虹色奇譚

迷い子になった小さな少女と、手を繋いで野山を駆け抜けた。

野山の麓から登る虹。

そこへ向かえば、少女を家へ帰せるのだと信じて疑わなかったんだ。


そして今。
あの小さかった少女の頬に、君の横顔を重ねる。


変わらぬ面影。


きっと君は覚えていないだろう。


あの虹を追いかけて、小さな僕と小さな君が手を取りあって走り抜けたあの日の一瞬を―…。




虹色奇譚




ちひろさんを伴って向かった長州藩邸からの帰り道。

突然、土砂降りの雨に降られて商家の軒先へと身を隠した二人の頭上には…雲一つない晴天が広がっていた。

数刻前の厚く立ちこめた雨雲が嘘のように引いて、雨の滴がぽつりぽつりと軒先から滴っていく。

「通り雨だったのでしょうか?」

僕の隣で、軒先からの雨滴を掌で受け止めているちひろさんが呟いた。

「狐の嫁入りだったのかもね」

僕が答えると君は頷いて。

ふいに視線を足元へ落としたかと思えば、少しだけ頬を赤らめた横顔が微笑んだ。

「でも、早く止んで良かったです…武市さんから戴いたこの着物、汚れずに済んだから」

「……ああ」

「…はい」

「……そう、か」

「ふふ、…はい」


頬が、熱い。


ちひろさんは僕を喜ばせる術を知っている。

その無意識の可愛らしさは、いっそ罪と云えよう。

僕は嬉しさを隠そうともせず隣の細い肩を引き寄せた。

ますます赤くなるちひろさんの頬に唇を寄せて、甘い薫を醸すそこへと口づける。


幸せな時間だった。


「あ、武市さんっ、見て下さい」

いまだ頬に熱を留めたちひろさんが、あっと声を上げる。

「どうかした?」

彼女の指が天を指し視線を向けた先、広がる青空の向こう側には―…。

京の空を彩る一本の架け橋。


「…虹だね」

形が崩れることなく美しい半円を描く虹を見たのは、記憶も朧な程昔に…たった一度だけ。

「真っ青な空に虹…、綺麗ですね」

そう笑ったちひろさんの横顔こそ、曇りひとつない晴天そのままで。

「……もう少しだけ、このままで良いかい?」

長州藩邸から雨を凌いで、早数刻―…。

雨が上がればすぐに帰途へ着く予定だったが、空の架け橋を見てしまったら。


あと少しだけ。
束の間の二人きりの逢引を楽しみたいなどと思ってしまった。


…それにもう一つ理由がある。


ちひろさんの方を伺う。

僕の提案に少し驚いたように見返され。

すぐに笑顔で頷いてくれた。


その笑顔は「あの日」のままで。


まだ幼い君とはじめて虹を見たあの一瞬を、僕は想い出していた。


想い出の中の二人に、ゆっくりと目を細める。

あれは…そう。


僕がまだ幼少の頃の

不思議な出来事。




□□□□□□□□□□□




「剣を振るいに出てきます」

寄宿していた勝賀瀬家から久しぶりに自宅へ戻った僕は、懐かしい吹井村を堪能したくて。

剣を振るうと言えば気軽に外出もできるだろうと、母に告げた。

「半平太、雨でぬかるんでるのだからあまり遠くにはいきなさんな」

「わかってます」

母の声を背中に聞きながら外に飛び出せば、目の前に広がる緑と山々と青い空気を鼻から思い切り吸い込んだ。


「さあどこへ行こう」


わくわくと胸が高鳴りを覚え、その衝動のままひたすらに野原を駆け抜けた。

先程まで降っていた雨で足元は泥水を跳ね上げていたが、そんな事は関係なかった。

ただ、夢中で駆けた。

この時の僕は、自身を纏う様々な思惑から逃げ出したかったのかもしれない。

齢10にして、僕は物分かりの良すぎる子供だったから。



…ママー、ママ…っ


「ん…、なに?声?」

駆けていた足を止め、耳に届いた人の声がどこから聞こえてくるのだろうかと辺りを見回す。

「マ…ママ、どこっ、どこお」

「っ!!」

きょろきょろと見回していた僕の背後から、今度ははっきりと声が聞こえて慌てて振り返ると。

「……女の子?」

見た事のない着物を纏った女の子が僕のすぐ後ろで泣いていた。




「もぐもぐ!もぐもぐ!」

「……おいしい?」

泣いていた女の子はちひろという名前らしい。

野原に半分埋もれた石の上へ二人で腰かけて、僕の持っていた握り飯を美味しそうに頬ばっている。

「おいしい!ありがとー」

「そっか、良かった」

柔らかそうなほっぺたに飯粒をくっつけて笑う顔に、もう涙はなかった。

どこから来たのか。
親はどこにいるのか。

「わからない」と泣いた女の子から聞き出せたのは、ちひろという名前と齢4つだという事。

不可思議だけど綺麗な着物を纏っている女の子を質問攻めにして、これ以上泣かせたくなくて。

僕は勝手に、ちひろを天の使いだと思う事にした。


「ママとおつかいしてたらね、ちひろね、虹をみつけてね、追いかけたらね、ママがいなくなっちゃったの」

「そうだったんだね。迷子になってしまったんだ」

握り飯で大分落ち着いたらしい。

ちひろは僕を見上げて、迷子になった経緯を教えてくれた。

「でも、ここから虹って見えてたかな?」

野原を走り回っていた僕は、空に虹がかかっていた記憶がなくて首を傾げる。

「…あ!あれだよ、はんぺん君っ」

「え?」

ちひろが突然大声を上げて空を指す。

「…虹だ」

「うん!はんぺん君、にじ見つかったね」

さっきまで真っ青の空だけがただ広がっていたのに。

そこには大きな半円を描く虹が架かっていた。

「…不思議だな」

ちひろの存在も、虹の存在も。


まるで夢を見ているようだった。


「ね、はんぺん君。あの虹の向こうに行ったら、ママの所へ帰れるかなぁ」

「……うん」

僕の裾をきゅっと握ったちひろは、明るい声とは裏腹に不安に揺らぐ瞳で僕を見つめていた。

「…大丈夫、僕が一緒に行ってあげるから」

握られた手の上に僕の掌を重ねると、ちひろは安心したように満面の笑みを向けてくる。

「だから、ちひろ?」

「なあに?」

「…はんぺん、じゃなくて半平太って呼んでくれないかな」

「え?…はんぺんじゃないの?」

「………」




*




僕たちはあの虹を目指して走った。

走って、走って、走って。

足元が泥だらけになるのも構わずに走って。


繋がれた小さな掌が、僕の心を強く大きく揺さぶっていた。


「きっともうすぐだからねっ」

「うん!」


僕はこの時、ひとつの使命感に突き動かされていたんだ。


武市家の長男だからと親元を離れて生活するのに納得したふりをして…本当は寂しくて溜まらなかったのに。

父と母と弟妹と共に生活したいと、言い出せなかった。

僕の背にかかる期待に応えなければと、それだけを糧にして。

言いたい事を言えない子供になってしまっていた。


でも、今僕は自分の意思でちひろの手を握り走っている。


誰に背を押されるわけでも、手を引かれるわけでもない。

僕が彼女の手を引いて、僕が彼女を導いているんだ。


「…あ…、虹が…!」

「消えちゃう…っ」


けれども、空に架かる橋の元へ行く前に…半円の虹は青空に溶けるように姿を消してしまった。


息を弾ませたちひろを座らせて、腰に付けていた竹水筒を彼女へ渡した。

「水だよ」

「ありがとう」

泣いてしまうのかと思っていたちひろは、にっこり笑って僕の手から竹水筒を受け取る。

「ちひろ…ごめんね、僕…」

「なんで?はんぺん君は悪くないよ。ちひろは悲しくないよっ」

こくんと水を飲んだちひろは、頬を紅潮させながら笑いかけてくれた。

「…どうして?」

「だってはんぺん君、一緒にいっぱい走ってくれたから。だから、悲しくないの。うれしいの」

「ちひろは、強いね」

「うん、ちひろ強いよー。剣道でもほかの子に負けないもん」

「…ちひろも剣をやるの?」

「うんっ」

「…そうなんだ」

小さな少女だと思っていたちひろは、僕よりもうんと強くて。

なんだかその笑顔が…眩しかった。


「ちょっと眠くなっちゃった…」

「少しだけ眠る?起きたら僕の家へ行こう」

うとうと瞼をこするちひろに肩を貸して、僕は彼女の顔を覗き込んだ。

「…う、ん」

今にも眠りに落ちそうなちひろの返事を聞きながら、僕はこの後の事を必死で考えた。


まずは父と母にちひろが迷子になった経緯を話して、しばらく家に泊めてあげて、一緒に親を探してあげて。

僕が勝賀瀬家へ戻る間は、ちひろと毎日一緒に居るんだ。

ちひろの側に居てあげるんだ。


ふと、肩の重みが消えた。


「ちひろ?」

起きたのかと顔を横に向けると、瞳に飛び込んできたのは抜けるような青が茜色に変わっていた空だけで。

「ちひろ?」

名を呼んでも。

「ちひろ……」

はんぺん君って…呼んでくれた少女の姿はどこにもなかった。


「…半平太だって、ちゃんと覚えないまま帰っちゃったのかな」


『はんぺん君!』


「…また、会える?」


『うん、ちひろ強いよー』


「僕が今より強くなったら…また、君に逢えるのかな」


虹が消えた空の果て、その向こうに帰った不可思議な…不可思議で可愛い女の子に向かって、僕は笑った。


「なら、僕は僕の意思でこれからやるべき事をするから」


その時には、また逢いたい。


ちひろに、逢いたい。



半平太、10歳。
ちひろ、4歳。


これは僕の、虹色の秘密。




□□□□□□□□□□□




「なんだか虹を見ていると、不思議な夢を思い出しちゃって」

ちひろは空に視線を向けたまま、ぽつりと零した。

「…夢?」

「はい。ぼんやりとしか覚えてないんですけど…とっても優しい夢だっていうのは、覚えていて」

「そうか…」

僕も、商家の軒下から虹を見上げる。

「…虹を見ると想い出す事が、僕にもあるんだよ」

「そうなんですか?」

「うん、いつか…君に話したい」

「なんだろう?楽しみです」

微笑みながら僕の肩に頭を寄せるちひろさんの頭を…そっと撫でた。



「ちひろさん。この虹が消えるまで」

「…はい」

「もう少しだけ…」

二人だけの時間を…。


僕は隣の薄い肩をさらに引き寄せる。

それに気付いたちひろさんは、遠慮がちに僕の裾を掴んで頤を上げた。

「……半平太さん」

「ちひろ、」

彼女の顔に僕の影が落ちるのを見つめて、僕たちは瞳を閉じて距離を詰めた。



あの日。

幼い僕が出逢った君は、強くなる勇気を僕にくれた。


そして京で再び出逢った日。

君は僕を覚えていなかったけれど、僕は少しずつ想い出した。

君が、あの少女だったんだって。


そしてやはり君は、僕に喜びを教えてくれた。


愛を、教えてくれたね。



いつか君に伝えたい。

虹色が起こした奇跡は、夢ではなかったんだって。


そして君に尋ねたい。

小さかったはんぺん君は、立派に強い男になれたのかなって。



想い出はいつまでも
虹と同じく輝いていて。




これは僕の、虹色の秘密。

君と、僕の、虹色の秘密。







-虹色奇譚・終-


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