雨の唄

長編 時雨

第3章
初陣

青い瞳が、虚空を捉える。

光の失せた瞳。

しかし決して闇に紛れることはない。

それでいて自身も闇を潜ませ、冷たく輝く。


灯りの消えた部屋。

扉の僅かな隙間から、廊下の照明が俄かに差し込むだけの、暗い部屋。


ソファに背を預け、彼は黒い天井を見詰めていた。


思い出していた。

彼女のことを。


エントランスで、自分をじっと見てきた女。

蔑むでもない、哀れむでもない、ただ無感情な瞳を向けてきたあの女。

何故か、彼女のあの瞳が脳裏に焼き付いて離れなかった。


──イラつく……。


あれからずっと、心がざわついて仕方なかった。

無性にイライラする。

周囲の雑魚どもに陰で罵られているのを聞いた後よりも、ずっと。


空になったジュースの缶を握り潰した。

苛立たしげに放り投げれば、それは硬い床にぶつかり、無機質な音を立てる。

冷たく、虚しく、哀しい音を。


まるで、彼の心のように。




◆ ◆ ◆




「ここが、お前たちの初任務の舞台。旧市街地。……またの名を、《贖罪の街》だ。」

第1部隊隊長、リンドウが言った。


レインとコウタは、目の前に広がる光景にただ呆然とする。

これが、全てを喰らわんとするアラガミによる驚異の現実なのかと。



初任務の舞台は旧市街地と呼ばれている場所だった。

別名《贖罪の街》と言うらしい。


しかしながら、“街”と呼ぶには幾分おこがましいと感じる。


かつて建物だったものの残骸が、ただ連なっているだけのこの場所。

あちらこちらにある、あらゆる全てが、壊れ、崩れ、朽ち果てていた。


象徴的なのは高くそびえ立つビルだ。

コンクリートで造られていたのであろうそのビルには、ぽっかりと不自然な丸い穴が空いている。

まるで、巨大なキリで貫いたかのような穴だ。


あれこそがアラガミの捕喰の跡なのだろう。


「驚いてるみたいだな。…まあ、無理もない。」

リンドウは苦笑した。


「でもそろそろブリーフィングを始めるぞ。」


隊長を除く3人が、リンドウの方へ体を向ける。


「今回の任務は、小型アラガミの討伐が目的だ。報告によると、1匹だけらしい。」

任務の内容はわかったな? と確認するリンドウに、レインとコウタ、そしてサクヤが頷いた。


「…よし。では新人諸君、よく聞くように。これから、全ての任務に共通する、絶対に守らなければならない命令を言い渡す。」


リンドウの言葉にレインとコウタが反応する。

見詰める彼は、笑みを浮かべていた。


“絶対に守らなければならない命令”。

一体、どんなことを言われるのだろうか。

僅かに表情を強張らせた新人2人は、黙ってリンドウの言葉の続きを待った。


「命令はたった一つだ。」


もったいぶるように、ゆっくりと、リンドウ隊長が口を開く。

そして。


「死ぬな。全員必ず生きて帰れ。…以上だ。」


第1部隊隊長の、たった一つの命令は終了した。


レインとコウタはしばらくの間何の反応もできずにいた。

しかしだんだん理解してきて、「ん?」という表情になる。


「え…。あの、それだけ?」

コウタが、レインも同様に抱いていた疑問を投げかけた。


「ああ、それだけだ。」

けろんとそう言ってのけたリンドウは、とても一部隊を預かる身とは思えない、子供のように無邪気な笑顔を見せる。


なんだか拍子抜けだった。

おそらくコウタも同じ気持ちだっただろう。


目の前で仲間が殺されても冷静に対処しろ、任務の失敗は決して許されない、民間人は我が身を犠牲にしても守れ…などといった、真面目で残酷なことを言われるのではと思っていたのだ。


リンドウが告げた命令は、なんだか非現実的で、まるでただの希望でしかないもののように聞こえた。


戦地に赴く人間が、全員無事に帰ってこれることなど、稀だ。

むしろ全滅することの方が多いのではないだろうか。

隊長であるリンドウがそれを最もよく知っているはずだった。


きっとこの命令は、リンドウ隊長の決意なのだろう。


この時レインは感じたのだった。

この人は信頼できると。


「さあ、行こうか。今回は実地演習を兼ねた初任務だからな。任地における基本事項と、基本的な陣形を学んでもらうぞ。」



神機を担ぎ上げたリンドウ隊長を先頭に、第1部隊の4人は歩き出す。

建物の陰に身を潜ませながら、周囲の状況を警戒しつつ、慎重に進んでいく。

まさに戦場…といった緊張感に包まれていた。


不意にリンドウが足を止める。

それに合わせて後ろを歩く3人も立ち止まった。


「標的を発見。見えるか? あれが今回の任務の討伐目標…オウガテイルだ。まだこっちには気付いてない。」

彼は声のトーンを落として新人たちに教えてやる。


視線の先には、のそのそと歩く1匹の白いアラガミ。

『オウガテイル』という名前らしい。

その名の通り、鬼の面ような大きな尻尾が特徴的だ。


「小型のアラガミは単体なら大したことない。ただ複数に群がられると厄介だ。」

アラガミの様子を観察しつつ、リンドウ隊長は指導を続ける。


「小さいからって油断するなよ。気を抜くと、あっという間に喰われちまうぞ。」

レインとコウタが頷いたのを確認し、隊長は神機を構えた。


「サクヤとコウタは後方から援護。」

「は、はいっ!」

「わかったわ。」


「レイン、お前は遊撃だ。新型らしく、状況に応じて動いてくれ。」

「わかりました。」

リンドウの指示にそう返事を返すと、なぜか彼は驚いた。

そしてふっと笑みを見せる。


「…へぇ、頼もしいな。よし。一気に仕留めるぞ。」


それが、作戦開始の合図だった。


飛び出して行ったリンドウの後を追うように、レインも駆け出す。

標的に真っ直ぐ向かって行く2人の脇を、凝縮されたオラクル細胞によって作り出された弾丸と光線が通り抜けていき、それはアラガミに命中した。

オウガテイルが怯み、よろける。

そこにすかさずリンドウが突っ込んでいった。

薙ぎ払うように、そのチェーンソーのような神機でアラガミに斬りかかる。

そして、彼の剣がアラガミから離れたのを確認するより早く、レインが剣形態になっている神機を振り下ろした。


ほんの、僅か数刻の出来事だった。


オウガテイルはその場に倒れ、動かなくなる。


「…し、死んだの…?」

離れた場所で銃を構えるコウタが、恐々と言う。


しばらくぼーっとアラガミを見詰めていたリンドウがくるりと振り返り、笑みを見せた。


「ああ。任務完了だ。」



あまりにも呆気なく、レインとコウタの初任務は幕を閉じた。




◆ ◆ ◆




「……正直、驚いたよ。」


ヘリコプターの中、強い風にさらわれる髪を押さえ、サクヤが振り返る。

今言葉を発したリンドウは、ただぼんやりと地上を見下ろしているだけだった。


言葉の意味はわかっていた。

リンドウが言ったのは、たぶん新人の、彼女のことだ。


「…ええ。私も、予想以上だと思ったわ。新型だからってだけじゃ、ないわよね…。」


──「彼女は間違いなく逸材だ。逃すのは惜しい。」

シックザール支部長の言っていた言葉を思い出す。


後部でコウタと今日の任務について賑やかに話している彼女の方に顔を向けた。

…もっとも、話しているのはコウタばかりで、彼女の方は相槌を打っているだけだが。


「姉上…あーいや、ツバキ教官から聞かされてたんだ。ある程度は。」


またツバキのことを“姉上”と呼んでしまったリンドウに、思わずくすっと笑う。

神機使いを引退し、教練担当に任命されてから、ツバキはリンドウに「姉上とは呼ぶな」と言い渡していた。

しかしいくらフェンリルでの立場が変わろうと、リンドウにとって姉であることに変わりはない。

リンドウはしょっしゅうツバキのことを姉上と呼び、その度に注意されていた。


リンドウは頭をかいて、こちらを振り返る。

その表情は穏やかだったが、瞳はとても真剣だった。


「身体能力が特別高いわけじゃない。ただ、呑み込みが早い。…早すぎる。」

異常なくらいに…と、リンドウは言う。


新人2人は昨日基礎訓練を終えたばかりだ。

講義で説明を受け、模擬戦闘を行ったとはいえ、彼女の先程の対応は、あまりにも良く出来すぎていた。

新型神機を、すでに使いこなしている。

旧型よりも、ずっと複雑な仕組みだというのに。

ただ単に器用だからとか、運が良かったからとか、そんな言葉じゃ片付けられないものを感じた。


「しかもアラガミに対する恐怖心がないときた。」


人より少ないというレベルではない。

ほとんど皆無だ。

そう語るリンドウに、サクヤも頷かざるを得ない。


コウタの方はアラガミと対面した時、表情に緊張の色が見えたが、レインは違った。

至極冷静だった。

まるで、“慣れている”ように。


「…記憶が、ないからかしら。」

「どういうことだ?」

サクヤが真面目な顔で言い、リンドウは怪訝な顔をした。


「アラガミに関する知識がないから、恐怖もない。…ということなのかと思って。」

「…なるほど。」

その線はなくはないよなぁ、とリンドウが腕組みして考える。

しかしすぐに、いや待てよ、と首を傾げた。


「6歳から12歳までの記憶はあるんだろ? 今17だって話だから、だいたい5〜11年前。アラガミはいるじゃねぇか。」

「…それもそうね。」

6年間一度もアラガミについて聞くことがないなど、おそらくありえないだろう。


「じゃあ、なぜかしら?」

「んー…。」


リンドウが彼女をちらりと見やる。

相変わらず彼女はコウタの話に耳を傾けていて、風やら何やらの音のせいもあり、こちらの会話など一切耳に入っていないようだ。


「……レインを見た時、お前の言うとおりだと思った。」

「え?」


突然話が変わって、サクヤはリンドウの言った言葉の意味がよくわからなかった。

リンドウを見詰め、おとなしく次の言葉を待つ。


「あいつと、同じ瞳だ。」

「…………。」


サクヤは何も返せずにいた。

しかしリンドウの方は、別にサクヤの応答を待っていたわけではないようだ。


何を思ってか、不意にリンドウはポケットから携帯端末を取り出す。

それは各々の部屋に置かれたターミナルの携帯用簡易版のもので、主に無線通信連絡のために用いられる。

フェンリルからフェンリル職員に支給されるもので、任務の際は所持することを義務付けられていた。


リンドウは端末のボタンをいくつか押し、自分の顔にそれを近付ける。

どうやらどこかに無線連絡を入れるらしい。


しばらく待った後、機械の奥から、聞き慣れた女性の声が聞こえた。

リンドウが機械に向かって話しかける。


「お。もしもし、姉上……あー、すいません、上官殿。」


またやってる…と、サクヤは苦笑いした。

リンドウはぼりぼりと頭をかく。


「明日の任務の件で、一つお願いしたいことが。…あー、いや、俺のじゃなくて……。」


リンドウは一度サクヤの方を見やり、そしてすぐに視線を移す。

彼女…レインの方に。



「レインのです。」




コウタの笑顔を映す彼女の瞳に宿るはまだ淡い光。

それが照らし出すのは、こちら側か、それともあちら側か。


にやりと笑うリンドウが打った布石は、“彼”の計画の一部に過ぎなかった。
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