テレビもつけない夜はひどく静かだ。もしドラマのワンシーンだったらおしゃれなジャズでも流れているのかもしれない、そんな優しい夜。郊外にある鬼道の家には車のクラクションも届きづらい。ただ、鬼道の雑誌をめくる音とそれから時折こぼれるため息みたいな吐息(たぶんそれは感嘆のため息なのだと思う)、それから自分が携帯をいじるかちゃかちゃという音だけが部屋を支配している。
 ちらりと見上げた鬼道はこちらの視線に気がつく様子もなく、ゴーグルの中の目をくるりと動かして雑誌に見入っている。こういう時間が嫌いではない、むしろ好きだった。鬼道はあまり雄弁ではなくて、自分もあえてしゃべる方ではないから、生まれる静寂はひどく心地よい。
 用意されたコーヒーをずずっとすする。甘すぎず、だからといって苦くもないそれは今、二人で共有している時間によく似ている。なんとなく、とても悔しいことになぜか、幸せな気持ちなんてものがこみ上げてきて少しだけ鬼道に近づいた。さすがの鬼道もこちらの気配に気がついたのだろう、くいと顔を上げたから視線がぶつかって、一瞬で駆け上ってきた照れくささにあわてて顔を逸らした。

「不動」

 どうかしたか、と。
 静かな夜を壊さない声音が鼓膜を揺らす。
 鬼道の声は不思議だ。反発していたときには耳を塞いでいたその声は、しっかりと聞くようになってからストレートに胸の内を揺さぶることに気が付いた。すとんと落ちていく声は、例えばどこぞのキャプテンのように騒がしくもなく、ただ静かで、やっぱり心地よい。
 誤魔化すようにすすったコーヒーはどうしてか先ほどよりも甘い気がする。べつに、なんでもない。鬼道くんこそどうかしたのかよなんて、心の動揺を少しだけ反映した声はうわずっていて静かな夜にはそぐわない。こちらの態度をどうとったのかきょとんと首を傾げた鬼道は、それから何かを思いついたようににっこりと笑った。ロクでもないこと考えているな、と思う。それから自分があんまりにも懐柔されていることに気がついて、――それでもいいかなんて思う。ぐるぐると混ざる気持ちはたぶんそのうち溶けきってミルクをいれたコーヒーの茶色みたいに綺麗になる。

「なぁ、不動。駆け落ちしようか」

 その声は先ほどの、夜を壊さない声のトーンと同じだったのに、その声が紡いだ文字列はまったく意味不明、いや意味は分かるのだけれど、先ほどの会話とは一切繋がっていないものだった。鬼道と自分は生きてきた道もだいぶ異なるために意思疎通を失敗することはよくあるのだけれど、それでもこれは、たぶん、あえて失敗したのだろうと思わせるような不敵な笑みで笑っている。

「なにいってんの?」
「さぁ、なんだろうな」

 鬼道の、先ほどまでページをめくっていた指先がゆっくりとこちらの頬に触れる。まさかさっきの雑誌はもっと乙女乙女したものだったのかと思うけれど、ちらりと見た紙面にはしっかりと有名なサッカー選手がいた。一体なんでと思う。ひどく動揺している。余裕綽々なんて鬼道くんらしくないだろ、そう言おうとしたのにその前に唇をふさがれた。こんなところもまったく鬼道らしくない。いつもならキス一つにすら恥ずかしげに顔を伏せるのに。酒でも飲んだのかと思ってちらりと鬼道のマグカップの中身をのぞくけれど、カップの底に少し残った茶色の液体からは、それがコーヒーにミルクをたくさん入れた甘ったるい液体であること以外なんの情報もくれなかった。――そもそも先ほどのキスの時にお酒の味なんてしなかったから酔っているわけではないと思うのだけれど。そう、強いていうのならばこの夜の雰囲気に酔ってでもいるのかもしれない。
 ゴーグルとマント、ドレッドヘアなんて一見してお近づきになりたくないような出で立ちを好む割に、鬼道はロマンチストだから。
 確かに鬼道と自分の関係なら駆け落ちという言葉もしっくりこないわけではないだろう。男同士だし、片や将来を期待されるおぼっちゃまで、片や自分で言うのもあれだが、どこの馬の骨だか知らないような人間である。それでも現状駆け落ちするほど差し迫ってもいないし、そもそもの話でこんな男に鬼道が生涯をささげるようには思えなかった。自分で言うのもなんだけど。だからこそその申し出がその場でぽろりと落ちた、普段のこちらの態度に対する応酬だとしても少しだけ嬉しかった。その程度には鬼道のことが好きだった。まぁ自分が進んで隣にいる時点で推して知るべしと言うところなのかもしれないけれど。
 そんな物思いに浸りながら、ゴーグルをしていない赤い瞳をぼんやりと見る。その態度をどうとったのか、鬼道の指先が頬を伝いあごに落ちる。

「一緒にきてくれるか」
「そういうのは働けるようになってからいえよ」

 俺はともかく鬼道くんには貧乏生活なんてできないくせに。

 もう一言、こちらの心臓をどうかさせたいらしい鬼道が言葉を付け加えてきたから、跳ね上がる心臓を誤魔化すようにかわいくない返事をした。自分で言いながら心臓がぴりりと痛んだけれど、それはもう、慣れたものだから無視する。こちらの心臓の動きなんて露ほども知らないだろう鬼道は「じゃあ待っててくれるか」なんていう。いったいどこでそんな殺し文句を覚えてきたのか、問いつめたい気もするのだけれど、地雷を踏みそうだからやめておいた。かわりに小さく、本当に小さく、そっと頷いた。そのくらいは、きっと許される気がした。それをみて満足そうにほほ笑んだ鬼道の唇が再びこちらの唇を奪った。その温度に跳ね上がる心拍数は、もう誤魔化せない。
 いつか鬼道は、こんなちっぽけな静かな夜を忘れて、自分を忘れていくのだろう。それを咎めることはしたくなかった。ただ、こんな自分を柔らかく求める唇があったことを覚えていられれば、それだけでよかった。


柔らかに求める



(2011/05/21)
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