紫紺に融ける夜

まったく…なぜ私がこのような輩と、こんないかがわしい場所で話し合いを持たねばならんのだ。

外は遊廓の夜見世が始まり、客引きをする声がここそこで上がり、それが私の耳に不快な響きを残す。

提灯でもなければ、互いの顔も見えにくくなる時分だというのに、どんな思いで男は廓の女を買うのだろうか。
私には、知ってはいても到底理解しがたい、いや理解したくもない世界だ。

女の袖を掴んで辻へ入れば辻斬りに襲われ、粧してひとり歩けば追い剥ぎに遭う…、一方で、紫紺に融けるような妖しい遊女の色香と眼差しが、行き交う男どもを引き留め、ひとり、またひとりと女郎蜘蛛の巣に絡め捕られるかのように、廓の中へと消えてゆく。

男の欲と女の欲が、いやらしいほどにどろどろと渦巻き、美しくも物騒な幻惑の花街の一角、とある料理茶屋で、私と、目の前にいる三人は、話し合いの場を設けていた。


しかし、いくら小松殿の頼みとは言え、私は来てしまったことを早くも後悔していた。
たまたま在京していた我が身を呪う。

まったく、こんな本能の匂いが漂う場所で、一体どんな建設的な話ができるというのだ。

私は、すでに酒が回っているような三人を一瞥する。
この様子ではおそらく、こいつらは話し合いなどろくにもせず、これから訪れる、ここへ呼んだ遊女のほうが目当てなのだろう。

それとも、このような場所に出入りする私を、攘夷派の要人にでも目撃させ、醜聞でも流そうというのか。

考えれば考えるほど、はらわたが煮えくり返る。

相手に悟られぬよう拳を握り、悔しさをそっと露わにする。

そしてすぐにでも別室に控える半次郎を呼び、こいつらを全員手打ちにしたい衝動に駆られる。


だが


「危ないことはしないでくださいね」


…ちひろの、私の身を案ずる表情と、か細い声を耳に思い出し、それだけが、口惜しいが心を静めてくれる。


私は作り笑いをして、下品な輩どもを相手にしていた。
身分だけは立派なくせに、このような下品な者もいるものかと思うほどだ。


まったく…
私は心でため息をつく。

小松殿…いくら思慮深い方とは言え、このような者にまで陳情させようともせずとよいものを。
もしや、私をお試しになっているのか?

…私はちひろのことを思い出すことで、かろうじて、この無駄で下劣な話し合いに応じることができていた。
一刻も早く、この場から逃れられることを望んで。



*



「あの、大久保さんは?」


この時代へタイムスリップしてきてしまった私はいま、薩摩藩邸にお世話になっている。

…薩摩藩の偉い人らしい大久保さんは、寺田屋がどれだけ危ないか、長州藩邸がどれだけ私にとって不都合か、そして薩摩藩邸がどれだけ安全かを龍馬さんや高杉さんの前で言い放ち、説き伏せ、誰もが反論できないと分かると、意気揚々として私を薩摩藩邸に連れてきた。


私は最初、嫌だった。


だって龍馬さんは面白いし、慎ちゃんとは楽しく話せるし、高杉さんはちょっと強引だけど、桂さんがうまくとりなしてくれるし、優しそうだったから。

だから私は、寺田屋か長州藩邸か、どっちにお世話になろうかなって迷ってて、意地悪で、私のことを小娘扱いばかりする大久保さんのところでは絶対に世話にならない!って思ってたのに。

でも

私の身の振り方を語る大久保さんの言葉に、武市さんや以蔵が全然反論出来ないでいるのを見て、嫌な予感は的中。


私はそのまま大久保さんに連れられて、連れて行かれるその道すがら嫌味を言われ…不安な気持ちで薩摩藩邸に来てしまった。


悪いようにはしない、って言ってたくせに、いつの間にか私は、藩邸にいる女中さんたちと同じように働かされていて…


最初は
「話が違うーっ!」
って、大久保さんにぶうぶう文句を言っていたのだけど

「ちひろさんが寂しい思いをしないで済むように、ああみえて気を使ってくださってるのだと思いますよ」
私にお仕事を教えてくれている女中さんが笑ってそう教えてくれた。


「えーっ、あれでですか?」
「ええ、以前はあの方、私たちのような下働きの者に滅多に声をかけてくださったりしませんでしたもの」
「そうなんですか?」
「それが」

女中さんは笑いながら
「ちひろさんがいらしてから、ちょくちょく炊事場や洗濯場に来ては、私たちに声をかけてくださるようになりましてね」

なんかとても嬉しそうに話してる。

「小娘はちゃんと働いてるか、役に立ってるか…って」
「ほらやっぱり!ただ監視してるだけじゃないですか?タダ飯は食わせんぞ!て言ってたし」
「いいえ、ちひろさんが塞ぎ込んでいないか気になさってるんですよ」
「そうかなぁ…」

女中さんは、私が来たことで大久保さんの態度が変わったという。

私には、出会った当初のまんま、意地悪で嫌味な性格は変わってないと思うんだけどな…。


でも

大久保さんの嫌味に付き合っているうちに

いつの間にか、私は未来へ帰りたいとか、寂しいとか思わなくなっていたのも事実だった。


女中さんたちと同じで、ただの嫌味な意地悪好きな人だと思っていたのに、ほんとは優しい人なんだって思い始めるようになってた。

嫌味を言いながらも、気が付けばそばにいて見守っててくれてる大久保さん。

誰よりも私を見てくれていて…誰よりも私を馬鹿にしたような言い方をするけど、それが間違っていたことはない。

だから、いつしか私は大久保さんのことを…

だから、今は大久保さんと一緒にいたい。
大久保さんと一緒にいられなくなるほうが…今は辛い。


だから、いつもと違って、大久保さんが行先も告げずに半次郎さんを伴って出掛けてしまったことが、私はとてもショックだった。


いつもなら、どこへ出掛けてくる、とか、ときどき一緒に連れてってくれたりとか…私を心配させないようにしてくれていたのに。


大久保、さん…
どこへ行ったんだろう…


朱から藍に変わりゆく夕焼けの空を見つめながら、私は大久保さんが頭から離れずにいた。



*



「半次郎!」

私はたまらず廊下へ出て、別室に控える半次郎の名を呼んだ。

座敷には、近くの廓から呼んだ遊女が濃い白粉の匂いをさせて、あいつらとともに悪ふざけをしている。

…ただただ、嫌悪感しか感じぬ。

質の悪い酒と、私にしなだれかかる遊女の白粉の噎せ返る匂いにいい加減嫌気が差し、辛抱できずに私は廊下へ出ていた。

あの女どもは、身を寄せ、猫なで声で甘ったれた顔さえすれば、男がなびくとでも思っているのだろうか。

まったく、忌々しい…


「大久保さぁ帰りもすか?」
すぐさま、別室に控えていた半次郎が部屋から出てくる。

「…まだだ。戻れるのは…夜五つ半にはなるだろうと藩邸へ伝えろ」
「分かいもした」
「それから半次郎」
「へぇ」
私は、待ちくたびれて欠伸をしそうな半次郎を睨んで言う。

「ちひろには伝えるな」
「いけんしてですか?」
「どこへ行くかも伝えずに出てきたのだ。こんな花街にいると知れば、あの向う見ずな小娘のことだ。お前を脅してここへ来かねん」
「分かいもした…」
「余計なことは言うな。聞かれたら『心配するな』と言っていた、とだけ伝えろ」
「へぇ分かいもした大久保さぁ…」



半次郎はそう言うと、私に一礼して、眠そうに料理茶屋を出て行った。


本当に分かっているのかあいつは…。


半次郎は調子が良く飄々としているところがあり、私は何度、奴を叱り飛ばしたか分からぬ。
だがそれでも剣の腕は確かであるし、護衛として、私はそれなりに奴を信用している。

少なくとも、いま奥の部屋にいる無粋な三人よりは、よほどまともだ。



私は、部屋の前で自問自答していた。

なぜ、出先をちひろに伝えなかったのだ。

何も、邪な気持ちがあって花街へ行くのではない、先方の希望だからだ、と伝えれば良いだけではないか。
さもなくばただ普通に「会合だ」とだけ伝えれば良かったのではないか。


そこに…


「そろそろ上へあがりましょか」
「まあ、旦那さん気がお早いこと」

障子の向こうから下品な男と女の声が聞こえてきて、私の耳に纏わり付き、私の神経を逆撫でする。

…虫唾が走る。


ここは料理茶屋と出合茶屋を兼ねている宿屋でもある。
男女の媾いが、薄い襖を隔てた部屋の向こうで、階上で、遠慮なしに営まれるところだ。

なぜこのような場所を先方は所望したのか、まったく理解に苦しむ。
この大久保を、薩摩藩を軽侮するとは、なかなか良い度胸ではないか。


しかしなぜ、私はちひろに内密にしたのだろう。

…ちひろを穢したくないか、私は。
それともちひろには、私の穢らわしき一面を見せたくなかったか。

何も言わなかったことで、あの鈍感な小娘が、余計な気を回していなければ良いのだが。



そこまで考えて、私は苦笑する。
…まったく、あんな小娘に踊らされるとは、私もいったいどうしたものか。

こうやって軽口を叩き、いつまで私は…自分の本心を隠し通そうと言うのだろうか…。

私はふっと外を見やる。

すでに日は暮れ、街を出歩く男女の姿もまばらになりつつある。

藍に融け始める花街。

藍が漆黒に変わるころ、私はお前の元に帰れるのだろうか、ちひろ。



私はちひろに敷かせた布団で一刻も早く眠りたいと考えながら、止まりそうになる足を何とか前へと運び、ため息とも深呼吸ともつかない息を天井に向かって吐き、にわかに色めき、騒がしくなってきた部屋へと戻って行った。



*



私は、大久保さんのお部屋で、私の「女中」のお仕事である、大久保さんのお布団を敷いていた。
大久保さんが今夜、帰ってくるのかどうかも知らないのに。

まるで、お布団を敷いておけば帰ってきてくれるんじゃないかって、おまじないをしているかのように。


私は、大久保さんの大きくて重たいお布団を毎日上げ下げするのが一番大変で、一番嫌いだった。

ちゃんと敷かないと、すぐ嫌味を言うし、今日こそちゃんとできた!って思っても

「それがいつも出来んようでは嫁の貰い手がないぞ」

って…心にちくっとするようなことを言うし。


でも


今日は大久保さんがいない寂しさで、そのお布団の重たさが妙に愛しくなってしまう。

今日は、どう敷いても嫌味を言われないいつもと違う部屋の空気が、私の心を寂しくする。

だから…いつもならそんなことはしないのに、私は掛布団をぎゅっと抱き締めて、まるで大久保さんの胸にすがり付くようにお布団に顔を埋める。

大久保さんが好んで使う、サンダルウッドの匂い…

私はその匂いに、すぐそばに大久保さんがいるような気になって、どんどん寂しさが増してきてしまう。


大久保さんは夕ご飯にも戻ってこなかった。もう外は真っ暗なのに。
半次郎さんが一緒だから危険なことはないと分かっていても、心配でたまらない。

だって、どんなに急に出掛けることになっても、必ず私の部屋へ顔を出して

「私がいないからと言って、小娘のように、めそめそ泣いているのではないぞ」

って言って…

私のことを確認してから出掛けて行っていたのに。



もしかしたら、ほんとに急ぎの用だったのかもしれないし、大久保さんのことだから、わざと意地悪しただけかもしれない。


そう考えようとするんだけど、だけど、でも…


私が大久保さんのお布団に顔を埋めて泣きそうになっていると、急に玄関のほうが騒がしくなった。


…もしかして!


私は急いで立ち上がり、ぱたぱたとお屋敷の入口へ走って行った。



「大久保さん?!」
「あ、ちひろさぁ…」
半次郎さんが、藩士の人と話しているところに、私は割り込んだ。

「お帰りなさい!大久保さん!あ…半次郎さん、だけ、ですか?」

私はお屋敷の入口をきょろきょろと見回す。

そこにいたのは半次郎さんだけだった。
藩士の人は私に軽く会釈をすると藩邸の中へと戻って行く。

そして私が、大久保さんがいないことに落胆していることが顔に出てたのか、半次郎さんはとってもすまなそうな顔をしていた。

「申し訳あいもはん…ちひろさぁ」
「ううん…あの、大久保さんは?」
「あん…」
「今日はどこへ行ってたんですか?どうして大久保さん黙って…」

私は気になって気になって、畳み掛けるように半次郎さんに聞いてしまう。
私の剣幕に、半次郎さんはたじたじとなって

「あん、心配すうなと大久保さぁが」
「心配?…そんな危ないところにいるんですか大久保さん?」
「あん、大久保さぁは花街に」


花街…っ?


大久保さんが
「お前みたいな色気のない女は花街ではさぞかし売れんだろうな」

って言ってた…その、花街?

「ほんとに…ほんとに大久保さん、花街に行ったんですか?」
私は信じたくない思いで、そして同時に大久保さんが言っていたことを思い出す。

『私は花街などには興味がない。そもそも、そんなところへ行かなければならぬほど、女子に不自由しておらぬからな』

って…得意げに言ってた、のに…。


「心配いいません!大久保さぁ、化粧濃い遊女にうんざいされてましたから」
「えっ…!」
私は思わず、半次郎さんの両腕をつかむ。


それって…それって、どういう、意味?
大久保さん、そこで、なに、してるの…?


私の脳裏に、大久保さんが綺麗な女の人と一緒に並んでお酒を飲んでいるシーンが浮かんできて、自分でもどうしてなのか分からないくらい、動揺してしまう。

私はどこかで、大久保さんは私のことを気にしてくれている、ほかの女の人になんて優しくしたりしない…って思い込んでたのかもしれない。


でも、そうじゃ、なかったってこと…?


大久保さんが花街にいるっていう事実が、私を混乱させる。
そして私は気づけば、半次郎さんに詰め寄り、こう言っていた。

「連れてってください。そこへ」
「やっせん!ちひろさぁみてぇよかおご連れて花街なんか行っけません」
「連れてって!」
私は叫んだ。


嘘だよね、大久保さん

大久保さんが…女の人を買うなんて

でも、だから、黙って行ったの?

行ってもし、大久保さんが、ほんとに女の人を買ってたら?

…私は別に、大久保さんの彼女でも何でもない…んだもんね


何しに来たって一瞥されるだけかもしれない
お前みたいな色気のない女は花街は似合わんなって笑われるだけかもしれない


でも…じっとしてられない

大久保さんに、今、会いたい…!


私は、私の心の中のように暗く沈んだ街の中を、半ば半次郎さんを脅すようにして、花街へと歩いて行った。
半次郎さんに、危ないと何度止められても。

行かずに、いられなかった。



*



「ちひろさぁ、こん部屋で待っててくいやんせ」
「半次郎さん…」

泣きそうな顔でおいの顔を見るちひろさん。

夜道は危険だからと、いつも以上に早足で歩いてきたせいか、息が上がっているちひろさん。
でも泣き言を一つも言わず、おいにしっかりついてきて、何とか無事に茶屋に着くことができた。

ただ、茶屋に近づくにつれて、ちひろさんの表情が曇り、悲しそうになっていく。
表情は見辛くても、その雰囲気がどんどん変わっていくのがこの暗がりでも分かった。


ちひろさんは、大久保様の想い人だ。


決して公言はされまいが、滅多に人を信じない大久保様が、ちひろさんのことはいともたやすく信じてしまっているのを見ても、大久保様がちひろさんを好きなのだと分かる。

いくら大久保様が隠し立てしても、いつも護衛として共に行動しているがゆえ、大久保様の気持ちくらい分かるつもりでいるんだけどな。

だから茶屋に着き、不安そうな顔を浮かべているちひろさんを見て、なんてけなげなんだろう!と思いつつも、大久保様の想い人に手を出すわけにはいかず、ちひろさんの肩に手を置いて慰めてやりたい衝動を抑え、ただただ、おいは気持ちをうろうろさせるだけで。


だから、そんな目でおいを見ないでください、ちひろさん。


おいは渋るちひろさんを、その縋るような目から逃れるように、おいが待機していた部屋で待たせて、酔狂が行われている部屋へと出向く。

そしてちひろさんを連れてきてしまったことを、大久保様にどう伝えたものか頭を抱えていると…





がらっ


「私はこれで失礼する」
もう私の言葉など耳に入らないであろう、残りの一組に挨拶し、私は酔狂が行われていた部屋から退出する。

他の二組はすでに上の部屋へと向かい、夜の秘め事をしているのかどうか…全く興味もないが。


半次郎が戻ってきた気配がしたので、私は半次郎を待たせていた部屋の方へと歩いてゆく。

「半次郎いるのか」

障子を開けようとしたそのとき、中から半次郎が出てくる。
「お、大久保さぁ」
「何をしている、藩邸へ戻るぞ」
「そいがそん…」
「ん?」

半次郎が珍しく言い渋る。


同時に後ろから、私を引き留めようと、私の相手をしていた遊女が部屋から追ってくる。

「大久保さん、もうお帰りどすか?まだ早いですわ」
遊女は足早に私を捕まえて私にしなだれかかり、私の胸元に、また手を滑り込ませてくる。

「ええ匂い…白檀でっしゃろ、これ?」


何度離れろ、と言ってもこいつは聞いていないのか、その強烈な白粉の匂いを私に擦り付けるかのように、身を寄せ、離れようとしない。

これだから頭の悪い女は始末に負えない。

「もう用は済んだ」
私の胸に差し込んだ遊女の手を取って振り払おうとしたそのとき

「おおくぼさん…」
「!!」

私は目を疑う。

なぜちひろがここにいるのだ。


とっさに半次郎の顔を見る。
…半次郎が慌てた顔をしているのを見れば大体推測できる。

一度言い出したら聞かないちひろのこと、仕方ないとは言え…

余計なことは言うなと言ったはずだが…半次郎っ!

私は舌打ちし、半次郎を睨みつける。

しかし今は半次郎を叱っている場合ではない。

「…帰れ」
私は遊女の手を振り払うと、ちひろの方に向き直る。

「小娘」
私はちひろのそばへ歩み寄ろうとする。

しかしちひろは、私が遊女へ言った言葉が自分に発せられたと勘違いしたようで

「ご、ごめん…なさ、い…っ」

ばたばたと茶屋の廊下を走り、駆け出していってしまう。

「ちひろ!」
「あ、ちひろさぁ!」


「離せ!」
私は遊女を引き剥がし、草履も履かず、茶屋を飛び出していくちひろを追いかける。

この私が…護衛もつけずに夜の花街に飛び出していくなど、自分で自分が信じがたい。
半次郎がいるのだ、奴に追わせればいいだけではないか。


しかし、今はそんな御託はどうでもいい。

ともかく、ちひろを…
こんな危険極まりない暗がりの中、いったいどこへ行こうというのだ。
男でも出歩くのに躊躇する夜更けの花街で、女一人でなど…

私をこれ以上、心配させるな、ちひろ

これ以上…私の心を掻き乱すな…っ!

苛立ちとも怒りともつかない感情を心に抱えながら、私は宿の者に灯りを借り、ちひろを追って、紫紺に融ける闇の花街へと出て行った。



*



ここ、どこだろう?

私は暗がりの中を、草履も履かずに闇雲に走ってきてしまった。
とにかく少しでも、ちょっとでも、あの場から離れたかったから。

綺麗な女の人と大久保さんがいたことは覚えてるけど…どうやってここまで来たんだろう、私。

そんなことをぼんやり考えながらとぼとぼと歩いていると


あっ!

ばたっ…

私は暗闇の中、何かに躓いて転んでしまった。

倒れる体を支えようとしたせいで、手のひらを擦りむいてしまった。

…でも、不思議と痛みは感じなかった。

擦りむいた手の痛みより、心のほうが痛かった。

大久保さん…!


暗くて、道の真ん中なのかも、家の前なのかも全く分からないのに、私はそこに座り込んで、小さくなって泣いた。


私…そんなに、ショックだったの、かな……

未来に、帰りたい…っ!


私は、初めて、そんなことを考えた。

もう、未来に帰って、普通に学校に通って、カナちゃんと一緒に剣道の稽古して…そんな未来に戻りたいっ!


どうして、こんなことになっちゃったんだろう

どうして、どうして…



「小娘、か?」
「っ!」
びっくりして振り向くと、そこには…

提灯を持って、私を探しに来てくれた大久保さんがいた。

「大久保さん…」
「戻るぞ」
大久保さんは私の肩を抱き、無理やり立たせようとする。

「嫌です!」
「話はあとで聞く。こんなところにいては危険だ」
「いやっ!」
「…死にたいのならここにいろ」
「!」
真剣な、怒りを抑えた大久保さんの声…

私は、提灯の小さな灯りに照らされた、綺麗な大久保さんの顔を見つめる。

ただただ、私を見つめ、引きずってでも連れて行く、凛とした意思を秘めた大久保さんの目を、見つめた。






「さ、来い」
私はちひろの肩を抱き、嫌がるちひろを無理やりにでも立たせる。

私は無言で懐からちひろの草履を取り出し、裸足のちひろに履かせてやる。

「私はお前の家来ではないぞ?」
そう冗談めかして言ったものの、ちひろの手を取り、どきりとする。

外気は、少し暑いくらいだというのに
ちひろの手は、山を流れる清水のように冷たい。

それほどまでに、お前を動揺させてしまったか、私は。

どうしたらお前を、安心させてやれるのだ、私は…。

たった一人の小娘に翻弄され、狼狽する自分を、心の奥で嘲笑う。



「大久保さん…」
私に引かれながら、ちひろが私を呼ぶ。

「話は後にしろ。今は茶屋へ戻ることが先決だ」
狼狽する自分をごまかしながら、私は有無を言わさずちひろを引っ張ってゆく。

それからずっと無言のまま、神経を張り巡らせながら、頼りないたった一つの灯りを頼りに、私はちひろの手を握り締め、途中何度もちひろの方を振り返り、歩みを早める。


途中、私を心配した半次郎と合流し、漆黒の闇を無言で歩く。

酔ったならず者に幾度となく絡まれそうになり、手を焼き、私はちひろを、無事に茶屋へ連れ帰る。

茶屋に連れ帰ることが無事と言えるかどうか分からんが…。

しかし、先程まで寸刻でもいたくないと思っていた茶屋が、今はひどく安息の場に思える。

ようやく落ち着き、ちひろの顔を見れば、泣いていたのだろうか、頬に幾筋もの涙の跡があるのに気づく。
その涙の原因は、おそらく私であろう…。


私は灯りを半次郎へ渡すと、ちひろを空いた部屋へ引き入れ、ともかく落ち着かせようとちひろを座らせ、向き合う。

しかし、落ち着くにつれ、私が心に抱いていた鬼胎と、苛立ちと、憤りが湧き上がり、そしてちひろを泣かせてしまった後ろめたさが私の気を荒立て、気が付けば、私はちひろを怒鳴りつけていた。


「小娘…何故来た!」
「どうせ…どうせ私は小娘ですよ!」



*



何…?

思わぬ反論に、私はたじろぐ。

ちひろはそう言葉を発すると、それをきっかけに大粒の涙をはらはらと零し始める。

「私が…私が小娘だから、大久保さん、こんなところに黙って来たんでしょ!」
「ちひろ…」

ちひろの泣き叫ぶ姿に動揺し、思わず私は、名を呼んでしまう。

私が名を呼んだことに、弾かれたように、その濡れた目で私を見つめ…そして、私に抱きつく。


「小娘」
私はちひろに肩に手をかけようとする。

「いやっ!」
「小娘」
「そんな…そんな女の人の匂いがする大久保さんなんて…きらい、大嫌いっ!」
私を突き飛ばすようにして私から離れ、そう叫ぶちひろ。

「仕方あるまい。こういうところへ来れば女郎どもは私を放ってはおかんからな」
「!…」
「ともかく…宴席で酒を飲んでいただけだ」

そう言いながら私は、遊女が体を擦り付けていた羽織を脱ぎ、部屋の隅へと投げ捨てる。

「…お酒飲んでただけですか」
「何?」

ちひろがここにいて、私と遊女の姿を見られている以上、そう誤解されることは分かっていたが…今更ながらに、素直に行先を伝えなかった自分をひどく後悔する。

どうすれば、お前を安心させられるのだ…?

涙で腫らした目をこちらに向けると、ちひろはきゅっと結んでいた口を開き、私にぽそりと尋ねた。

「…お前は、私が女郎を買ったとでも言うのか」
私は動揺を悟られぬよう、少し軽口を叩くように、ふっと笑いながら言う。

「違うんですか…?」
しかしちひろはまた涙をあふれさせ、畳の上に大粒の涙を落としていく。


本気で…お前は私が女を買ったと…思っているのか?


お前を安心させるためには、お前に真摯に向き合わなければならないということか。
今は、からかいも、ごまかしも、通用しないのだな、ちひろ。

ならば、お前に、私の本心を見せてやろう。
それで納得してくれるか、ちひろ。



*



私は、大久保さんから女の人の匂いを感じとって、急に現実を突き付けられたような気がして、目の前が真っ暗になった。

そんな…女の人の匂いがする大久保さんなんて…いやっ…!

私が顔を伏せて涙をこらえていると、どこからともなく、女の人のすすり泣くような声が聞こえてくる。

えっ…何?

私は思わず大久保さんを見る。
すると大久保さんは天井を睨みつけるように凝視し、私に視線を戻す。

声は、大久保さんが見上げた、天井の方から聞こえてくる。

女の人の…泣くような、甘えるような声と…天井の、ぎしっ、ぎしっときしむ音が…私と、大久保さんの上に降ってくる。


これって…もしか、して…

ここって…花街…だから…


もう何が何だかわからなかった。もう、何も考えたくなかった。


悲しいのと、寂しいのと、恥ずかしいのと、いろいろな感情が一気に押し寄せてきて、私は泣き、喚く。

部屋の隅に縮こまって、耳を塞いで、地獄のような仕打ちに、私は気が狂いそうになる。



*



私はちひろの泣いている姿に、柄にもなく、うろたえる。

この大久保がうろたえるだと…?

今まで、どんなことがあろうとも、大きく泣くこともなくすぐに笑顔に戻り、私の心を捕らえて離さない、愛らしい表情を私に見せていたちひろ。

こんなに、ひどく泣き喚く姿は初めてだ。このままでは、ちひろの気が触れてしまうのではないかと思うほどに。

私とて、こんな鬱陶しい嬌声を聞いていたくはないが、私のことは今はどうでもいい。

ともかく、ちひろを安心させてやらねば、その思いが私を動かし、考えを巡らせる。


「半次郎」
私は廊下に控えているであろう、半次郎の名を呼ぶ。

「へぇ、大久保さぁ」

からからっ…

私は障子を開け、懐から三ツ折を取り出し、半次郎へ投げる。

「…追い払え」

その一言で半次郎はすべてを理解するはずだ。

「分かいもした」
半次郎は、先ほどとは打って変わって、しっかりと返事をし、私の投げた三ツ折を拾って廊下を後にした。

からからっ…
ぱたん

障子を閉め、ちひろのそばへ行き、駄々をこねるちひろの正面に座り、向き合う。





「私が…女を買うような、浅はかな男に見えるか…?」

大久保さんは、嫌がる私に視線を合わせて、私を見つめてそう言った。

その大久保さんの目は真剣そのものだ。

さっきの大久保さんとは打って変わって、いつも私をからかうときの大久保さんじゃなくなってる。
そう、私を探しに来てくれたときと同じ、真剣な目。

真剣で、必死で、本気で…。私を見つめるその目は微動だにしない。

その目に私はいたたまれなくなり、私は思わず目を逸らす。

「じゃあ…じゃあどうして黙って出掛けたんですか!いつも…いつもはちゃんと教えてくれるじゃないですか!こんなところへ来るから…、だから黙ってたんでしょ!だからこっそり来たんでしょ!」
「黙っていたのは悪かった。しかし、疾しいことは一切していないぞ、私は」

私は涙でぐちゃぐちゃになりながら、大久保さんが言ってることが、きっと正しいと分かってるのに、無茶に反論する。

きっと大久保さんは嘘は言ってない。
いつもと違う態度に、私はそう確信する。

でも、だからこそ、大久保さんを疑っていたことが後ろめたくて、反論せずにいられなかった。


「信じられぬのなら、確かめてみればいい、お前自身の目で」
真剣な目で、なおも私を見つめる大久保さん。

「えっ…」
「私は風呂へ行く」
「お風呂?」
「いくら小娘のお前でも、私が女を買ったかどうか…見ればわかるだろう?風呂へ、来い」

大久保さんが立ち上がって、部屋を出て行こうとする。

すると、部屋の障子が小さく開いて、大久保さんの三ツ折が部屋の中に戻された。

「明日、明け六つに迎えに来い、半次郎」
「…分かいもした」

大久保さんは障子越しに、半次郎さんにそう命令すると、半次郎さんはそのままこの宿を出て行ったようだった。

少しの間、静寂が訪れる。

そして私は、その静けさにふと気づく。
女の人たちの、いやらしいことをしている声が聞こえなくなっていることを。

「大久保さん?」
「半次郎は藩邸へ帰らせた。半次郎一人なら丑三つ時に出歩こうがどうしようが、心配ないだろう。お前をここへ連れてきた罰だ」

ふっと笑ってそう言う大久保さん。

「この宿は私が今日一日借り切った」
「え…ええ?」
「もうこの宿には、客は私と…ちひろ、お前しかいない、安心しろ」
「えっ…どうしてですか?半次郎さんと一緒に藩邸へ帰ればいいじゃないですか」
私は涙を拭いながら、大久保さんに聞く。

「お前はこの界隈がどれだけ危険か分かっていないだろう?いくら半次郎でも私と小娘の二人を、この花街から夜更けに連れ出すのは無理だ。物取り、辻斬り、追い剥ぎ…危険極まりない。こんな宿だが、まだここでおとなしくしている方が危険が少ない」

辻斬りも、追い剥ぎも、私には何のことかよく分からなかったけど、半次郎さんがいても危険だという大久保さんの言葉を聞いて、はっとする。

えっ…
そんな、危ないところだったの、ここ…
それなのに私、何も知らずに、そんな危ないところに一人で出て行ってただなんて…

私は今更ながら、大久保さんが身を挺して探しに来てくれたことに気づく。



「大久保さん…私の、ために?」
「のぼせ上がるな。私があの下品な声を聞くに堪えなかったからだ。お前のためではない」
「大久保さん…」

優しい目で、私をじっと見ている大久保さん。
口調こそ嫌味だけど、ほんとに、私のためにしてくれたんだってことが手に取るように分かる。

大久保さん…疑ったりして、ごめんなさい…


そう言おうとしたとき、大久保さんはぽんぽんと私の頭を叩くと『支度をして、100数えたら風呂へ来い』と言い残してお風呂へ入りに行ってしまった。


そんな風に、子ども扱いされることにはちょっとむっとしたけれど
お風呂で、確かめろって…

私は今頃になって、急にどきどきしてくる。

お、お風呂…大久保さんと、お、お風呂っ?!
な、何をどう確かめたらいいんだろう?

大久保さんがいなくなった部屋で、私は急に慌てふためく。

とりあえず…とりあえず、支度、支度しなきゃ…えっと…

私は初めての宿で戸惑いながら、お風呂に入る支度を何とかして、大久保さんに言われた通り、それでもわざとゆっくり100を数えて、お風呂へ向かった。



*



湯着を着てお風呂に行くと、大久保さんは入り口に背を向けて座っていた。
私はどきどきしながら、そっとお風呂の中を覗く。

お風呂場は薄暗いし、湯気が立ち込めていて見えにくかったけど
その中でも大久保さんの背中は、光っているように見えた。

もう、大久保さんのことは疑っていなかったけど

その湯気の中で白く浮かび上がるように見える背中に、何一つ傷はなく、女の人と戯れていたような跡はまったくなかった。

半次郎さんに聞いたことがある。

こういうところのお姉さんたちは、好きな男の人の気を引くために、そういうことをするときは体をつねったり、ひっかいたりするって。

大久保さんの背中を見つめて、半次郎さんが誇らしげに自分の胸の痣を見せようとしていたことを思い出していると


「遅いぞ小娘。私を茹で上げさせる気か」
首だけをこちらに向け、私が入ってきたことを認めると、そばへ来るように大久保さんは命令する。

「背中を流せ」
「えっ?!」
「女中の仕事だろう?」
大久保さんはこっちを見ずに、私に背中を流すように、また命令する。

「今まで、そんなこと、したことないじゃないですか…?」
「罰だ」
「ばつ?」
「女子のくせにこんなところまで来て、揚句に一人で夜の花街へ飛び出していくなど、言語道断だ」
「だ、だって…」
「それほどの不始末を、これだけで済まそうというのだ。感謝しろ小娘」

そう言って大久保さんは、私に濡らした手拭いを渡す。

「もう…分かりましたっ」
大久保さんは、私がどきどきしているのを見抜いてか、わざと意地悪なことを言ってくれた。
何だか…いつもの大久保さんで、私はどきどきが収まってくるのが分かる。


私は大久保さんの後ろに座って、手渡された手拭いで、大久保さんの背中をさすった。




私は自身の動揺を隠すようにちひろに軽口を叩き、手拭いを渡す。

ちひろは私に言われた通り、手渡した手拭いで背を拭う。
二度、三度と拭い、桶に汲んである湯に手拭いを戻し、桶に手を入れる。

「熱っ…」
「小娘?」

ちひろが声を上げる。

私はそんな熱い湯を入れておいたわけではないはずだ。
私は気になり、振り向いてちひろの手を取る。

…見れば、掌には擦り傷がいくつかできていた。

「どうしたこの傷は」
「あ…さっき、外で転んじゃって…」
ちひろが申し訳なさそうに下を向く。

「まったく…灯りも持たずに闇雲に飛び出して行くからだろう?」
「ご、ごめんなさい」

そのちひろの素直な、寂しそうな表情を見て…私は何を思ったか、その傷に口を寄せ…舌で傷を舐め取る。


ちゅっ


「!」
驚いて手を引っ込めようとするちひろの手首をぎゅっと握り、構わず私はその傷を舐め続ける。

ちゅっ…ちゅ…

何かに取りつかれた様に、私はちひろの傷口をひたすら舐め続ける。

「大久保さん…く、くすぐったい…です」
私はその声に、はっと我に返る。

「あ…長州の、高杉君のようなことをしてしまったな…こんなことで治れば安いものだが」
私は動揺を押し隠すように、人の名前を出してちひろの手首を離し、取り繕う。

「いえ…あの…」
「どうだ?」
「えっ?」
「私が…女と戯れた痕跡はあったか?」
話をすり替えるように、私はちひろに尋ねる。

「ううん…なかった、です」
「そうか。ならば私の潔白は証明されたな?」

私はそう言って立ち上がり、風呂場から出ていく。

「大久保さん、これ…」
ちひろが私に、手拭いを返そうとする。

「嫌でなければ、それでお前も身を清めろ。転んだのだろう?」
そう言って、湯着で風呂の中に佇むちひろを見る。

…綺麗だ……

そこにいるちひろは、耽美で天女のように美しく、湯着が羽衣のようにちひろを包んでいる。
風呂の中で少し頬を上気させ、得も言われぬ輝きを放ち、私ですら足元に跪きたくなるような…

このままここにいては、私は何をしでかすか分からぬ。

私は自分の邪な気持ちを振り切るように、足早に風呂を後にし、先ほどの部屋へ戻って行った。


大久保、お前はこんな男だったのか?



*



私は風呂へ行く前に、茶屋の者に、別々の部屋に寝具を用意するよう申し付けておいた。

そのうちの1つの部屋に戻ってくると、部屋にはすでに布団が敷かれていた。

半次郎が私の金を幾ら払ったのか知らぬが、その準備と手際の良さに思わず苦笑する。

枕元を見れば、酒の一揃いのほか、ご丁寧にも懐紙の束と、艶本と…何だこれは。

私は小さな紙の袋を手に取る。

これは、女悦丸…いや、寝乱髪か。

まったく…

私はその小袋を枕元に戻し、苦笑する。

こんな下卑た小道具など、私には無用の長物だ。

そう思った後、私ははっとする。


…私は何を考えている。
ちひろを…抱こうと、思っているのか?ここで。この野卑な茶屋で。


何を馬鹿な。

こんな…ふざけた道具など用意しおって。余計なことを考えてしまったではないか。
部屋はいくらでもある。別室で休むとしよう。

そう考え、私は部屋を出ようとする。





私は大久保さんの手拭いを借りて、ゆっくりと体を清め、磨いた。

大久保さん、許してくれたの、かな…

私はまた、とんでもないことをしてしまったのかもしれない。

あれだけ無茶するなって言われてたのに。

大久保さんに、ちゃんと、謝りに行こう、かな…。

お部屋になんか行ったら、また『お前は私を何だと思っているのだ』とかって、怒られちゃうかな。

でも…
無茶をしたけど

大久保さんに、会えてよかった…

急にふたりっきり、になっちゃったけど。


少し、くらい…そばに、いたいって言っても…いい、かな…いいよね…?


誰に聞いているわけでもないのに、私はしばらく湯船でぼうっとしてて、大久保さんのお部屋に行こうかどうしようか決心がつかなくて、いい加減のぼせそうになってからお風呂を出る。

この手拭いを返しに行くだけ…そう、それだけ。

大久保さんの部屋へ行く口実を考えて、私は灯りが点いている、大久保さんの部屋を目指す。

もう、寝ちゃった、かな…?

寝ちゃってるかもっていう不安と、起きていて欲しいと思う期待と…よく分からない気持ちのまま、心臓を五月蠅く跳ね回らせながら、私は大久保さんの手拭いを握り締めて、お部屋の前に行く。


「大久保さん…」

がらっ

「きゃっ!」
「!」

障子が開いて、大久保さんが目の前にいて、私はびっくりする。

「何をしている?お前はこの部屋で寝るのか?」
大久保さんも驚いたのか、目を丸くして私を見ている。

「あ、あの、これ…」
私が手拭いを差し出そうとすると、それより私の浴衣姿を見て、大久保さんが顔をしかめる。

「お前はまったく…浴衣の着方も知らんのか」
「え?」
「後ろを向け、小娘」

そう言って大久保さんは、私を部屋に引き入れ、後ろを向かせて私を抱き締める。

そしてそのまま、浴衣の腰ひもをするりと解く。

「大久保さんっ?!」
「勘違いするな小娘」

大久保さんは、私の浴衣をいったんはだけると、前合わせの左右を入れ替えて、もう一度腰ひもを締め直してくれた。

「こうして、浴衣も着物も…左前に着付けるのだ」
「え…あ、そう、なんですか…」

私は大久保さんに後ろから抱き締められて、耳元で低く優しい声で囁かれ、恥ずかしくて、顔が熱くなっていくのが分かる。

「こうして…」
「あっ」
大久保さんの右手が、私の胸元に入り込む。
そしてそのまま私の左肩を掴んで抱き寄せてくれる。


「男が胸元に手を滑り込ませられるように着るのが正しいのだ。覚えておけ」
「は、はい…」
大久保さんの吐息が首筋にかかって、返事をするのも困難なくらい、私は心臓を跳ね回らせてしまう。


そして、そのまま大久保さんは、私の肩を両手でそっと抱き締めてくれた。

「あ…」
「もう、しないか?」
「え?」
「…女郎の匂いはしないか、私から?」

私は振り向いて、少しだけ口の端をゆがめて笑っている大久保さんを見る。
そっと身を捩り、大久保さんの胸に、顔をうずめる。
大久保さんは抵抗せず、私のことを、受け止めてくれた。

「はい…もう、しないです」
「そうか」

大久保さんの胸からは…いつも大久保さんから香る、サンダルウッドの香の匂いがした。
私が安心する、大好きな、大久保さんの匂い…。

やっと、やっと…心がほっとする。

なのに…

「もう、寝ろ。お前がここで寝るというのなら、私は他の部屋へ行く」
大久保さんは私から離れると、部屋を出て行こうとする。

私は、意識せずに

「どうして?」

と、聞いていた。



*



どうして…だと?

「どうして、一緒にいて、くれないんですか?」
ちひろが、私を乞うような目で見る。

「お前は…私を、誘う気か?」
「!…誘ってなんか…誘ってなんか、いない、です」
「では、何だ?一人寝が怖いのか?小娘というより餓鬼なのかお前は」
私は、内心の混乱を表に出すまいと、いつものように、ちひろをからかうように口元をゆがめる。

「小娘でも何でもいいです!そばに、いてください…っ」
「!…」
「今日一日…大久保さんがどこへ行ったのか心配で、とっても寂しくて…だから、だから…そばにいてくれたって、いいじゃないですかっ…!」
「ほう、私に責任を取れと言うのか?」
「責任…とってください、大久保さん…」

そう言ってちひろが、もう一度、私の胸に縋りつく。

湯上りのちひろの香りに惑いながら、私の理性と本能がせめぎ合う。

かろうじて私の理性が、最後の抵抗を試みる。

私は天を仰いで目を閉じ、二、三度呼吸を深く繰り返すと、ちひろに、目を閉じたままこう言った。


「小娘」
「はい…」
「私は今日…いろいろなことがありすぎて、気分が悪い。気も猛っている」
「…」
「今、お前のそばにいるということは…ただ、添い寝してやるだけとは限らぬ」
「はい…分かって、います」
「手荒なことを…してしまうかも、しれんぞ」

私は目を開け、ちひろの意思を確認するように、ちひろの瞳を見つめる。

ちひろがこくっと頷き、潤んだ目で、私の胸元から私を見上げる。


ちひろ…


私はどうしてしまった…?
私は、こんな情欲に流されるような男ではないはずだ。

だが

お前の前では、私もただの男であると思い知らされる。

これが

愛しいと、いうことなのか。


私は…ちひろの顔に見入る。

ぼんやりと灯る行燈の薄灯りの中で…きらきらと輝く瞳がまるで黒曜石のように私を誘う。


お前を、こんな低劣な茶屋で抱きたくなかった。

だが

もう、限界だ…


「ちひろ」

心の中で、何度呼んだであろうお前の名を、ようやく意識して口にする。

私はちひろの名を呼び、悟られぬように吐息だけで

「愛している」

とつぶやき…その唇を吸った。


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