落ちていく感覚と共に目が覚めることは珍しいことではなかった。はっと開いた視界に真っ暗な部屋が広がる。夢の内容は思い出せないけれどいい夢ではなかったことは確かだった。その証拠に心臓がばくばくと音を立てていて、じんわりと掌に汗が浮かんでいる。落ちつかせるように大きく深呼吸を繰り返すけれど、気にすれば気にするほど心音は耳元に迫ってくるようだった。がさがさと枕元を漁る手がやっと無機質な冷たさを見つけだす。眩しすぎる液晶にくらんだ目を何度か瞬かせてやっと形作られた数字は二時十三分。なんとなくいやな数字だ。怖い話やお化けが苦手なんて女の子のように可愛くはないのだけれど、それでも先ほど見た、もう片鱗も覚えていないとはいえ、不吉な夢の予感を引きずっていてなんとなく胸に重苦しい。
 ため息を吐いても重苦しさは消えず、むしろどんどんと重さを増していくような気さえする。くるりと寝返りを打とうとして動かした身体を、ずいぶんと重い掛け布団が阻む。訝しく思ってその重さの方向に顔を向けると思ったよりもだいぶ、だいぶ近くに見慣れた緑色の髪が流れてきていた。

「緑川」

 小さく名前を呼んだ声が掠れている。いつもどこか成長しきれていない幼さを持っている彼なのに、緩やかに目を閉じて薄く口を開けている顔は、むしろ大人っぽく、それからどことなく色っぽく見えた。そういえば昨日は一緒に布団に入ったのだっけと思い出す。もう何度もしているのにキスをすると照れてしまう彼が、半ばやけのようにおやすみと叫んで突っ伏して布団にもぐりこんだのはたかだか数時間前だと言うのに、どうしてか遠く思えた。
 夢の予感から逃げるように緑川の頬を指先でなぞった。なめらかな肌触りと確かな体温にぞくりと背筋が震える。キス以上は未だしたことがなかった。それは自分たちの幼さが最大の要因だけれど、なによりも緑川を傷つけてしまいそうで怖かった。一度、どうしようもなく深く深く傷つけてしまったことがある。もう気にしてないよと緑川はにっこりと笑うけれど、そのたびに申し訳ない気持ちが心臓を貫く。本当はまだ、どこかこちらのことを怖がっていることを知っているし、だけどそれを緑川が表に出さないことも、それはこちらに対する緑川の優しさだということも、いやというほどわかっている。
 緑川の唇がなにかを呼ぶように動く。ヒロト、ではない。それでも、自分の名を緑川の唇が形作った。ヒロトではないけれど忘れてはいけない自分の罪の名だ。眉をしかめる緑川の顔が泣きだす寸前のようで、ほらやっぱりと思う。許してくれなければいいのにと思う。こんな風におとなしく同じ布団に納まったりしないで、唇を許したりしないで、ふざけるなと怒ってくれればいいのに。
 だけどそんなこと緑川は望まないのだ。殴ってくれてもいいのに、と面と向かって言ったこともある。一度どころの話ではない。その度に困ったように眉を下げる緑川はそういうことをいうヒロトの方を殴りたくなるよ?と笑った。

「リュウジ」

 名前を呼ぶ。
 ありったけの思いをこめて、名前を呼ぶ。もう終わったんだよとは軽々しく口にできないけれど。

「リュウジ」

 むにゃむにゃと不明瞭な、だけどわからないわけない言葉を紡ごうとする唇をなぞって、緑川の夢の中にも届くようにもう一度名前を呼ぶ。ごめんなさいだなんて、もう口にしなくたっていいのだ。あの時繰り返し繰り返し紡いだ言葉をお互いに忘れたわけではないけれど。止まらない唇に心臓がきんと痛みを主張してやまない。それはただの悲しみよりももっと複雑でそのうち身体じゅうを締め付ける痛みに変わる。
 本当に怖がっていることは緑川を傷つけてしまうことよりも何よりも、失うことだ。だから緑川が忘れていないことを少しだけ喜んでいる、同じ闇を共有できることを、喜んでいる。そんなどうしようもないことで繋がっていれば緑川がずっと側にいてくれるような気がしている。そんな醜い自分がいることを知っている。緑川はそんな風に思っていると知ったら怒るだろうか。そんなことだったらもしかしたら緑川は殴りかかってくるかもしれない。
 指先でなぞった唇が息を吐いて、それから長い睫毛がふるふると揺れた。薄く開いた、まだどこか夢を見てるような目がこちらの姿を認めて、細められる。

「ヒロト?」

 先ほどとは違う、こちらの名前をとろんとした声ながらもしっかりと呼んだ緑川がごそごそと動いてこちらの頬に触れる。ほんわりと暖かな指先は先ほどまで布団の熱に包まれていたからだろう。まるで涙の筋でもあるかのように頬からまぶたへとさかのぼった指先にされるがままになっていると柔らかに緑川が笑った。いつもの、太陽の下で見るのよりも眩しくない、それでも確かな温度を持ったやさしい笑い方。

「怖い夢でも見た?」
 
 泣きそうな顔してるよ、ヒロト。その笑みで、そんなことをいう。それは緑川の方だろうと思ったけれどこちらの答えなんて求めていない―きっと寝ぼけているのだ、そうに違いない―緑川の腕が頬から後頭部に回ってこちらの頭をぎゅっとその胸の中に押し込めてしまったから、なにかを言うことなんて不可能になってしまった。
 暖かな緑川の体温と、規則正しい心音に先ほどの不吉な予感がゆっくりと溶かされていく。きっと明日の朝起きたら自分が何をしたか覚えていない緑川が真っ赤な顔になって怒るのだろうけれど、ここから抜けだす気は毛頭なかった。すでに重くなってきた手足も、寝ているはずなのに力のある緑川の腕もそれを許してはくれなかったし。とくんとくんと響く緑川の心臓の音に自分の心臓の音をそっと重ねながら、今度は柔らかな白い世界へと落ちて行った。


(許されているのも甘やかされてるのも俺の方だ)
(だけど、いまはどうかこのままで)


夜が明けたら


(……夜が明けたら思いっきり甘やかしてあげるから)


(2011/05/15)
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