雨の唄
長編 時雨
第1章
2人の新人
彼女はアナグラの研究室に足を運んでいた。適合試験に合格し、晴れてゴッドイーターとなった。
そのため、説明とメディカルチェックを受けにきたのだ。
彼女の前には男が2人。
彼女を連れてきた、長い金髪の男。
そして、眼鏡をかけた、くせ毛の男。
眼鏡の男は頻りにコンピューターをいじっている。
やたらニコニコしていて、いかにもうさんくさそうだ。
「さて。どうだろう、体調の方は?」
金髪の男が彼女に尋ねる。
「…悪くはないです。」
彼女は無表情で答えた。
「そうか。今君が置かれた状況については、理解できているかね?」
「…よく、わかっていません。」
よくわかっていないどころではない。
まったくもって理解不能だ。
気が付いたら廃墟に立っていて、いきなり現れた男に一緒に来いと言われた。
フェンリル極東支部、通称アナグラと呼ばれるこの場所に、半ば強制的に連れてこられた。
そこで現在の世の中の状況と、神機使い…またの名をゴッドイーターというものについて教えられた。
今世の中は恐怖に囚われている…と。
アラガミと呼ばれる、人間からしてみれば“化け物”に違いない謎の生命体に、日々を脅かされているという。
ゴッドイーターは、人々をその恐怖から守るため、アラガミに立ち向かう職業なのだそうだ。
彼女は、『新型』と呼ばれる、今までのいわゆる『旧型』よりも、より“効率的な”神機使いになりうる可能性があると告げられた。
その期待を裏切ることなく、彼女は新型の適合試験に合格した。
そして、今に至る。
「まず、そうだな…。どちらで呼ぼうか…。」
男は手元にある書類に目を落とす。
「レイン…の方がいいかな?」
「レイン…?」
“レイン”という言葉にはものすごく聞き覚えがある。
記憶の糸が一気に手繰り寄せられ、彼女はひとつだけ思い出した。
「それは、私の名前…です。」
「そうか。ではレイン、改めて説明しよう。」
金髪の男は姿勢を正し、彼女に向き直る。
「私はヨハネス・フォン・シックザール。このフェンリル極東支部の支部長を務めている。」
ここは“極東支部”で、彼は“支部長”。
ということは、ここで最も権力ある人間…ということだろう。
「君には今日からここで、新型ゴッドイーターとして働いてもらう。」
新型と旧型についても、軽く説明を受けた。
どちらも神機と呼ばれる武器を用いて、アラガミと戦うという点で変わりはない。
しかし、彼はずいぶん新型を特別視しているように感じる。
いや、むしろこだわっている気がする。
まあ、だからどうということはないが。
「ゴッドイーターの仕事は、アラガミを駆逐し、戦う力のない者たちを守ること。そして来たるべき『エイジス計画』に尽力すること。」
そこまで説明し、彼はちらと時計を確認する。
「本日はメディカルチェックを受けた後、対アラガミ養成の講義と訓練を受けてもらうことになる。以上だ。」
話は終わった。
一気に言われたが、今の頭では全く理解できない。
そもそも知りたいのは、そんなことじゃない。
「ヨハン、たぶん彼女が知りたいのは自分自身のことだと思うよ。」
レインの気持ちを代弁するように、眼鏡の男が、コンピューターの画面を見詰めながら、シックザール支部長に言う。
「それについては君に任せよう、ペイラー。私はこの後少し用事があってな。」
再び時計を見やり、支部長は扉の方へ向かう。
「おや、そうだったのかい。じゃあデータは後で送っておくよ。」
ペイラーと呼ばれた眼鏡の男は、ひらひらと彼に手を振った。
「そうしてくれ。では失礼する。」
君には期待している…とレインに言い残し、彼は部屋を出て行った。
支部長を見送り、レインはしばらく扉を見詰めていた。
そしてペイラー氏の方に顔を向ける。
「はじめまして、レインくん。私はペイラー・サカキ。ここで技術屋をしているんだ。」
まあ気軽にサカキ博士とでも呼んでくれたまえ…と、彼は“博士”と付けるよう遠回しに強要した。
不思議な威圧感を持つ人だ。
表面上は穏やかだが、奥に何かを隠している。
そんな印象を受けた。
「さて。そこに横になってくれるかな。とりあえずメディカルチェックをしよう。」
説明はそのついでにね…と、サカキ博士は部屋隅にある備え付けの簡素なベッドを指差した。
まるで手術台のような、ベッドと言えるかどうかもわからない代物だ。
彼の声は優しげだったが、有無を言わせぬ強さがあった。
かなり気は進まなかったが、おとなしく従う。
「…君は、“レイン”というんだね。」
レインがベッドに横になったのを確認し、サカキは再びコンピューターに目を落とした。
何か操作をしているようだ。
「6歳から12歳まで孤児院で過ごしていたらしいね。その時期以外…6歳以前と12歳以降の記憶が無いんだとか。」
なぜかものすごく、眠い。
「フェンリルに、山奥の特殊な研究施設が突然吹き飛んだと報告が入った。だから、調査に向かったんだ」
──調査に向かった? …支部長自ら?
それは不自然だと思った。
どんどん回らなくなっていく頭でも、それくらいはわかる。
しかし、その答えはすぐに与えられた。
「ヨハンはやたらそこの研究に興味があってね、彼自ら赴くと申し出たんだよ。」
まるで心を読まれているかのような心地悪さを感じる。
「彼が現地に到着した時、施設はすでに廃墟という状態で、君が一人その中で立っていた。…と聞いているよ。」
(だめだ、眠い…。もう、これ以上は……。)
「ああ、言い忘れていた。」
寝まいと、必死に睡魔と闘うレインの様子を見て、サカキ博士は言う。
「メディカルチェックは、ちょっと眠くなるんだよ。」
「先に、言って、ください、よ……。」
「大丈夫だよ、すぐに終わるからね。午後からは講義と訓練だ。今のうちに休んでおくといい。」
もうこれ以上は耐えられなかった。
激しく襲い来る睡魔におとなしく敗北し、レインは意識を手放した。
レインは眠ってしまった。
部屋には、コンピューターの電子音と、サカキが手を動かす度に立つ衣擦れの音しかない。
「La Sorciere(ラ・ソルシエール)、か……。」
サカキは何となしに呟く。
そしてとても悲しげに、目を伏せた。
憐れむような、嘲るような、そんな表情だった。
「ヒトとは、なぜ“力”を支配しようとするのだろう……。」
彼のそんな言葉が、レインの耳に届くことはなかった。
◆ ◆ ◆
ふらふらしていた。
寝起きで頭が回らない上に、未だ状況がはっきりしない。
複雑で不快な多くの感情が入り混じり、自らを取り巻く。
気分が悪かった。
とりあえず視界に入ったソファに腰掛ける。
目を覚ますと、目の前にサカキ博士の顔があった。
メディカルチェックが終了したことを教えられ、エントランスで指示を待つよう言われた。
そして、今こうしてエントランスの1階にいる。
受付が見えた。
自分と同じくらいの歳の女の子が、カウンターに立っている。
受付嬢…だろうか。
男の人と話をしている。
その横に目を向けると、変わった帽子を被り、丸いサングラスをかけた怪しげな男が床に座っていた。
周囲に様々な物品を広げている。
どうやら商売人らしい。
人が絶え間なく行き交う。
なぜか、とても寂しく感じた。
誰もが慌ただしく動くこの場所で、自分一人だけが置いていかれている。
孤独。虚無。
そんな言葉が頭に響く。
(…そうだ。私には何もない。)
幼い頃の記憶がなかった。
自分の故郷がどんな場所なのか、家族はどんな人なのか、今どうしているのか。
何も知らない。…わからない。
孤児院に入る前も、入ってからも、ずっとひとりだった。
ひとりきりだった。
そしてまた記憶を失った。
何一つ得ることのないまま、どんどん失っていく。
自分はいつも空っぽだ。
何も、ない。
もう涙さえ、出てこないほどに。
「ねぇ、あんたも新しくゴッドイーターになった人?」
ぼーっと何もない場所を見つめていたとき、そんな声が聞こえた。
その声の主の方を見る。
自分に向けられた言葉のように聞こえたからだ。
自分より少し年下だろうか。
男の子がこちらを見ている。
外側にツンツンはねている明るい色の髪。
大きな黒い瞳は、好奇心からだろうか、きらきら輝いて見えた。
「俺も今日ゴッドイーターになったんだ。」
ほら…と、彼は真新しいキズ一つない腕輪を見せる。
それは、神機使いなら常に付けている赤い腕輪。
この腕輪がなければ、神機使いは神機に捕喰されてしまう。
なぜなら神機は、アラガミそのものともいえる武器だからだ。
アラガミとは、単体の生物というわけではなく、オラクル細胞というものが何万何十万と結合してできた、一つの群衆のようなものなのだという。
アラガミというものを形作る、結合の中枢を担うものを、ここではコアと呼んでいる。
神機は、そのアラガミから摘出されたコアから作られているのだ。
そのため神機使いは、神機を扱うために、その神機のオラクル細胞を自らの神経に組み込む必要がある。
それはすなわち、ヒトをアラガミ化させているということに他ならない。
にも関わらず、完全にアラガミ化しないのは、この赤い腕輪から常時投与される『P53偏食因子』というものが神機のオラクル細胞を制御しているからだ。
『P53偏食因子』が途絶えたとき、神機使いは自らの身体に取り込んだオラクル細胞…すなわちアラガミに、捕喰されてしまう。
つまりこの腕輪は、神機使いにとっての命綱というわけだ。
ちなみに、例えこの『P53偏食因子』があっても、自身と適合しないオラクル細胞を取り込めば、神機による捕喰は免れない。
だからこそ、神機との相性を確かめるための適合試験が存在するのだ。
「俺、藤木コウタっていうんだ。名前で呼んでよ。あんたの名前は?」
穢れない瞳に真っ直ぐ見詰められ、なんとなく邪険にできなかった。
「……レイン。」
ついさっき思い出した自分の名前を告げる。
「そっか。じゃあ、レイン!」
彼…コウタは、右手を差し出した。
握手を求めているのだろう。
少し戸惑って、彼の顔と手を交互に見比べた。
そして、右手を伸ばした。
手が触れ合う。
「よろしくな!」
彼はぎゅっと手を握り、にっこりと笑った。
その笑顔につられ、気付いたら自分も笑っていた。
「…よろしく、コウタ。」
コウタはとても明るく、人懐こい良い子だった。
よくしゃべり、よく笑い、ハイテンションでオーバーリアクション。
とても楽しそうに、色々なことを話す。
そんなコウタと打ち解けるのに、時間はかからなかった。
彼女がやってきたのは、やたらよくしゃべるコウタの話に耳を傾けていた時だ。
カツカツと、鋭いハイヒールの足音が近付いてきたと思ったら、彼女はいきなり「立て」と言ってきた。
それは、ソファに腰掛けて談笑していたレインとコウタに向けられた言葉だった。
「立て!」
彼女は繰り返した。
さっきよりも強い口調で。
その気迫に圧され、コウタとレインはおとなしく立ち上がる。
「私は雨宮ツバキ。お前たちの教練担当者だ。」
雨宮ツバキと名乗った女性は、とても厳しそうな美人だった。
“上官”という言葉がものすごくピッタリあてはまる、高潔な雰囲気を漂わせていた。
「2人とも、メディカルチェックは済ませているな。これから、講義と訓練に入る。準備はできているか?」
「は、はい!」
コウタは元気よく返事をし、レインも頷いた。
「まずは身体能力測定を兼ねた簡単な訓練からだ。今から訓練場に移動する。」
ついてきなさい…と言われたので、コウタとレインはおとなしく彼女に従った。
◆ ◆ ◆
足を付ける度に冷たい音がする、硬い鉄の床。
出撃ゲートを抜けた先にあるこの道は、神機保管庫や、移動用飛行機またはヘリコプターなどの発着場、そして訓練場などに通じている。
任務に赴くとき、そして帰還したときは、必ずここを通ることになるのだろう。
「最初に行う訓練は、神機の扱い方についてだ。最も基本的で、最も重要な訓練と言える。しっかりと取り組むように。」
前を歩くツバキ教官が言う。
「私を含め、上の人間の命令には従うこと。…生き残りたければな。」
背中を向けたまま、ツバキはそう締めくくった。
しばらく歩くと、《神機保管庫》とプレートに書かれた部屋の前に来た。
やたら大きな扉を開け、ツバキの後に続いて中に入る。
そんなに広くはない部屋だ。
神機がいくつも、壁際に固定されて並んでいる。
そして、自分と同じくらいの年齢であろう女の子が一人いた。
格好からすると、整備士だろうか。
女の子はこちらに気付き、体を向けた。
「こんにちは、ツバキさん。もしかして、その2人……。」
女の子がコウタとレインを見る。
「ああ、紹介しよう。例の新人だ。彼がコウタ、彼女がレイン。」
ツバキに紹介され、コウタとレインは軽く会釈した。
「2人とも、はじめまして。私は楠リッカ。神機の整備士をやってるよ。」
「お前たちの神機も、彼女がメンテナンスを行う。これから世話になるだろう。」
「そうなんだ、よろしく!」
と、コウタがリッカと握手を交わす。
レインもそれに続いた。
「これから訓練だよね。ほら、君たちの神機はここだよ。」
リッカが、コウタとレインの神機の場所を指し示す。
「任務が終了したら、ちゃんとここに返してね。任務以外で勝手に持ち出しちゃだめだよ。」
それだけ言うと、じゃあ私はこれで…と、リッカは部屋から出て行った。
「各自自分の神機を持て。このまま訓練場に移動する。」
ツバキに促され、コウタとレインは、それぞれの神機に手を伸ばす。
コウタの神機は、旧型遠距離式のアサルトだ。
アサルトは、威力はそう高くないが、とにかく短い間隔で連射できる。
状態異常攻撃などが効果的な銃…だったはずだ。
レインの神機は、新型可変式のロング・アサルト。
コウタと同じタイプの銃と、刃の長さが特徴の剣の組み合わせだ。
新型神機の最大の特徴は、剣形態と銃形態とに、切り替えが可能であるということ。
同行するメンバーや、対峙するアラガミによって、前衛・後衛のどちらにも瞬時に対応できる。
だからこそ新型は、より“効率的”とされているのだった。
2人は神機を手にし、ツバキに続いて、神機保管庫を後にした。
訓練場は、神機保管庫からほど近い場所にあった。
第一、第二、第三……と、どうやらいくつもあるらしい。
ツバキは部屋の前で立ち止まり、コウタとレインも足を止めた。
「よし。これより訓練に入る。」
ツバキがこちらに向き直った。
「コウタ、お前は第一訓練場。レインは第二訓練場だ。」
それぞれに向けて、ツバキは言った。
「えっ、別々にやるの? 一緒に来たのに?」
コウタは首を傾げる。
「新型と旧型では神機の扱い方が異なるからな。」
ツバキの答えに、コウタは納得したようだ。
一つ頷き、レインに顔を向ける。
「じゃ、またあとで。お互い頑張ろうな!」
コウタは第一訓練場、レインは第二訓練場の前に立つ。
扉は自動で開かれた。
ゴッドイーターとしての生活が、今まさに始まろうとしていた。
コウタは強い意志を、その胸に抱いていた。
レインもまた、俄かな希望を抱きつつあった。
これから先、何が待っていようと、進まなければならない。
進むしかない。
訓練場の中へ、2人はそれぞれ足を踏み入れた。