンボン”というやつなのだそうだ。
父親はフェンリルの役員会の一人らしい。
やや自信家な性格だが、腕は悪くないという。
もう一人…ソーマという人は、すでに相当なキャリアを持つ古株神機使いなのだそうだ。
レインやコウタ、そしてリンドウやサクヤと同じく第1部隊に所属していて、かなり腕が立つらしい。
リンドウいわく、『無口で無愛想なガキだが本当は優しい奴』…だそうだ。
「…まあ、なんだ。任務は楽に終わるだろうが、コミュニケーション的な面で言うと、ちょっとアレかもな。」
そう言ってリンドウは苦笑いする。
しかしその苦笑はどこか楽しげだった。
そんな話に一段落着いたところで、リンドウはちらりと机の下…正確にはポケットから取り出した携帯端末に視線を落とす。
ごく僅かに、彼の瞳が険しさを孕んだ。
「…さてと。悪いが俺はそろそろ行く時間だ。デートの約束があってな。」
どこへとか何をしにとか、そんなこと一切訊いていないのに、彼はわざわざ伝える。
それはつまり、彼女に聞かせたかったということだろう。
その理由などわかりようもないが、ただ、彼の言う“デート”が、一般的に言う男女の逢引的なものではないことは明らかだった。
リンドウという人は、なかなかに表情を繕うのが上手いらしいが、それでも気付く。
いや、あるいはわざと気付かせたのかもしれない。
彼が貼り付けた笑顔の奥に、妙な緊張感が隠されていたことに。
「…そうですか。お気を付けて。」
彼の瞳をしっかりと見据えて、レインはそう伝えた。
◆ ◆ ◆
「悪い予感がする。」
ほとんど無意識に呟かれたレインの言葉を聞き、側にいた2人が振り返った。
しかしレインは、雨をひたすらに注ぎ続ける淀んだ空を見上げているばかりで、自分が見られていることを気に留める様子はない。
独り言として受け止めたか、あるいは別段興味もなかったか、2人は彼女の不吉な呟きに対して特に何も言わなかった。
本日最初の任務は、発電施設跡…《鉄塔の森》と呼ばれる場所が舞台だった。
かつて、この近辺の電力供給を担っていたであろうここは、施設の冷却用水が流出したために、ほとんどが水没してしまっている。
アラガミに捕喰されることなく残った鉄やコンクリートには、それらを侵食するように蔦やら苔やらがまとわりついていた。
リンドウの話の通り、今回の任務には、レインと同じくらいの歳の先輩2人が同行してくれている。
1人は、サングラスをかけた目立つ紅い髪のいかにも軽い雰囲気の青年。
武器は旧型遠距離式…ブラストだ。
もう1人の方は、一度見かけたことのある人だった。
「そういえば、自己紹介がまだだったね。僕はエリック。エリック・デア=フォーゲルヴァイデ。華麗で優秀な神機使いさ。」
紅髪の彼が自己紹介してくる。
「彼はソーマ。僕ほどではないが、彼もそこそこ優秀な神機使いだ。」
エリックが隣に立つもう1人のことも紹介した。
浅黒い肌、白に近い銀髪、青いコート、仄暗い青色の瞳。
武器は旧型近接式…バスターブレードを扱っているらしい。
フードを目深にかぶっている彼は、初任務の直前にエントランスでレインを睨んできた人だ。
…もっとも、その要因を作ったのは彼女自身だったが。
彼…ソーマは、レインの方を一切見ようとせず、一言も発しない。
ずいぶんと嫌われてしまったものだな、とレインは他人事のように考えていた。
この先輩2人は対照的な印象だが、進んで話しかけたくないと思わせる点では共通している。
──「コミュニケーション的な面で言うと、ちょっとアレかもな。」
今朝のリンドウの言葉を思い出した。
「……よろしくお願いします。」
と、レインは形だけの挨拶を返した。
普通名乗るべきだが、あえてしなかった。
しかしどちらも気にする様子はない。
そもそも青い人の方は、声が聞こえているのかさえ疑問だ。
ちらりと見えたのだが、イヤホンらしきものを付けている。
音楽が鳴っているのかまではわからないが、死と隣り合わせの戦場とされるこの場所で、音を遮るような真似をしているとは、大した余裕だ。
「さあ、華麗に仕事を片付けようじゃないか!」
赤い人が盛大な仕草で声を張る。
気安く接し、オーバーリアクションで、よく喋る人。
言葉だけで表現するならば、自分の同期とよく似ている気がした。
しかしコウタの方が大分性質が良いように感じる。
どうやら彼は、レインの数少ない苦手なジャンルの人間らしかった。
レインは、やや不快感にも似た戸惑いを覚えながらも、大人しく従うことにした。
今回の標的はコクーンメイデンというアラガミだった。
名前の由来は、拷問器具のアイアンメイデンと繭(コクーン)からだろうと、容易に察しがつく。
まさにそのような外観だった。
この小型アラガミは移動ができないらしい。
ならばどうやってここに現れたのだろうと疑問に思うところだが、アラガミはオラクル細胞が集まってできた一種の群集。
文字通り、湧いて出てきたのだろう。
しかし、だとしたら捕喰はどのようにして行うのだろう。
エサが寄ってくるのを、大人しく待っているのだろうか。
…などと、正直どうでもいいことをレインはぼんやりと考えていた。
赤い人の指示に従い、3体点在するコクーンメイデンを1体ずつ確実に仕留めることにした。
それは1体の標的を3人がかりで叩くということだ。
ところが、そんなことをする必要はなかった。
レインが斬りかかるまでもなく、また、赤い人が撃つこともなく、青い人があっさりと片付けてしまったのだ。
まさに、あっという間だった。
呆けたようにアラガミの残骸を眺め、次いで青い人に視線を移す。
冷たく光る青い瞳にレインが映り、しかしすぐにそれはフードに隠れて見えなくなった。
これは新人教育も兼ねた同行ミッションなのではないのか、と問いたくなる。
だが、どうやらこの人にとっては、そんなことどうでもいいらしい。
早く終わらせたいという感情だけを、態度と表情が表わしている。
これから先、この新人が死のうが生きようが興味がないと、そういうことなのだろうか。
不思議と腑に落ちた。
彼から視線を外し、携帯端末をポケットにしまうエリックの姿を視界の端に見る。
少し離れた位置で、支部のオペレーターに目標達成の報告をしていたエリックが、こちらに戻ってきた。
「念のため、アラガミの殲滅を確認してから帰投するように、とのことだ。」
それでは諸君、索敵開始! …と、自称華麗な振る舞いで告げ、エリックは背を向け、先へ進み始める。
それと同時に青い彼もまた、エリックとは反対の方向へ歩き出した。
この《鉄塔の森》は、ドーナツ状の地形をしている。
…もっとも、それは神機使いが比較的安全に活動できると定められた範囲における地形だが。
2人はそれぞれ別の方向へ行ってしまった。
レインはどちらかを追う形で索敵を始めなければならないのだろう。
ここで突っ立っているわけにもいかず、レインは少し迷ってから、青いコートを追いかけることにした。
降り注いでくる雨が鬱陶しくて仕方なかった。
雨は遠慮なくレインの髪や服を濡らし、まとわりつくそれらは煩わしいことこの上ない。
吐き気にも似た不快感を覚える。
気分が悪かった。
得体の知れない何かに急き立てられるような感覚に襲われ、頭の奥ががんがんと打ち鳴らされるように痛む。
随分と距離を開けて先を行く彼に追い付こうと、歩みを速めた。
あと数歩先というところまで近付いた頃、あの紅い髪が視界に入る。
数十メートル先に、エリックがいた。
中間地点…なのかどうかはわからないが、とりあえずエリックとこちらとを合わせて一通り見て回ったということになるのだろう。
こちらに気付いたエリックがひらひらと手を振った。
のんきなものだ。
心の内だけでささやかな悪態を吐き、頭痛と吐き気に苛立ちながらも、レインはどこか安堵した。
しかし、そんなものは一瞬のうちに消え失せる。
エリックの背にある捨て置かれたコンテナの上。
白いケモノが、黒い影を落とす。
弾かれたように、レインとその前を歩く彼が走り出した。
◇ ◇ ◇
広がっていく赤を、ただ呆然と眺め立ち尽くす。
レインの心に湧きあがってきた感情は、恐怖でも憎悪でも悲愴でもなかった。
不快。
ただそれだけだった。
「ッ!!!」
突然激しい頭痛に襲われる。
何かで貫かれたような、殴り付けられたような、鋭くも鈍い痛み。
──「…まるで、人形みたいだな……。」
──「もう無駄だ。」
──「ころし、たの…?」
──「それも、視えたのか?」
知らない誰かの声が頭の中で響く。
まるで掻き混ぜるようにごちゃごちゃと、一度に。
それはほんの一瞬で、たった一度きりだった。
頭痛はすぐに薄れ、消えていった。
同時にずっと感じ続けていた吐き気も。
そして、聞き覚えのないあの言葉たちの残響も。
赤く染まったオウガテイルがこちらに向き直る。
その眼にレインを捉え、しかしそれはすぐに別の方向へ向けられた。
彼女の横に立つ、彼の方へ。
妙だ、と感じる。
アラガミの標的が別の人間に移ったため、レインは神機を構えることをしなかった。
それは、実に人間らしい、利己的で冷酷な思考の末の決定だと、自分で感じていた。
しかし、彼に対して憂慮の念など抱く必要はなかった。
次の瞬間にはオウガテイルは斬り倒されていた。
ただその光景を眺めていると、彼がこちらに顔を向ける。
今日初めて目が合った。
仄暗い青色の双眸に自分の姿が映る。
その中の“彼女”の碧い瞳を見て、気付いた。
──ああ、そうか。どこかで見たことがあると思ったら……
「お前……。」
低い声が響く。
非難している風ではない。
ただ、訝しがっている。
冷たい瞳。
闇を見据える瞳。
何も映そうとしない瞳。
全てを拒む瞳。
…哀しい瞳。
──…自分自身だったのか。
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