side フェルディナンド
五学年になる年の春――
フェルディーノは今年も複数コースの受講を理由に貴族院に残って過ごしていた。そして春の領主会議の時期は、なるべく領主夫人に近付かないよう屋外で過ごす時間を増やし、寮には最低限しか寄り付かない。なんなら文官棟で生活していると言ってもいい状態であった。
そんな状況にある彼を狙ったように、ハイスヒッツェを筆頭とした暑苦しい輩が群れて訪れる。
どこまでも引っ付いてきて食い下がるので仕方なく、最も大切だからこそと差し出されたマントを賭けての勝負を受けてやることにする。戦利品としては悪趣味だが、裏に含まれる気遣いも察しているので無下にもできず、これが最後だぞとの言質を取って叩きのめす。
己の大切な婚約者が刺繍したという青いマントを奪われて、少しは懲りるかと思いきや、自重どころか明後日の方向に闘志を燃やす始末だった。
まったくもってダンケルフェルガーのディッター脳には呆れるばかりである。
変わらぬ運命に辟易しつつ、なんとも複雑な気分になる。
たしかに他人の魔力であっても多少は防御の助けにはなる。無いよりは有った方が遥かに良いし、領主候補生という立場的にも刺繍がある方が望ましいのだろう。
そして、表向きの理由が正当で明白であるために、身に纏っていても奪われにくい。ここでもダンケルフェルガーは上位の大領地であった。
それにしても素晴らしい出来栄えだと、マントを検分しながら珍しく感じ入るようにユストクスが褒めている。
前回と同じ流れならば、これから先長く世話になるマントなはずだが、それほどまでに称賛されるものであっただろうかと違和感に目を細め、受け取って具に確かめる。
それは銀糸が煌く刺繍の魔法陣は複雑な守りの陣と攻撃を補佐したり拡大したりの作用があるだけでなく、健康を促すものや厄除け魔除け解毒の作用が複雑に絡み合っているようだった。
それでいてあらゆる祝福が隠すように上乗せされているのである。色や飾りの調和といい、非常に美しく装飾されていて、ともすれば脳筋ばかりのダンケルフェルガーには不釣り合いなほどに優美で繊細な刺繍なのだ。送り主だという婚約者は余程の腕の持ち主なのだろうか、並々ならぬ想いが込められていることが察せられた。
何より、染められた糸から感じる魔力の色がおかしい……僅かに暖かいようなそれが意味すること。親しんだ覚えのある温もりに、彼の指先は微かに震え、内心で密かに驚愕する。まさか、という思いとともに込み上げる郷愁。
激しい動揺を隠すように面を取り繕いながら、隠し部屋へ籠る旨を伝えて歩く。
忙しなくマントを手に掴み、疑念を晴らすべくフェルディーノは一人になるのだった。
じっくりと時間をかけながら、一つ一つ指先で丁寧に魔法陣をなぞって確かめていく。
そして布の隅に紛れていた淡く光る文字列を見つけて息を飲む。ジッと眺めて読み取った一文は、最古に近しい古語を用いた伝文で、明らかに自分に向けられた、自分を知る者からの意思表示であるということが分かる。記された言葉数こそ少ないが、込められた想いは計り知れない。
えもいわれぬ高揚とともに彼の胸に期待と希望の明かりを灯すには十分なものであった。
「…………ローゼマイン」
それはかつての自分が築いた歴史でありながら、今となっては夢のような世界で生きた記憶。今生よりずっと過酷で困難に満ちた環境であった頃に唯一、己が進む道を照らしめて救い、膿んだ傷を癒し、初めて心の底から求めて渇望し、自らのためだけに望んで力を尽くし、手に入れてから先は生涯にわたって隣にあった者の名前であった。
それでも遠い記憶なれば数多ある記憶の一つに過ぎないと思っていた。
今の歴史と似ている事柄が多くあったとしても、生まれ育ちや名前からして異なる自分は、記憶のなかの人物とは違う人間であり、気まぐれな神々によって新たな糸として別の布地を織り上げているのだと……今日までそう思って生きてきたのだ。
だが、彼女までもが同じ記憶を持ち、今すでに貴族として存在しているとなると、計画の全てが変わってくる。
フェルディーノは無意識下で出会いは数年先になるだろうと考えていた。
他の者との年齢差が前世と変わりないことから、ほぼ間違いないと予想していた。故に、昨年の夏にどこかで生まれている可能性は考慮していたが、まさか他領にいるとは思わなかったのである。
いや、仮にそうであったとしても、そもそも前世の記憶などというのは夢幻の過去である――それこそ夢の世界としか言いようのない記憶の中でみた平民の家族との強い繋がりは、現実に血の繋がりがある今世の家族との絆には及ばないだろうと、そう思っていた。
そして、自分が貴族として生まれたことから、彼女も貴族であって欲しいと考えていたのも事実だ。
しかし、平民である可能性も捨てきれなかった。だから調べさせたのだが、ギュンター達のところに存在しないことを知ってからは、どこに、いつ生まれるのか、全く手掛かりがない状態で探し続けることになり……途方もない旅になる可能性を危惧していたのだが――
「まったく……予想外にもほどがあるぞ」
彼女を探し出し、迎えに行くのは己の役目だと思っていた。彼女の方から見つけ出して誘ってくれるとは考えもしなかった。
君は相変わらず淑女らしからぬ行動力で突進する、規格外な存在なのだな……と、呆れた声を出したつもりであった彼だが、部屋に響く声色は存外柔らかく、まるで淡い幸福に満ちた音色であった。