「わざと抉って、昔の、きみの傷をずっと残している」


 その名前を唇から落とすのは無意識なときもあったし、意識的なときもあった。だけどそれはだいたいヒロトがそこにいなければ唇からは零れ落ちない名前だった。ヒロトがその名前を嫌っていることはよくわかっていて、だけど、絶対に忘れないことを知っている。ヒロトの、ヒロトが罪だと思っている名前だ。悲しいことやつらいことをたくさん背負ってしまった名前。
「グランさま」
 翡翠の瞳が揺れた。たぶん、いま、ヒロトはものすごく傷ついた、絶対に。
 月のない夜はひどく暗くて、それでもどこからともなく落ちてきている街の灯りで、部屋は陰影に彩られている。ヒロトの部屋はベッドと机と、それから数十冊ほどの本が置いてあって、言ってしまえば殺風景だった。それでもベッドに刻まれたシーツの波や、落ちたままになっているこちらの上着が陰影にぼんやりと浮かんでいる。ヒロトの指先はこちらの頬に先ほどからずっと触れていて、だけどそれが、動く気配はなかった。くるりくるりと揺れる瞳に、長い睫毛がはらはらと影を落としている。ぱちりと瞬きをすると一瞬その像が消えて、すぐにまた輪郭を形作る。緋色の髪の毛は夜の闇にもよく映えて、きれいだと思った。
 その名前を呼ぶ意味を、たぶんヒロトは知らない。
 ヒロトはたぶんこちらがその名前をいつだって無意識に言っていて、その名前の持つ記憶の苦しさから呼ぶのだとヒロトは考えているのだと、思う。はっきり言われたことはないけれど、たぶんそうだ。本当は違った。否、少しだけあっているけれど、ほとんど違う。その名前を呼ぶことで、あの頃を思い出して苦しくなるのは確かだった。だけどそれ以上に、これは自分のずるさなのだ。たくさんあるずるいところのうちの、たぶん、いちばんずるいところ。
「リュウジ」
 呼ばれた名前がひどく震えている。すごく申し訳なくなるけれど、だけど、たぶんその名前を呼ぶことを自分はやめられない。怖いのだ、確証もない関係が。だから時折こうやって、ヒロトの心臓をわざと抉って、その傷が消えないように、ずっと生々しいまま残っているように仕向けているのだ。
 泣きそうにゆがんだ翡翠の端にそっと手を置く。いつもは穏やかな翡翠がそうやってゆがむとき、ヒロトは結局のところ、自分と変わらない十四の子供であることに気が付く。気が付いたところでなにができるっていうわけではないけれど、心の中だけでごめんと呟く。
「リュウジ、ごめんね」
 翡翠からころりと涙が零れ落ちて、だけど同じくらい自分の視界もにじんでいることもわかっていた。謝らなきゃいけないのは自分の方だとわかっている。泣くなんて本当は自分がしていいことではないとわかっている。だけど、それでも、傷つけてでも隣にいたくてどうしようもないのだ。



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