雨の唄
長編 時雨
第2章
第1部隊
今夜は満月らしい。雲もなく、晴れている。
きっと、丸く輝く白い月が、よく見えることだろう。
…もっとも、窓のないこの部屋からは、見ることなど叶わないが。
コンピューターの画面が来客を知らせる。
ヨハネスは一つボタンを押して、扉のロックを解いた。
「やあ、ヨハン。」
部屋に入ってきたのは、昔からの友人だった。
「ペイラー。どうしたんだ、こんな時間に?」
彼がわざわざこの支部長室を訪ねた理由は明らかだったが、あえて尋ねた。
「新人2人の訓練は終了したんだろう? そろそろだろうと思ってね。」
ツバキくんから報告を受けるんだろう? …と、彼は昔から変わらぬ笑みを浮かべ、側までやってくる。
「ふっ。相変わらずだな。」
そう言うと、サカキは「ありがとう」と、陽気に返した。
本当に、昔から変わらない。
ヨハネスとサカキは、長い付き合いだった。
ヨハネスが支部長となる前…技術者として働いていた頃から、共にいた。
不思議と波長が合い、話していて退屈しなかった。
そして何よりサカキは、技術者として素晴らしい才能の持ち主だった。
ヨハネスが技術者を引退したのは、支部長を任命されたからという理由もあるが、彼がいたからというのも大きい。
先の先まで予測する彼の“頭脳”には、敵わない。
“あの計画”の時に、それを痛感した。
「訓練が終わったということは、明日はいよいよ初陣だね。」
「ああ。まずは実地演習だ。リンドウとサクヤを同行させる。」
「ではやはり、新人2人は第1部隊に所属するわけだね。」
「貴重な人材だからな。」
コンピューターが再び来客を知らせる。
「ツバキが来たようだ。」
ヨハネスは扉を開けた。
ツバキが「失礼します」と一言言い、中に入ってくる。
ハイヒールの鋭い音が部屋に響いた。
「呼び出してすまない。」
「構いません。」
「そうか。では、さっそくだが報告してくれないか。まずは、旧型の方から。」
ツバキは了承の返事をし、持ってきた書類に目を落とす。
一通り目を通し、彼女は口を開いた。
「…戦闘経験、武器の使用経験、ともになし。身体能力はいたって一般的。特記事項なし。…以上です。」
「わかった。では、新型の方は?」
ヨハネスが真に聞きたかったのは、こちらだ。
ヨハネスは、新型の方…レインの“あらゆる可能性”に、期待を寄せていた。
ツバキは書類を一枚めくる。
彼女の表情が僅かながら厳しくなったのを、ヨハネスもサカキも見逃さなかった。
「…戦闘経験、武器の使用経験、ともになし。身体能力自体は、いたって一般的。」
そこでツバキは、言葉を止める。
その理由は、わかっていた。
…特記事項があるのだ。
「身体能力“自体は”…というと?」
サカキが続きを促す。
ツバキは一瞬迷ったが、すぐに決断した。
報告を再開する。
「…反応速度が異常に速い。まるで、相手の行動を予知しているかのような動きが多々見られた。」
“予測”ではなく“予知”と言ったところに、その異常さを感じ取ることができる。
ツバキは続けた。
「そして彼女は、アラガミを恐れていない。」
ツバキは新人2人の訓練の様子を、観察していた。
2人とも武器など握ったことがなく、戦いやアラガミに関する知識もほとんど皆無だった。
藤木コウタの能力は平均的で、やや集中力に欠けるが、目立って悪いところも、良いところもなかった。
しかし、レインの方は……。
ヨハネスは笑みを浮かべた。
予想通り、といったところか。
サカキは表情を変えなかった。
先ほどと同じように、にこにこと笑みを浮かべている。
一方ツバキの表情は深刻そのものだった。
「…よし。もういいだろう。報告を感謝する。」
ヨハネスは満足げに、そうツバキに礼を述べる。
その言葉には、「下がってよい」という意味も含まれていた。
当然ツバキもそれは理解していたが、彼女は動かなかった。
「支部長。本当にあの子を…レインを戦場に出すのですか。」
ツバキは真っ直ぐヨハネスの目を見て、問う。
鋭い、射抜くような、それでいて哀しみを宿す瞳。
その、厳しさの中に優しさを滲ませた瞳を見ると、今更ながらツバキは教練担当に適任だと感じる。
彼女の問いの意味は明らかだった。
ツバキは、レインを戦場に出したくないのだろう。
…正確には、“レインのような人間を”だが。
「もちろんだ。彼女は必ず優秀なゴッドイーターに成長する。」
ツバキの気持ちはわかるが、受け入れるわけにはいかなかった。
「私は反対です。」
ツバキは声を大きくする。
「彼女には恐怖心が足りない。」
ツバキは観察していたレインの訓練状況を思い出していた。
訓練の際は、アラガミを模した人工物を用いる。
攻撃力・防御力・俊敏性、どれをとっても本物には敵わないが、見た目と動きだけは忠実に再現されていた。
その上、「教えたことを試してみろ」とだけ伝え、人工物とは告げずに、いきなり投入することになっていた。
咄嗟の判断力や行動力を見る狙いがあった。
ほとんど全ての新人は、動揺し、困惑し、そして恐怖する。
その場で動けなくなってしまい、訓練を中断する者も少なくない。
中にはそれらを見せない者もいるが、必ず表情が変わる。
それは、アラガミと対峙する緊張からくるものだ。
しかしレインは、全くの無反応だった。
おかしな話だが、“慣れている”と思わせるような対応を見せた。
本当に、ただ教えられたことを試している、といった様子だった。
動きは明らかに初心者で素人。
だがアラガミに対する反応は、その域ではなかった。
レインは、アラガミをまるで恐れていない。
「恐怖は人を惑わせる。冷静さを欠かせ、判断力を損なわせ、武器を握る手を震わせる。」
組んだ手で口元を隠し、ヨハネスは告げる。
恐怖などない方がよいのだと。
「しかし生き残る上で必要なものです。」
だがツバキは退かなかった。
「恐怖心がない者は、必ず死にに行く。私は何度もそういう人間を見てきました。」
「恐怖心が足りなくとも、彼女はそれでいて有り余るほどの“力”を持っている。」
ヨハネスの方も退くつもりはなかった。
…退くわけにはいかなかった。
ヨハネスには、“レイン”という存在が必要だった。
これからのために。
これから成すことのために。
ツバキは目を伏せ、黙る。
何を言っても、彼が意思を変えることはないだろう。
それを悟ったのだった。
そんなツバキの様子を見て、同じような状況が今朝方あったことを、ヨハネスは思い出す。
──なぜ、こうも……。
余計な雑念を振り払うように、目を閉じた。
正しいのは彼女たちの方だが、自分の考えは間違っていない。
再び目を開けたヨハネスの瞳に、迷いはなかった。
やっと、という様子でツバキが重い口を開く。
「…レインの瞳を、真っ直ぐ見ましたか…。」
彼女の声にはいつもの厳しさはなく、とても苦しげだった。
「…あなたの息子と、同じ瞳をしていた。」
ツバキは何度も見てきた。
大切な教え子たちの血を。
死を。
彼女はこれからもそれを見ていかなければならないのだ。
「…私は、あの子が笑ったところを、一度も見たことがありません。」
わかってほしかった。
ヨハネスに。ヨハネス自身に。
その、決断の意味を。
「…………。」
しかしヨハネスは何も言わなかった。
いや、もしかしたら、何も言えなかったのかもしれない。
ツバキが一礼する。
来た時と同様に「失礼します」とだけ言い、踵を返して部屋から出て行った。
いやに大きく響いた扉の閉じる音を最後に、支部長室から音が消える。
重い沈黙に包まれていた。
静寂に支配されたここに取り残された2人は、まるで時が止まったかのように一切動かない。
ただ、ヨハネスの表情だけが暗く沈んでいく。
「……すまない。」
ぽつりと、誰に対してなのか、ヨハネスが呟く。
とても小さな、絞り出すような声だったが、音を失ったこの部屋では、はっきりと聞き取ることができた。
サカキは何も言わず、ただヨハネスの横で佇んでいた。
いつもの笑顔のまま。
その表情の裏に、一体何を潜ませているのか、誰も知ることはできない。
◆ ◆ ◆
(銀髪…?)
エントランスの椅子に座る青いコートの男が目に入り、レインは足を止めた。
フードを目深に被った、色黒の男。
表情は全く見えないが、長い前髪がのぞいている。
(いや、白髪かな…。)
レインは男を、じっと見つめた。
彼は、汚れた床にただ目を落としている。
普段なら、いちいち人に興味を示すことなどない。
しかし、なぜか気になった。
──誰かに似てる。
誰だっただろうと、首を傾げた。
この男も、おそらくゴッドイーターだろう。
付けている赤い腕輪から、それをうかがい知ることができる。
任務から帰ってきたばかりだろうか。
血の、臭いがした。
それなのに、不自然なくらい、この人の服は汚れていない。
妙な違和感を覚えた。
男が少しだけ顔を上げ、こちらを睨む。
じっと見られていることに、いいかげんイラついたのだろうか。
青い瞳。
鋭い眼差しなのに、光を感じない。
深い闇を湛えている。
…どこかで、見たことがある。
ごく最近。
いや、もっと、よく知っている誰かのもののような──
「レイン?」
名前を呼ばれ、ハッと我に返る。
振り返ると、怪訝な顔でこちらを見ているコウタがいた。
「なにぼーっと立ってんの?」
座ったら? …と、コウタはレインの後ろに一度目をやる。
後ろ…椅子の方を再び見る。
もうそこにあの男の姿はなかった。
(…誰だったんだろう。)
あの瞳の正体が、気になって仕方なかった。
しかしいくら考えても思い出せない。
レインはコウタに見えないように、ため息を吐いた。
椅子から目を離し、コウタの方に顔を向ける。
コウタは「おはよう」と元気に挨拶をしてきた。
どうやらレインに座る様子がないので、自分も立っていることにしたらしい。
よくできた子だな、などと考えつつ、レインも挨拶を返した。
「いよいよ初仕事だね。」
緊張するなぁ…と、珍しくテンション低めでコウタは言った。
意外だなとレインは思う。
彼くらいポジティブで元気な人なら、「わくわくする」くらい言うんじゃないかと思っていたのだった。
しかし、よくよく考えてみれば、これから向かうのは死と隣り合わせの、いわば戦場。
そんな考えは、あまりにも不謹慎だ。
昨日たった1日間の基礎訓練を終え、本日いよいよ実地演習を行うこととなっていた。
習うより慣れろ精神なのか、あまりの人手不足のためにさっさと仕事をさせたいのか…。
とりあえず、新兵2人はさっそく任務に赴くこととなった。
「俺たち、第1部隊に所属だって。知ってた?」
コウタの問いに、レインは黙って頷く。
訓練を終えた後、ツバキに告げられていたのだ。
「今日は、同じ部隊の先輩と一緒に行くんだよね。隊長と副隊長だって。」
「へぇ…。」
わざわざ部隊の2トップが初陣に同行するとは、ずいぶん新人教育に力を入れているのだなとレインは思った。
…しかしながら、実際のところは、そういうわけではない。
現在第1部隊は、この新人2人を除くと3人しかいない。
そして、内1人が指導者向きでないため、隊長と副隊長が同行せざるを得なかったのだ。
この時点では、2人とも知る由もないが。
不意に、タバコのにおいを感じた。
眉をひそめ、においのした方に顔を向ける。
男の人と、女の人が並んで立っていた。
「よう。お前らだな。うちの部隊に所属することになったっていう新人は。」
いきなり声をかけられ少し驚いたが、すぐに理解する。
どうやらこの人たちが、本日の初任務に同行してくれる先輩らしい。
「俺は雨宮リンドウ。第1部隊の隊長を務めてる。ま、よろしく頼む。」
そう軽く自己紹介してきたのは、全身黒い服装の、背の高い男の人だった。
長めの黒い髪に、黒い瞳。
“雨宮”ということは、教官のツバキとは、親族の間柄だろうか。
確かに、よく見れば似ている。
年齢は20代半ばくらいだろう。
隊長…のイメージで、もっと年配の人間を想像していたが、予想よりもずっと若い。
「私は橘サクヤ。一応、副隊長よ。これからよろしくね。」
にっこりと微笑み、そう言ってきたのは、雨宮隊長の隣にいる女性。
隣のコウタのテンションが一気に上がった。
見てはいないが、でもわかる。
彼女は、かなり際どい服装の、大人のお姉さん…といった雰囲気の美人だった。
綺麗に切り揃えられた真っ直ぐな黒い髪と、黒い瞳がとても魅力的だ。
まだ20代に入ったばかりぐらいの年齢だろうが、とても大人びて見える。
「俺、コウタっていいます! よろしくお願いします!」
ほらレインも! と、ハイテンションなコウタに促され、レインは軽くお辞儀をする。
「よろしくお願いします」と、一言添えて。
レインは彼女に見覚えがあった。
彼女はシックザール支部長と共に、あの研究施設にやってきた人だ。
そこでレインは“保護”され、ここに連れてこられた。
まさかこんなに早く会えるとは。
ぼーっとサクヤを見ていると、目が合った。
彼女の黒い瞳が、哀しげに揺れる。
なぜそんな瞳で自分を見てくるのだろう。
理由もわからず辛くなって、ほとんど無意識に目をそらした。
「…あなたとは、はじめましてじゃないわね。覚えて、いるかしら…?」
サクヤのそんな言葉に、コウタが驚いてこちらを見る。
隊長の方には別段驚いた様子はなく、のんびりとタバコを吹かしていた。
黙っているのも妙だし、かといって自分の身の上について今ここで語りたくなどない。
「…昨日は、お世話になりました。」
と、それだけ返しておくことにした。
「…よし。そろそろ時間だ。」
何か言おうと口を開こうとしたサクヤとコウタだったが、リンドウ隊長の一言でそれは中断させられる。
流れ始めた微妙な空気にリンドウは苦笑し、「支度をしてくれ」と一言指示を出した。
◆ ◆ ◆
任地へ向かうヘリの中、レインはぼんやりと考えていた。
コウタのこと、サクヤのこと、リンドウ隊長のこと、そして自分自身のこと。
コウタには、話してもいいだろうか。
自分が記憶の多くを失っていることや、廃研究所でサクヤと支部長に拾われたことを。
おそらくリンドウ隊長の方は知っているのだろう。
少なくとも、サクヤが知っていることは彼も知っていると考えてよさそうだ。
もしかしたら自分よりも、『レイン』という人間について、情報を握っているかもしれない。
ふぅと一つため息を吐く。
今更ながら、自分はただ流れに身を任せているだけなのだと、レインは感じていた。
ちらりと、コウタの方を見やる。
どうやら初めて乗ったらしいヘリコプターというものに興奮しているようだった。
目を輝かせ、物珍しそうに空から見る地上を楽しんでいる。
…あれから、サクヤと面識があることについて、コウタは何も聞いてこなかった。
このヘリへ向かう途中も、ずっと明るく話題を提供し続け、先ほどの微妙な空気もあっさりと払い除けてみせた。
コウタは、すごい人だ。
それでいて良くできた人だと思う。
レインは少なからずコウタの存在に救われていた。
不意にコウタが振り返り、目が合った。
にっこりと笑うコウタに、自分も笑みを返す。
そんなとき、吹き荒ぶ風が弱まるのを感じた。
どうやらヘリが目的地に到着したらしい。
「着いたぞ。」
前に座るリンドウ隊長が、新人2人の方を振り返り声をかけた。
リンドウ、サクヤに続いて、地に降り立つ。
レインは目の前に広がる光景に絶句し、釘付けになった。
「ここが、お前たちの初任務の舞台。旧市街地。」
呆然とするレインとコウタに、リンドウが教える。
「またの名を、《贖罪の街》だ。」
アラガミが人類にとってどんな存在なのか。
それをはっきりと物語るこの場所で、レインとコウタの初任務が幕を開けようとしていた。