novel


▼ 唯向き合うのみ

救急隊からのコールが鳴った。少し低めの、十分に危機感を煽る音。午前8時、まだ働き始めたばかりの日勤帯と昨日の朝から働き続けていた当直帯が入り乱れる時間にコールを取ったのは、既に救急外来に降りてきていた海東隊長だった。この救急車は日勤帯へ引き継ぐ、という無言の圧力に、当直帯の皆が安堵し、日勤帯はほのかな緊張感に包まれた。今日の当直帯を守り通していたのは、僕の同期、まゆき。真白い肌が夜を越えてくすみ、目の下には青白いクマが浮かんでいた。命の番人を勤め抜いた代償に、彼女は亡霊のように青ざめていたけれど、それでも彼女は美しかった。…いや。だからこそ、美しいのかもしれない。青色の手袋を外しながら、おはよう、と口を開いたとたん欠伸を漏らす彼女は、綺麗だった。おつかれさま、と彼女の肩をたたいた瞬間、救急隊と何かを話していた隊長が、受話器を耳にあてたまま、僕たちの方を向いた。正確には、僕の方を向いた。僕の、方を。海東隊長の茶色い瞳が、僕を呼んでいる。"私"は、困惑したようにたたずんでいた。然し、海東隊長の声が、患者の情報を告げた瞬間、僕は問答無用で前に出た。どろりと歪む思考の中に、彼女が混ざり、溶けてゆく。

「自動車事故ではねられた7歳女児、CPA疑い」

水を打ったように静まり返る現場。その雰囲気に迎合する間もなく、彼は私を一瞬で背後まで引きずり戻し、この身体の権限を全て奪っていった。まとめていた髪がふわりと広がり、首筋をくすぐる。ぐー、ぱー、と手を握って離して、力が入ることをしっかりと確認して、それからAEDの点検を始めていた。私は動くこともできなかったのに、いともたやすく息をして、Мサイズの手袋に手を伸ばしていた。私の手には少し大きい手袋を、彼はいつでも選び続ける。それは、海東隊長以外の全ての仲間たちに、私の身体が今、誰のものであるかを示すためのポーズであるようだった、そんな私の姿を見て、隊長は頷いたけれど、その表情は固い。まゆきをはじめとした当直帯が去ったこの部屋で、私は喉を鳴らした。第2報はまだ来ない。口を開こうとした彼よりも先に、海東隊長が口を開いた。

「もし自分の子供が高齢者ドライバーにはねられたら…許せる自信がない」

ぽつりとつぶやかれた言葉に同意を示したのは、その場にいた全てだった。彼も私も同意していた。もし、自分の恋人が奪われたなら、理性など到底保てやしないだろう。彼の手は止まらない。骨髄針を取り出し、ドリルの確認までしていた。二酸化炭素を計るモニターを探し出し、採血も画像も何もかものオーダーを確認し、救急車の音に耳を研ぎ澄ませていた。私にはできなくても僕にはできる、と言わんばかりの仕草だった。悔しいけれど、その通りだ。どれほど追い詰められたとしても、私には骨髄針をうつ勇気がない。それが小さな子供相手ならば猶更のこと。…けれど、それは彼の存在に甘えているからだ、という自覚もある。万が一、彼がつぶれてしまったなら、できないとは言わない。言えない。ドリルの音を打ち消すように、2報目を告げるホットラインが鳴り響いた。彼がホットラインに飛びつこうとした彼を、海東隊長がすんでのところで止めた。彼が聞いたものは私の耳にも入る。身体が同一である限り、私と彼とは切り離せない。そのことを一番よく理解しているのは、私でも彼でもなく、海東隊長だ。海東隊長に止められた彼は、ごめん、とこっそりつぶやいた。聞こえちゃうよ、と笑った私の声は、心の中に溶けるだけ。外側と隔絶された、この場所に。そんな私たちの戯れも、海東隊長が壁を拳で打ち抜いた轢音に震えて止まる。
海東隊長の唇の先からつうと垂れたのは、まぎれもない血液だった。それを拭くことも許さない気迫。双眸は煌々と燃えていた。

「認知症のドライバーが、7歳女児を跳ねたらしい。女児はCPA。当院搬送だが、絶命している様子。認知症ドライバーは特に何もないが、交通事故なので搬送。10分後に到着」
「小児外科に一報入れておきましょう」

水を打ったように静まりかえる救急外来。彼が、口を開いた。言ってはいけないと思うのに、止まらない。私よりも低い声が、小さく響く。

「海東隊長。僕らが助けるのは、ドライバーですか」

く、と私の喉が鳴った。女児を殺したドライバーを助けなければならないなんて、と悲鳴を上げる彼の心が伝わってくる。それは私も同じだったけれど、私たちは悲しいほどに医師だった。たとえ人を殺した人間であろうと、応需したら救いぬく。それが私たちの仕事だから。医師に課された絶対命令、「応召義務」。シリアルキラーであろうとも、呼ばれたら駆けつける。その人が、私たちの救いを必要としている限りは、必ず。

「はるき、こはるに代わんな」

先ほどは僕が守る心算でいたけれど、こんな展開では僕は寧ろ守られる側だった。いっそ冷徹なまでに冷静でいられる彼女の方が、ずっと対応に向いている。髪を丁寧にまとめて身なりを整え、手袋をXSサイズに変えて二枚重ねにし、口元を引き結んで救急車を待つ僕を見つめる海東隊長は、何も言わない。どれほど憎くても、救うのは僕たちの仕事で、そこに己の意思を挟んではいけない。
ドライバー、交通事故、起こりうる事故。彼女が頭の中で繰り返す。全てのしがらみを凍り付かせて、目の前の命のことだけを考えて。かすかに響くサイレンの音に跳ね上がり、彼女は駆ける。救急車を迎え入れるために扉を開き、背筋を伸ばしてまっすぐ立ち、やがて姿をあらわした救急車に完璧な礼を見せた。
救急車内の隊員が、先ほどまでの隊長同様唇を噛みしめていたのを、無理やり思考の外に跳ねのけて、彼女は前を向いた。

そして、ぽかんと口を開いた。

「……え」
「お世話になりますねえ、ありがとうねえ、ここはどこ?」
「おばあちゃん、危ないから気を付けて降りて」
「え、あの、」
「この方が、ドライバーです。患者です。お願いします」

救急隊員の手を借り、自分の足で降りてきた患者は、何も知らないかのように、にこにこと笑っていたのだった。
雷に打たれたように固まった彼女の体を動かしてやろうと思った瞬間、海東隊長が声を出した。

「こはる、早く中入れて。つったってる時間がもったいない」

声も出ない様子で、どうにかうんうん、と、頷き、彼女は老人を救急外来の中に招き入れた。四肢の動きに問題なく、現時点で痛みの訴えもない。

「シートベルトは?」
「つけていなかったようなんです」

シートベルト外傷の可能性も低い、と思う僕をよそに、彼女は頭の先から足の先まで詳細に診察を始めた。

「どうしてこちらにいらしたのかわかりますか?」
「ううん、どうしてかしらねえ。運転してちょっと遊びに行こうと思ってね」
「何処に行こうとしていたんですか?」
「何処かしらね、ううん、なんとなくねえ、」
「此処がどこだかわかりますか?」
「最近ね、うふふ、なんだか楽しいわねえ」
「今日は何月何日ですか」
「さあねえ、いやね、わからないわ」
「私の職業は何かわかりますか?」
「かんごしさんでしょう?あのね、一か月くらい前からなんだか足が痛くてねえ」

明らかな認知症である。患者の足は、やや浮腫んでいた。もしかしたら何か病気があるのかもしれないが、それをこの患者から聞き取るのは非常に難しいことだろう。そうこうしているうちに、もうひとつの救急車の音がした。本来ならばいち早く運ばれなければならないはずの救急車が遅れて到着するというのは、どうにも嫌な予感しかしなかった。言外に、最早救命不可能であるという事実を突き付けられているようだった。けれど、彼女は、女児を運ぶことよりドライバーを運ぶことを優先させたことに対して、何の怒りも感じていなかった。感じないようにしているのか、本当に感じていないのかは、僕にも察することができない。ただ、てきぱきとオーダーを組み立ててゆく彼女は、ひたすらに機械的だった。サイレンの音が近づいてくる。そろそろ僕の出番だ、と思うけれど、彼女の意識はそれを拒むように、僕を拒絶する。恐らくは、何も感じられない状態であれば自分が女児を救えるとでも思っているのだろう。現実はそんなに甘くない。にこにこと笑う"加害者"、運ばれてくる"被害者"。早く変わらないと、また、同じことが起こってしまう。はるか、早く僕と代わって。今度は副隊長の霧山先生が、彼女の手をつかんで止めた。ようやく彼女の意識を掴んだ、その瞬間を逃さない。

「はるき、行って来い」

耳を打った声と同時に、体の主導権を奪われる。まだ身体診察は終わっていないのに。…でも、それが逃避であることは、私自身よくわかっていた。だんだんと暗闇に飲まれていく。よほど私には見せられないような光景が広がっているのだろう。救急車の後ろ扉が開く音は、存外静かだった。てっきりすすり泣くような、或いは叫ぶような悲鳴が聞こえてくると思っていたのに、聞こえるのは、AEDの音、それと胸骨圧迫の音だけ。時折めき、みし、と骨の軋む音が聞こえるところに、なんとしても病院に命を繋ごう、という救急隊の強い意志が垣間見える。恐らくは少女の頬だろう、柔らかな感触を掌に感じる。恐ろしいほどに冷たかった。

「波形、PEA。胸骨圧迫を続けます。輸液は全開で。アドレナリン投与。ベッドに移してください」

べちゃべちゃ、と音がする。彼の靴音だった。服に滲む、べったりとした冷たさは、濃厚な鉄の匂いを引きつれている。それだけで、何も見えなくても、酷い出血であることがわかった。

「活動性出血あり。圧迫止血を続けてください」

彼が少女の胸を押すたびに、彼の頬にぴしゃん、ぴしゃんと水が跳ねる。どこから飛んできているのか、もう考えたくもなかった。
突如、廊下の方から女性の悲鳴が上がった。嗚咽に混ざる、泣き叫ぶような声だった。

「助けて、たすけて、おねがいします、おねがい、おねがいだから、」

隣に立っている救急隊員が、喉元で息を詰まらせた。朝、元気に学校へと通学していったはずの娘が、数十分で命を失くしかけているなんて、誰が信じられるだろう。愛しい子供を喪う母親の悲叫を、誰が止められるだろうか。彼女の悲鳴を追うように、すみません、すみません、と野太い声が泣いていた。ドライバーの家族だろうか。二人分の泣き声が大きくなる。かたや加害者の家族、かたや被害者の家族。そう定義づけるのは簡単な話だったが、ドライバーの家族が加害者であると、盲目的に判断するのはあまりにも無謀だ。鍵を隠しても、免許を返納させても、何らかの理由で車を運転し続ける高齢者は一定数存在している。徘徊を止める困難さは熾烈を極め、介護施設で手厚く介護されていても、一瞬の隙をついて脱走されることもある。やむなく自宅に鍵をつけ、半ば閉じ込めるような形で保護することは、時に罰せられる対象とされ、鍵をつけなければ夜中に車道へと飛び出し交通事故へと発展する事態に陥ることがある。はねられた高齢者が被害者か、突然目の前に飛び出されたドライバーが被害者か。ただ、今あどけない命が失われようとしていることだけは、まぎれもない事実だった。

「たすけてえ、私の、私のいのちあげるから、たすけて、アヤをたすけてえ」
「ねえ、足が痛い。あしがいたーい。何してるの!警察を呼ぶよ!」

隣のベッドで怒声を上げたドライバーにかける言葉を、誰も持ち合わせていない。
無情にも、少女の心電図は、真っすぐな基線を描いていた。



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