※日記ログ
※グラレゼから突然24歳基緑に飛ぶ




 さぁ、いっておいで。
 そっと耳元で囁かれた声音の甘さを今でも覚えている。いつもならその甘ったるい声で鼓膜を揺らされたのなら心臓がどくんと跳ねて顔に熱が集まっていくのだけれど、今日はひどく落ち着いていた。きっとしばらくは会えないね、といったあの人の言葉にどれだけの本当とどれだけの嘘が含まれていたかなんて、もう考えなくたっていい。ほとんど嘘なのだ、なんて気が付かなくてもいいことに気が付いてしまうことも、きっともうない。
 緩やかに爪先から込み上げてくる悲しみという名前の付いた痛みを、きつく手を握ることで揉み消す。そうしてぎゅっと目を閉じて、鮮やかな赤と揺れる翡翠の色を思い出す。

「……グラン様、………ト」

 噛みしめるように名前を呼んだ。それから小さな、蚊の羽音よりもずっと小さな声で呼び慣れた、たった一つの名前を舌の上で転がす。心臓を突き破るような痛みが目頭を痛ませていったけれど、気が付かないふりをした。痛みを感じている暇はない。痛みを感じるなんてこと、してはいけないのだ。その名前さえあれば、赤と翡翠の記憶さえあれば、これから先なにが起こってもあの人から与えられる傷以外はすべて無視できる気がした。それでも絶え間なく爪先から込み上げてくる悲しい気持ちには全部蓋をして、そうして世界に背を向けた。


(世界に背を向けたひと)


◇ ◆ ◇


 さよならは言えなかった。
 そのことがどうしてか心臓に鉛を詰め込まれたかのような重さを持たせている。否、本当はずっと、あの子に軽薄な笑みを向けたときから抱えている重さだ。中途半端な自分に嘲笑すら浮かばない。あの子の世界を壊して、壊して、だけど捨てることを是とできなかった自分は、本当に弱い。
 忘れてほしくないのだなんて、あの子にとってはよくないことで、ただの我儘で、そんなことはわかっていたはずなのに。詰め込まれた鉛が、息をし辛くさせる。強く握りこんだ拳の痛みなんて、あの子が抱える世界の痛みに比べたらきっとちっぽけなものなのだろう。そう思うのに駆け上がって瞼を襲ったきんとした痛みに耐えきれなくて、目を閉じた。淡萌黄色がちらりとよぎる。

「……」
 
 ちいさく、名前を呼んで。
 リュウジともレーゼともつかない、微かな音で名前を呼んで。
 だけどもうこの部屋から出ていったあの子は戻ってくるはずもないのだ。傷ついて、傷ついて、傷ついて、それでも壊れた世界を抱きしめているあの子。あの子の優しくて柔らかな世界を壊したのは自分だ。父さんのためだとかどんな言い訳をしたって、自らの言葉で、腕で、したことの重さは変わらない。揺れた漆黒の瞳を思い出す。怯えた瞳に植えつけた名前を思い出す。大切に大切に呼んだ名前を、思い出す。とろけるような声で呼ばれた、捨てたはずの名前を、忘れられなかった。ゆっくりと瞼を開いて、先ほどまであの子がいた場所を見る。誰もいない。当たり前だった。笑おうとしたけれどうまくいかずに、心臓に溜まりつづける鉛に窒息してしまいそうだった。あの子の笑顔を切り裂いた時から、心臓に溜まり始めた鉛の正体を知っている。知っているのに、なにもしようとはしなかった。いろんな言い訳をして、あの子を傷つけた。
 今すぐに追いかけていって、いつかの自分に戻って、断罪してほしいなんて我儘を言ったら、あの時のように笑ってくれるのだろうか。


(世界を壊しつくすひと)


◇ ◆ ◇


 明るい陽光が十分に取り入れられているはずなのに病室はひどく暗い気がした。それはたぶん自分の気分の問題なのだろうけれど、ため息をいくらだって受け入れた病室はひたすらに重苦しい。エイリア騒動が終わってから数週間。すべてが丸く収まったとは言えなかった。もちろんそれだけではないけれど、たとえば緑川はまだ目が覚めない。もう身体は十分に回復しているからいつだって目が覚めるだろうと医者は優しく笑う。じゃあなんで目覚めないのか、とは聞かなかった。――聞けなかった。
 緑川はもしかしたら目覚めたくなんてないのかもしれないと思う。あんなに傷つけて、世界はひどいものだと教え込んでしまったのは紛れもない自分だ。そうしてその優しくて柔らかな世界を捨てさせなかったのも、また、自分なのだ。緑川は、レーゼは、壊れた世界を抱いたまま、世界を壊しに行ったのだ。ほんとうはどうしようもなく傷ついているのに、傷ついていることなど知らないふりをして。
 だから、目覚めて欲しいと思うのはエゴかもしれなかった。
 それでもどうかその目を開けてほしいと願う。よく動く黒の瞳をどうか、と。
 そうしたらこの先なにがあっても、その笑顔を守り通して見せるから。


(世界と引き替えにしても守りたいひと)


◇ ◆ ◇


 緩やかに意識が浮上して、それに合わせて目を開けた。ひどく緩慢な動作になってしまったのは、そうするのが久しぶりなようなそんな気がしたからだ。閉じっぱなしになっていた瞳に、太陽の光は眩しすぎて「わっ」とあげた声も掠れていた。
 がたん、とイスの倒れる音。
 そちらを向くにもだいぶ苦労をした。身体じゅうに点滴やらなにやらが刺さっているし。だけどなんとかそちらを向いて、息をのんだ。その名前を呼びたいのに、うまく声が出ない。翡翠の瞳が目の前で揺れている。鮮やかな赤にぐらりと揺れたのは視界だった。そうしてめまぐるしくよみがえっていく記憶に、やっと自分の立ち位置を理解する。理解して、きっと夢だと思った。
 それでも最初にヒロトが視界にいるだなんて、世界はとんでもなく優しいと思う。あの人には許されないけれど、ヒロトになら、それも夢の中のヒロトになら許されるかなと思って、固まった頬を柔らかに動して、たぶん、笑えたはずだった。

「緑川……っ」

 名前を呼ばれて、体温が触れた。翡翠からぼとりと落ちた水滴が熱い。

「……夢なんだからさ、笑ってよ」

 その泣き顔を見るのはどうしようもなく苦しいから、そういう。どうせなら笑った顔が見たいのだ。あの人の笑い方じゃないヒロトの笑い方が、見たかった。ヒロトはこちらの言葉に一度大きく目を見開いて、それからゆっくりと顔をゆがめて「ばか、夢なわけないだろ」という。

「へ」
「夢じゃないよ、おかえり」

 そうしてそっとされた口づけがあまりにも柔らかだから、夢なのではないかとまだ疑ってしまうのも仕方ない話なのだ。


(世界は優しいとわらったひと)


◇ ◆ ◇


「リュウジ」

 当たり前にその名前を呼ぶ。そうすると顔だけがこちらを向いた。まぁそれ以外は動かせないんだろうけれど。ぎゅっと後ろから抱き締めた姿勢でふたりで同じ雑誌を覗き込んでいる。高校くらいまでは緑川の方が大きくてこういうふうにはやりづらいことこの上なかったのだけれど、いつの間にか抜かしてしまった身長差のおかげでその肩は今では頭を置く定位置だ。耳元でささやかれたせいなのかびくりと肩が跳ねて、オフだからと下で一つにくくっていた髪がこちらの頬にさらりと当たる。
 社長と秘書として共に働くようになって数年。恋人としての付き合いはもっと長い。知り合ってからはもう、それは無限の時間一緒にいるような気がする。傷つけてしまったこともたくさんある。それでもいつか立てた誓いは何とか守れているんじゃないか、なんて思っている。

「なぁに、ヒロト」

 名前を呼んだきり何も言わないこちらにくいと首をかしげる。その柔らかな表情がすぐ近くにあることがどうしようもなく嬉しくて、名前を呼ばれることがどうしようもなく幸せで、心臓からこみあげてくる優しい気持ちそのままに「好きだよ」という。緑川は一瞬驚いた顔をしたけれど、すぐに「俺もヒロトが好き」と笑うから、その唇にそっと唇を重ねるのはもう当然のことだった。


(世界で一番すきなひと)



(2012/03/21 * title)
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