『いーつきー。』


「…………。」


『怒っとるとー?』


「……………。」


ふ、とひとつ息を吐き、自分に抱きついたまま離れようとしないこの幼子をどうしたものかと頭を巡らせた。此処を出ると言ってから数刻経つが今の今までいつきはひっつき虫状態。何とか機嫌を直せないものかとおどけた調子で話しかけているのだが返事すら返ってこない。顔も見せずに下を向いているので腹を立てているのかさえわからずじまいだ。ここ、奥州を治めているという青年は狐火の持っている知識に興味津々といった風だった。おもしろ半分という感じであったから他意は無いようである。夢を追いかけていると言っていたあの言葉は聞こえによっては冗談に聞こえるが、あれこそ彼の伝えたかったことなのだ。いつかの泰平の世を目指す彼の夢。負けじといつきも言い返していた。


「おらにだって夢があるだ!」


皆が笑って暮らせる世を望むのだと。嘘偽りのない真摯の心であった。かっこええのぉ。思わず漏らした言葉にへらり、はにかんだいつきの笑顔は今となってはどこへやら。さすがに正座のしっぱなしは足が痺れてくるのだが。そういえば青年の隣にいた男はどこかで見たような気がするのだが覚えていない。終始こちらを睨んでいたな、と苦く笑った。


「寂し、いんだべ。」


近く発せられた声にいつのまにか顔をあげていたいつきと視線がかち合って。不意に疑問が沸き起こった。目の前の幼子はこの問いをぶつければ怒るのだろうか。この一月程で徐々に戻ってきている己の記憶。分かったのは、自分は未来からきたこと。そして自分の性格について、だ。どうにも自分の物言いは記憶の中の人々を苛立たせていることが多いようだった。いつも記憶の中では自分が口を開けば周りは皆、嫌悪感を明らかにした表情を浮かべていた。人々から向けられるのは完全なる敵意。それでも尋ねてみなければ、と己より幾分か低い瞳を見やる。

『、なんで?』


なぜ寂しいのか。会ってまだ一月程でお互いのこともよく知らない。あまつさえ、自分は名前しか教えていない。確かに一揆を起こしたときにはいつきに傷ついてほしくないとは思ったが、冷静になって考えてみれば単に自分が一揆をしたくないだとか勝手な理由からくる思いだったのではないか。自分で自分自身の切望や思いさえもわからないのだ。先ず己が関わっていいようなことではないのでは。未来からきた自分が一揆という歴史の一部に加わったことは少なからず何らかの影響があるだろうと狐火は践んでいる。壮大な"歴史"という舞台にたった"狐火"という役に未曽有の恐怖を見出したから。だから一揆を止めようとしたのではないのか。こんな小さな自分だからわからない。何故。どうして。


『ウチが離れるとが寂しいんかねぇ。』


そんな思考をおくびにも出さず、へら、とした声音が狐火の喉からは飛び出してきた。他人なんやけどなぁ。その部分は奥に飲み込み、小さく笑みを向けた。あぁ、問わなければよかった。応える人はいないのに。ぽすぽす、と慣れない手つきで結われた銀を撫ぜれば困惑した瞳がこちらを覗き込んだ。ごめん、と呟いたのは聞こえただろうか。めんどくさい、という言葉ははっきり頭に響いていたのだけれど。




泡沫の雫




(あな、情けなや、)
(白露の水面にて。)



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