(※報われないマサキ)
(※基緑前提、マサキ入園時捏造)



ホットミルクでやけど



 ホットミルクはそのべったりとした喉ごしや、時折熱すぎて舌をひりひりさせるものだからあまり好きではないのだけれど、柔らかな笑顔とともに差し出されては断れるわけなかった。立ち上る湯気が安っぽい蛍光灯の下に消えていく。さぁどうぞ、と言わんばかりにこちらを見ている視線に耐えきれずに一口分啜る。思ったより熱くなかったホットミルクは、だけど確かな独特の甘ったるさを持って喉から胃に落ちていった。

「マサキくんだっけ」

 その様子に満足げに笑みを深めたホットミルクを作ってくれたその人―緑川リュウジだと先ほど教えてくれた―は、そういって首を傾げたから、さらりと柔らかな緑の髪が揺れて肩からこぼれ落ちた。その髪と同じくらい柔らかな声で名前を呼ばれたのに、自分の名を呼ばれたのだと認識した瞬間にどうしてか痛みが心臓に走った。ホットミルクの入ったマグカップを持った指先から熱が引いて、温度差にきんきんし始める。どうしたらいいのかわからずにぎゅっと唇を噛んで俯いた。
 その名前は、昨日までの愛されていた自分を思い起こさせる。それから、今日、「ごめんな」とすまなそうな表情を張り付けて背中を向けた父親のことを。ぎりぎりと痛む心臓は全身から急速に熱を奪っていく。
 なにも答えられないまま、視線も落としたままでいるとふはっと柔らかに緑川が息を吐く音が聞こえた。それから椅子を引いて立ち上がる音。え、と思って顔を上げる暇もなくふわりとシャンプーのいい香りがした。右側からとんと思ったよりもずっしりとした体重が、体温を分けてくる。

「え、と」
「歓迎するよ、マサキ。お日さま園でうれしいことも楽しいことも、つらいこととか悲しいことはちょっとでもいいけど、とにかくたくさん思い出を作ろう」

 ね、と笑ってこちらの顔を覗き込んでくるものだから逸らす暇がなかった。漆黒の瞳の中で面食らった顔をした自分が間抜けに瞬きをしているのが見える。すぐに離れていったのに右側から確かに伝わってきた体温が、緩やかに全身を巡りいつの間にか胃の中で熱すぎたホットミルクは気にならなくなっていた。いつもよりも心臓が少しだけ早い気がして、頬だけが先ほどのホットミルクのように異質な熱を持っていた。―それはホットミルクとは違って嫌な感じのするものではなかったのだけれど。
 意識すると早くなる心臓をどうしたらいいのかわらかずあたふたしているこちらをどう思ったのか、緑川はふはっと柔らかに笑いを落とす。それからもう一度視線を合わせるようにこちらの顔を覗き込んできて、思ったよりも素早い動きにやっぱりそらす暇がない。柔らかな笑みに、どこかいたずらをしている子供みたいな雰囲気をまとわせた緑川は心底楽しそうに「そういえばマサキはサッカー好き?」と聞いてきた。


◇ ◆ ◇


 お日さま園で暮らすようになって半年がたった。園での生活にもだいぶ慣れてきて、それでもまぁ、性格が災いしてかあまり周りの子供たちとは親しくなれなかったけれど。お日さま園には様々な理由を持って親と一緒にいられない子供たちが暮らしていて、だから一人でぽつんとしている子供も少ないわけではなかったから気にならない。それに別にお日さま園で暮らしているのは子供だけではないのだ。住み込みの職員、とまではいかないがお手伝いとして園出身者が何人か残っている。そうしてどうしてか、大人たちはたいていサッカーが好きだった。否、どうしてかとい疑問は愚問かもしれない。日本中学のサッカー界をわかしたイナズマジャパンのメンバーを二人も擁しているのだ。ちょうどそのころ自分と同じか、少し年上くらいだったであろう彼らがともにサッカーで汗を流してきたことは想像に難くはなかった。
 身体を動かすことは好きだったし、その中でも特にサッカーは好きだった。大人たちの会話の中にもそのおかげでかするりと入っていけたから、どちらかというと大人たちに混じっていることの方が多い気がする。

「あっ、マサキ」

 あの日から少しだけ好きになったホットミルクでも飲もうかと思ってキッチンへと続く廊下を歩いていると、朗らかに名前を呼ばれて大げさに肩がびくんと跳ねた。ホットミルクの温かさを思い起こさせるその柔らかな声音は緑川のものだ。ばれないように小さく深呼吸して、くるりと声の方を振り向いた。

「げっ」
「げっ、はひどいなぁ、マサキ」

 振り向いた先に人影は二つ。一つは緑川のもので、その隣に緑川よりも少し背の高い赤い髪の男が立っていた。

「そんなこといってませんよ、ヒロトさん、仕事のし過ぎなんじゃないですか」

 つんとそっぽをむいて言ってやるとやれやれというかのようにため息をつかれた。ため息をつきたいのはこちらの方なのだけれど、そんなこと言ったって埒があかないから言わない。
 男は吉良ヒロトという。お日さま園出身の、世にときめく吉良財閥の社長様だ。ちょっと前までは基山ヒロトという名前でサッカープレイヤーとしても有名だった。今はお日さま園を離れて都内にある会社の近くで暮らしているらしいが、月に何回かはこうして園を訪れてくる。たいてい、秘書であり、同じく園出身の緑川と一緒にだ。休みが一緒だというのもあるのだろうけれど、二人の間に職務上の関係以上の、それだけではない雰囲気があることに薄々と気がつき始めたのはつい最近だ。そもそもの話で、一緒に住んでいるらしいし。なによりも当たり前のように触れ合う指先や時に甘ったるさを隠せない視線の意味に気がつかないほど鈍感ではない。

「もう、ヒロト子供っぽいよ」

 そう言いながら緑川の手のひらがこちらの頭にぽんと乗った。心臓がとん、と大きく跳ねる。緑川の手は相変わらずふわりと春に似た温度を伝えてきて、身体の奥の方が緩やかにうずくのを感じた。うずきはやがて頬に熱を呼ぶ。すぐに離れていく体温をとどめておきたいのにヒロトや緑川の目があるせいか、それとも緩やかな熱が動きを阻害しているからか、何もできないままただぎゅっと拳を握りしめた。指先だけはどうしてか冷たい。

「あ、マサキずるい、ねぇ、リュウジ、俺にもやってよ」
「ばぁか、なんでヒロトにそんなことしなきゃいけないんだよ」

 そんなこちらの様子を知ってか知らずか、ヒロトがそんなことを言って、そうすると緑川はけらけら笑いながら先ほどまでこちらの上にあった手でヒロトの額を軽く叩いた。相変わらず俺には厳しいなぁと頬をふくらますその人が、本当にそう思っているわけではないことはその笑みから明らかだ。それが自分に対する牽制だと思ってしまうのは、考えすぎかもしれないけれど見せつけられている気分になってしまうのはもうどうしようもないことだった。


◇ ◆ ◇


 温めすぎたミルクは舌をひりひりと痛ませる。もう二十一時を回っているとはいえ、談話室はヒロトと緑川に会うために起きてきた子供たちでお祭り騒ぎで、とてもじゃないけれどゆっくりできる雰囲気ではなかった。まぁなんにせよ、あの二人が並んでいるのを見るのはあまり好きではない。かたんと空になったカップをベッドサイドに置いて、ぼふんとベッドに沈んだ。
 ヒロトのことはけして嫌いではない。それでもどうしてか負けたという気分になって勝手に落ち込むのはいつものことだった。――勝てない、なんて気が付きたくないことを毎回再確認させられてしまうし。

「……少女漫画かよ」

 つい口から零れ落ちた言葉はふわりと布団の中に吸い込まれていく。あの日、不安と、捨てられたことを認めたくない気持ちを抱えて泣き出す寸前だった自分の隣に当たり前のように座ってくれたその人を好きになって、だけどその人にはすでに大切な人がいた。少女漫画なんてそう読むほうではないが、よくあるシチュエーションだと思う。それでも自分が少女漫画の主人公だったのなら一発逆転も夢ではないのかもしれない。
 吐き出した重苦しいため息は、ゆっくりと足元へ沈殿していく。
 そんなこと、あるわけないのだ。人の気持ちは移ろうものだけれど、それでも緑川がこちらをそういう意味でみてくれることはきっとこの先、一生ない。ホットミルクではとけきらなかった重苦しい気持ちの塊が少しずつ心臓を圧迫していくようだった。息苦しい。こんなに苦しいのだから好きでいることなんてやめてしまえばいいのに、少しでも優しくされれば、少しでも笑ってくれれば、やめようと思っていたことなんて吹き飛んでしまう。同じところばかりをぐるぐる回っていて進歩も何もないことをくだらないと思うのに結局今日もまた、同じところを歩いているだけなのだ。
 こんなこと考えるのをやめてしまおうと思って、吐き出そうとした特大のため息は控えめなノックの音に遮られて、行き場を失った。

「……マサキ、いま平気?」

 ノックに続いて聞こえてきた声は聞き間違えもなく緑川のもので、先ほどまで考えていたことなんて忘れてドアを開けてしまう自分は、本当にどうしようもないくらいにバカだってことくらいずっと前から自覚している。


◇ ◆ ◇


 ぎゅっと枕を握りしめたのは隣に緑川がいるという緊張感をごまかすためだ。目にかかる髪の隙間から眺める緑川はいつもはアップにしている髪をすとんとおろしていて、そうしてそこから園で使っているシャンプーの匂いがした。ほんの少しだけ距離を開けているけれど、けしてお日さま園のベッドは大きいわけではない。ほんの少し寄れば触れてしまう距離がいつかのことを思い出させて心臓をどきりとさせる。
 
「マサキさ、なんか悩んでることとかあるの?」
「へ?」

 どこか躊躇う響きを持ったそれは完璧に予想外の言葉で(今回の緑川の訪問意図が全く理解できていなかったからどんな言葉が来ても予想外のような気もするけれど)、だから間抜けな反応をしてしまった。いじっとこちらを見詰めてくる緑川になやみ?と聞き返す。

「……まぁ、話したくないならいいんだけどさ」

 お前、抱え込むタイプだから心配だよ。
 そういいながらふわりと頭を撫でられて、隠せないくらいびくりと肩が震えた。心臓はたぶん、それ以上に跳ねた。一瞬の嬉しさの後、だけど襲ってきたのは痛みだ。緑川がこちらのことを気にかけてくれることはどうしようもないくらい嬉しいのにそれは間違いなく自分がお日さま園の子供だからだ。それ以上には絶対になれない。いっそぶちまけてしまおうかとも思う。好きだ、と。ヒロトから緑川のことを奪いたいと思っていると、言ってしまおうかとも思う。――そんなこと、実際にできたら苦労しないのだけれど。邪魔をしているのはプライドと、嫌われたくないという気持ちだ。
 ぎゅっと拳を握りしめて俯くと、緑川が困ったように笑ったのが分かった。耳元をくすぐったその吐息は、心臓を柔らかく締め付けていく。

「お前は一人じゃないってことだけ、忘れないでほしい」

 何か言おうとして、だけど心臓が痛いから何も言えなかった。緩やかな沈黙の向こうからヒロトが緑川を呼ぶ声が聞こえる。普段なら忌々しく思うその声も、今は少しだけ救いだった。

「呼ばれてますよ」
「……ん、ほんとに、あんまり無理するなよ」

 緑川はそういってもう一度くしゃりとこちらの頭を撫でると、立ち上がって扉の向こうに姿を消す。沈んでいく気持ちを誤魔化すように空になったホットミルクのカップにもう一度口を付ける。底にほんの少し残っていた冷えた液体が先ほどやけどした箇所を撫でていく。痛いなぁと呟いたけれど本当に痛い場所がどこかなんて、言われなくたって気が付いているのだ。


(2012/05/31)
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