重苦しい心臓を抱えながら、簡単に嘘をつく。



「キスしてください」

 視線を合わせたらやましい気持ちがバレてしまうような気がして俯いてそう言った。声は震えていなかったし、頬の熱も風呂上がりなのだから誤魔化せるだろう。もしかしたら柔らかく跳ねあがった心臓の音が聞こえてしまっているかもしれないけれど、目の前の緑川は「え?」と不思議そうに聞き返してきただけだからきっとやっぱりバレていないはずだ。
 二十三時十五分、小さい子供もいるお日さま園の夜は早く、談話室には緑川と自分しかいなかった。時折どこかの部屋で子供たちの笑う声が聞こえるけれど、それもだんだんと小さくなっている。少し引っ込んだところにある園の立地のおかげでこの先の大きな道路を行く車のクラクションすら遠く、緑川が書類のお供にしているコーヒーの香りが充満する談話室はとても静かだ。そのコーヒーの香りに交じって時折香るシャンプーの匂いが心拍数の加速を、少しだけ早めた。
 
「……おやすみの、キスです」

 言いながら握り締めた指先が冷たくて、そういえば緊張すると指先は冷たくなるのだったなんてことを思い出す。心臓はばくばくと音を立てていて信じられないくらいの熱量が生まれていると思うのに、どうしてか爪先や指先は熱を失っていくようだった。こんなことをしたってどうしようもないことくらいわかっているはずなのに、足掻くことをやめられない。自分らしくないとはわかっているのに、こうやって緑川の気を引きたいのだ。
 緑川のことが好きだと気が付いたのは、もうずっと前のことだった気がする。お日さま園に来て、一番初めに隣に座って名前を呼んでくれたのがこの人だった。そのまま当たり前のように恋に落ちて、そろそろ三年になる。この恋がかなわないことも、もう承知している。緑川にはもう、自分が緑川を思う年数よりもずっとずっと長い間、思っている相手がいて、そうしてその相手も緑川のことをとても大切に思っていることを知っている。それでもなぜか、心のどこかで期待していて、諦めきれないのだ。

「むかし、親から」

 してもらってて、までは言えなかった。あまりにも見え透いた、だけどきっと、緑川には断れない嘘を簡単につけるこの唇は、それなのに変なところで臆病で意気地なしなのだ。お日さま園の大人はたいてい親という単語に弱い。そういうことを利用してまで緑川に触れてほしいと思ってしまう自分がどうしようもなく汚いものに思えた。それでも今更後に引くこともできずに、俯いたまま唇を噛む。ぱちぱちと緑川の瞬きの音が聞こえて、まるで嘘を咎められているみたいで心臓にずきりと痛みが走った。俯いた視界に、ゆっくりと男にしては細くてきれいな指先が伸びてくるのが見えて、その薬指にはまったシンプルな指輪を見たくなくて反射的にぎゅっと目を閉じた。

「マサキ、おやすみ」

 こちらの反応にはお構いなしに伸びてきた指先が熱すぎて、だけどその熱は、こちらの熱を奪っていく。柔らかな声で名前を呼ばれて、そうしてちゅっと軽いリップ音を立ててその唇が触れたのは、額だった。嘘つきな唇は、「あ、」と間抜けな音を出して、それ以外の言葉を忘れてしまった。


(2012/05/05)
back
「#ファンタジー」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -