novel


▼ Kissing

** アリスちゃんは青田田楽さんからお借りしています


何日の夜を病院で越したのか、覚えていない。ひとり落ち着いたと思えば一人が急変し、新たな患者が救急車に乗ってやって来る。急性アルコール中毒の為に外来で暴れる患者がいると聞けば、神宮寺は進んで患者を引き受けた。暴力も暴言も適当にいなし、頭の中ではICUで戦う患者たちのことを考える。ひとりの患者によって救急外来がストップすることは、何よりも恐ろしい。もしかすれば助けられたかもしれない患者の命をむざむざ落としてしまうかもしれない、と思うと、彼は足を止めることがどうにもできなかった。いま、病院内に残っている医師の中で一番腕っぷしが期待できるのは、神宮寺だ。
今夜の番人は、はるか。彼女は一見男性らしい体つきではあるものの、暴れる患者を押しとどめるほどの体力はない。
救命センターから何か連絡が来る前にシャワーでも、と、神宮寺は暗い廊下を歩き出した。昼間は明るく照らされるこの道も、患者のいない時間帯はおどろおどろしい。幽霊が出たっておかしくない。どうせ出るなら、今まで看取った患者に会えたらいい、と、ひそかにため息をついたその瞬間、前方に柔らかな光が灯った。廊下の真ん中に明かりなど、あるはずがない。思わず立ち尽くした神宮寺の前で、光は姿を変えてゆく。

最初に現れたのは、少女の頭。風もないのになびく髪を、大きなリボンが飾っていた。水色のワンピース、くびれた腰、そして、細い脚。
睫毛をぱちりと瞬かせ、少女はリノリウムの床に降り立った。こつん、と微かに響いた音が、神宮寺を現実に引き戻す。

「ねえ、おにいちゃん」

いとけない声だ。仕事柄、元気な子供の声など久しく聞いていない。泣き声でもなく、怯えたような声でもなく、どこか楽しそうな声でうたう少女は、もう一度口を開いた。

「アリスと遊ばない?」
「君も、鏡を見つめるのかな」
「ここ、すごいわ!! まるで白亜のお城ね!」

神宮寺の問いかけには答えることなく、彼女は暗い廊下をぐるりと見回し跳ねた。ワンピースの裾がふわりくるりと彼女の動きに合わせて踊った。神宮寺は戸惑う。時刻は深夜二時。少女が起きていていいような時間ではない。まさか人間が光から現れるなんて非現実的なことがそうそうあるいはずもなく、神宮寺は、自分も随分と疲れていることを自覚した。どこかの病室に入院している患者の孫か娘か…一時的なせん妄か…場合によっては彼女の家族に電話でもいれなければ、と彼は居住まいを正す。

「ここは病院、城じゃない」
「ところで、おにいちゃんは今日が何の日か知ってる?」
「人の話は聞くものだよ。…5月23日」
「ふふ」

少女はあくまでマイペースに、神宮寺を見上げた。

「教えてあげるから少しかがんで?」

聞こえなかったふりをして抱き上げてやろうか。
一瞬だけ、そんな風に思ったけれど、大人げない真似をするのもいただけない。神宮寺はおとなしく右足を引いて片膝をついた。

「それで−−−」

神宮寺の左頬に、柔らかなものが触れた。冷え切った、唇。
思わず目を瞠る神宮寺の前で、彼女は屈託ない笑顔を見せた。

「正解は"キスの日"でした!」

そのままくるりと背を向けた彼女の手を軽く引く。

「なあに、おにいちゃん。びっくりした?」
「そうだね。驚いた。」

手の甲に唇を掠らせる。彼女の表情を見て、彼もまた僅かに頬を緩めた。

「気を付けて帰れよ」

夜闇に彼女が溶けてしまえば、廊下は元の、不穏な空気を纏う道でしかなかった。彼は、何事もなかったかのように、シャワールームへと歩を進めた。

その夜。
神宮寺は医師になって初めて、当直室で眠りに落ちた。


←/→


← top



「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -