Hypnotic? Hypnotic? 開けたばかりの任務とその次の任務の間は、僅か7時間。 繊月が真っ暗な夜空に極細の切れ込みを入れた真夜中、極力足跡を立てずに廊下を歩く。 天井から煌煌と照らす明かりが、疲れた目に痛い。 普段は全く気にならない襟元のファーが不快に感じて上着を脱ぐと、どこからか侵入した夜風が汗を気化させて、悪寒が駆け抜けた。 すぐにでも眠りたいのに、妙に脳が冴えてしまっている。こういう時は、必ず明け方まで待たないと眠れない。 休息を取れる時に取らないと、非常時に約に立たなくなるのは良くない事なのに、昔からの癖でいつもなかなか寝付けなかった。 いっその事、訓練施設で限界まで体を疲弊させた方が良かったかもしれない。 今日は何時間で眠れるのか――見慣れた廊下の見慣れた壁の汚れを通過して、消化器のすぐ横の角を曲がれば自分の部屋に辿り着く。 メインの廊下から外れたここは少し薄暗い。最高ランクと最年長のSeeDだけに与えられる広めの個室。20歳になって去っていった先輩曰く、ありとあらゆる面でこの部屋は優遇されているらしい。 広さに関してはその通りだけれど、それ以外で特に恩恵を感じていないので、何が『ありとあらゆる』なのかは実はまだよく分かっていない。 (さすがに今日は…いないよな) 今日は帰れないかもしれないと伝えてあったし、こんな時間だ。きっと自分の部屋でぐっすり眠っているはずだ。 カードキーを差して小さな電子音と緑のランプを確認して部屋に入ると、自分でない人の気配と、独特の甘い香りに驚いた。 リノアが、いる。 入口そばにある蛍光灯のスイッチを押そうとした手を慌てて止めると、脳と体の伝達が乱れて、中指が2度跳ねた。 真っ暗な部屋を見渡すと、ベッドにうつ伏せに眠っている彼女のシルエットを見つけた。アンジェロはいない。きっと部屋に戻るつもりが寝こけてしまったのだろう。 部屋の灯りが消えていたのを変に思ったが、消し忘れ防止の為にタイマー設定したのを思い出した。 ベッドサイドの調光ランプを一番小さなものにして、彼女を起こさないように注意深く観察する。ベッドのへりに腰掛けてまじまじと彼女の全身を目で追って呆れ返ってしまった。 (おいおい…) 部屋は一定の温度に保たれているとはいえ、その格好はまずいだろ。 リノアの寝姿は、タンクトップとショーツしか身につけていなかった。無防備なのか扇情的なのか……今回は前者だろう。 彼女が枕代わりにしているのは、何かの雑誌だった。ゆっくり抜き取ると、思わず吹き出しそうになった。 『メリハリ☆モテボディエクササイズ』 そんな見出しの見開きページは、モデルが何カットものコマの中でストレッチのポーズをしていて、女子の読む雑誌によくある特集だった。 ストレッチはこれだけか? 何の気なしに次のページを捲って後悔した。 『彼氏を離さない《チツトレ》で内側美人!』 慌てて雑誌を閉じて、サイドテーブルの上に置いた。 (………今のは見なかったことにしよう) 変に体が熱くなったのは気のせいだ。 「まったく。腹が冷えたら大変だろ…」 頭にこびりつきそうになった文字を忘れるように、甲斐甲斐しく世話を焼くのを装ってタオルケットをかけてやると、僅かに身じろぎしたが、口が少し開いているからまだ深く眠っているらしい。 これなら、シャワーを浴びても音で目を覚ますことは無いと判断して、バスルームへ向かった。 (それにしても、ストレッチ位どうして自分の部屋でやらないんだよ) 変な妄想で余計に眠れなくなったじゃないか。 *** 埃まみれの体を洗い流して、バスルームを出ると…はたと気付いた。 しまった。リノアに気を取られ過ぎて、クローゼットからバスタオルと着替えを持ってくるのを忘れた。 仕方なしに、タオルハンガーに掛けてあったフェイスタオルで頭を拭いて、さっきまで身につけていたパンツを穿いて部屋に戻った。 案の定、リノアは眠ったままだったが、今度は仰向けになっていた。 暑かったのか…シーツはたわみ、タオルケットが哀れな位置に追いやられている。 (本当に寝相悪いな。幼児級だな) 一向に睡魔が訪れない本来の部屋の主を差し置いて、スヤスヤと眠る姿が可愛らしいやら憎らしいやら。 突然、自分の中の衝動が一人歩きした。 そう、小さなイタズラをするだけ。本気じゃない。 キシッ…と、小さなスプリングの音を立てて覆いかぶさってみる。つるんと滑らかな頬や、痛みのない真っ直ぐな髪を掬っても、彼女はまだ目覚めない。暗がりでもハッキリ分かる白い首筋を噛んだら、甘そうだ。 緩く開かれた手を握って、小さな唇にそっとキスを落とすと彼女がなにかを呟いた。 「ん?なに?」 外で鳴く虫の音よりも小さく囁いて尋ねると、リノアがやっとうっすら目を開いた。 彼女の意思でキスをした後のように、薄いガラスよりも透明感のある双眸が蠱惑的だ。 「フェ…イテッド…サークルって、目が回らない?」 「………は?」 「ほら、アンジェロが……目を、回しちゃう…」 (完璧に寝ぼけているな) どんな夢を見ていたのやら。でも、俺が出てきていたらしい事実は、無条件で嬉しさがこみ上げるには十分で。 喉元でなんとか笑いを堪えて、もう一度――今度はしっかり音を立てて唇を重ねると、そこから何かが生まれ出てくるように満たされていくのが分かる。それに名前をつけるのは野暮なことだ。 鼻先をかすめる彼女の皮膚と吐息のみが持つ香りが、媚薬のようでいて睡眠薬のようでもある。 ほんの少しだけ、睡魔の尻尾を掴みかけたけれど、するりと逃げられた。 リノアの瞳が覚醒と言う名の輝きを取り戻して、じっとこっちを見ていたから。 「いつ、返って来たの?」 「…2・30分前かな?」 「おかえりなさい」 「ただいま」 挨拶にはキスがつきものだ。 だから、おやすみも兼ねてもう一度軽く触れると、リノアの口角が上がった。 「スコールって、キスが好きだよね」 「そうか?」 「うん。でも、私もスコールのキスは大好きだから、いいんだけどね」 「なら、問題ないな」 「うん。でも、」 二度目になる『でも』の後を数秒待つと、リノアの腕が俺の首に回った。 本気じゃないなんて、建前だ。 リノアの前だと、何もかも暴かれる。 「キス、だけ?」 「……………眠れなかったから、軽い運動でもしようと思ってたところだ」 「軽くて、いいの?」 「 その格好といい、今日はやけに挑発的なんだな」 「ね、知ってた?ここって、他よりも防音がしっかりしてるんだって」 どうやら、掴んだ尻尾は小悪魔のものだったらしい。 キス好きなのは、誰のせいだと思ってるんだよ? 絡む粘膜の合間に呪わしく名前を呼ぶと、それは瞬時に麻薬から派生する劇薬へと変化する。 生憎、万能薬もエスナもここには無い。 ならば、彼女の甘い肌で介抱してくれるまで、頭から爪先までそれに酔いしれるまでだ。 どうせ睡魔は小悪魔の魅力に当てられて、当分帰ってくる気配がないからな。 |