三章 土の日の指令 side F
◆内密の話
先触れを出して身支度を済ませると、フェルディナンドは側仕えに明日までに戻ることを告げ、不在の間に済ませておくべき作業や対応、食事の下げ渡しを含む料理人の指示を出していく。そうして多少の時間を稼いだあと、騎獣にまたがり自宅を目指したのだった。
そういえば随分と長く帰宅していなかった。神官長を拝命して以降、およそ全ての執務が回ってくるようになり、城の執務も増える一方で、目の回るような忙しさだったのである。マインが現れなければ、このように休日を取ることも到底無理な話であっただろう。大人顔負けに書類仕事をこなす幼児など、つくづく規格外な娘である。おかげで他の灰色たちの能率まで上がってしまった。子供に負けてはいられぬと影響を受けたらしい。
最初は男ばかりの仕事場に子供とはいえ女性が入ることで不和が生じることもあるやもと気を揉んだが……気が付いたら馴染んでいたのである。おまけに休憩≠ネどという小休止を挟むことを提案してさらに能率を上げ、灰色たちの心まで掴んでしまったように見える。彼女が振りまく労りや、特別美味な茶菓子が心を掴んで離さぬ理由であろう。まったく君はどこまで慈悲深いのだ。そうやって他人にかまけているから読書時間が減るのだろう。少しは己が行動の矛盾に気が付いたらどうなのだ――
つらつらと考えているうちに自宅にたどり着き、音もなく中庭に降り立つ。と、同時に玄関の方で動きが見られ、早くも出迎えの態勢が整っていることを知る。外階段を登ると扉が開き、ユストクスとラザファムの二人が恭順の姿勢で待ち構えいた。その対応に溜め息が出そうになる。
「顔を上げなさい……二人とも、変わりはないか?」
労いの気持ちを込めて声を掛ける。自分はもう主ではないのだからと、言い含めたところで二人の意志は変わらないのだろう。だとすれば以前のように接するべきだろう。何もしてやれない主だったが、これからはそうも言っていられぬのだ。こちらとしても、忠誠心ある彼らの協力は頼もしかった。今度こそ報いてやらねばならないと思う。
「お帰りなさいませ、フェルディナンド様。こちらの支度は恙無く」
「ご無事の帰還、何よりでございます。こうして間近にお姿が拝見できてようやく活きる心地です」
にこやかな笑顔で自分たちに変わりはないのだと示す。
「……そうか」
フェルディナンドは二人の態度を受け入れて、彼らの主として振る舞う姿勢を見せた。
◇ ◇ ◇
調合用の服に着替えを済ませ、ひとまず書斎に向かって書き物をする。文箱を持たせて居室に移ると、長椅子に腰掛けて一息をつく。ラザファムの淹れた茶を飲みながら、考えるのは次に行う調合のことだった。フェルディナンドは視線を上げ、どこか楽しそうにしながら側に控えるユストクスに声を掛ける。
「ユストクス、必要な素材はあったか?」
「高品質のものでしたら満遍なく揃ってございました。最高品質のものとなりますと少々心許ないかと……」
「ふむ……とりあえずは問題ない。だが、近いうち最高品質のユレーヴェを作るつもりなのだ。そうなると次はシュツェーリアの夜か……」
フェルディナンドが考え込むと、ユストクスが食い入るように期待の眼差しで見つめてくる。
「リュエルの実ですね? お一人で採集に向かわれるので?」
「……其方はすでに収集済みであろう?」
嫌な予感に顔を顰めると、ユストクスは蕩々と語りだす。
「もちろんリュエルの実は入手しておりますが、シュツェーリアの夜となると話が別でございます。通常の実とどのような違いがあるのか、是非とも比べてみたいものですね。色や効能が全く異なるそうですが、何よりも周囲の魔獣が凶暴化するとかで、私一人では荷が勝ちすぎるかと断念した経緯があるのです。つきましては通常の実をいくつか献上いたしますゆえ是非とも私も採集に同行の許可を――」
「わかったから黙りなさい。そういうことなら戦力が多い方が良かろう。エックハルトも呼んでやりなさい」
「ご安心ください。すでに呼び寄せてございます。用事が済みしだい飛んで来るのではないでしょうか」
「は? なにも今から呼べとは言ってないが……」
「私とラザファムの二人だけがフェルディナンド様にお目見えしたのだと知れば、呼ばれなかったエックハルトがこの世の終わりと嘆いて儚くなる危険がございました。ゆえに顔を見せるように指示しておきました」
しれっと勝手な行動を報告し、さも当然のように深刻な顔をしてみせる。
「アレが簡単に死ぬはずがなかろう……」
「フェルディナンド様。僭越ながら、どうかエックハルトも安心させてやってください。本当に、彼は長らく生きた屍のようだったのでございます……フェルディナンド様からお声掛けがあったと知れば、生きる力も漲りましょう」
「そうか……」
痛いところを突かれた気分だった。自分が無力感から無気力に陥っていた頃、おそらくエックハルトはそれ以上の失望に苛まれていたのだろう。マインという唯一の存在を知った今、フェルディナンドにもそれがどれほどの苦しみか分かるような気がした。
――ドゴーンッ!
階下から扉を蹴破るような音がして、馬鹿みたいに大きな声が屋敷に響く。
「ユストクス! ユストクス、どこだ! ラザファム、フェルディナンド様は?! フェルディナンド様がいらっしゃるとは真かッ?!」
「落ち着きなさいエックハルト! すでにフェルディナンド様がいらっしゃるのですよ!」
興奮しながらラザファムと言い合う様子に頭が痛くなる。ラザファムは破壊行為や衣服の汚れを怒って叱り、エックハルトはフェルディナンドのことばかり質問して喚いている。
「……ユストクス、あれのどこが生きる屍なのだ?」
「ふむ、どうやら薬が効きすぎたようですね」
呆れたユストクスが階下に赴いて二人を叱り、浮かれるのも程々にしなさいと言い含めて黙らせる。
それを遠くに聞きながら、そうかラザファムも浮かれていたのだなと……どこか他人事のように考えて、現実逃避したフェルディナンドであった。
◇ ◇ ◇
先触れを出して身支度を済ませると、フェルディナンドは側仕えに明日までに戻ることを告げ、不在の間に済ませておくべき作業や対応、食事の下げ渡しを含む料理人の指示を出していく。そうして多少の時間を稼いだあと、騎獣にまたがり自宅を目指したのだった。
そういえば随分と長く帰宅していなかった。神官長を拝命して以降、およそ全ての執務が回ってくるようになり、城の執務も増える一方で、目の回るような忙しさだったのである。マインが現れなければ、このように休日を取ることも到底無理な話であっただろう。大人顔負けに書類仕事をこなす幼児など、つくづく規格外な娘である。おかげで他の灰色たちの能率まで上がってしまった。子供に負けてはいられぬと影響を受けたらしい。
最初は男ばかりの仕事場に子供とはいえ女性が入ることで不和が生じることもあるやもと気を揉んだが……気が付いたら馴染んでいたのである。おまけに休憩≠ネどという小休止を挟むことを提案してさらに能率を上げ、灰色たちの心まで掴んでしまったように見える。彼女が振りまく労りや、特別美味な茶菓子が心を掴んで離さぬ理由であろう。まったく君はどこまで慈悲深いのだ。そうやって他人にかまけているから読書時間が減るのだろう。少しは己が行動の矛盾に気が付いたらどうなのだ――
つらつらと考えているうちに自宅にたどり着き、音もなく中庭に降り立つ。と、同時に玄関の方で動きが見られ、早くも出迎えの態勢が整っていることを知る。外階段を登ると扉が開き、ユストクスとラザファムの二人が恭順の姿勢で待ち構えいた。その対応に溜め息が出そうになる。
「顔を上げなさい……二人とも、変わりはないか?」
労いの気持ちを込めて声を掛ける。自分はもう主ではないのだからと、言い含めたところで二人の意志は変わらないのだろう。だとすれば以前のように接するべきだろう。何もしてやれない主だったが、これからはそうも言っていられぬのだ。こちらとしても、忠誠心ある彼らの協力は頼もしかった。今度こそ報いてやらねばならないと思う。
「お帰りなさいませ、フェルディナンド様。こちらの支度は恙無く」
「ご無事の帰還、何よりでございます。こうして間近にお姿が拝見できてようやく活きる心地です」
にこやかな笑顔で自分たちに変わりはないのだと示す。
「……そうか」
フェルディナンドは二人の態度を受け入れて、彼らの主として振る舞う姿勢を見せた。
◇ ◇ ◇
調合用の服に着替えを済ませ、ひとまず書斎に向かって書き物をする。文箱を持たせて居室に移ると、長椅子に腰掛けて一息をつく。ラザファムの淹れた茶を飲みながら、考えるのは次に行う調合のことだった。フェルディナンドは視線を上げ、どこか楽しそうにしながら側に控えるユストクスに声を掛ける。
「ユストクス、必要な素材はあったか?」
「高品質のものでしたら満遍なく揃ってございました。最高品質のものとなりますと少々心許ないかと……」
「ふむ……とりあえずは問題ない。だが、近いうち最高品質のユレーヴェを作るつもりなのだ。そうなると次はシュツェーリアの夜か……」
フェルディナンドが考え込むと、ユストクスが食い入るように期待の眼差しで見つめてくる。
「リュエルの実ですね? お一人で採集に向かわれるので?」
「……其方はすでに収集済みであろう?」
嫌な予感に顔を顰めると、ユストクスは蕩々と語りだす。
「もちろんリュエルの実は入手しておりますが、シュツェーリアの夜となると話が別でございます。通常の実とどのような違いがあるのか、是非とも比べてみたいものですね。色や効能が全く異なるそうですが、何よりも周囲の魔獣が凶暴化するとかで、私一人では荷が勝ちすぎるかと断念した経緯があるのです。つきましては通常の実をいくつか献上いたしますゆえ是非とも私も採集に同行の許可を――」
「わかったから黙りなさい。そういうことなら戦力が多い方が良かろう。エックハルトも呼んでやりなさい」
「ご安心ください。すでに呼び寄せてございます。用事が済みしだい飛んで来るのではないでしょうか」
「は? なにも今から呼べとは言ってないが……」
「私とラザファムの二人だけがフェルディナンド様にお目見えしたのだと知れば、呼ばれなかったエックハルトがこの世の終わりと嘆いて儚くなる危険がございました。ゆえに顔を見せるように指示しておきました」
しれっと勝手な行動を報告し、さも当然のように深刻な顔をしてみせる。
「アレが簡単に死ぬはずがなかろう……」
「フェルディナンド様。僭越ながら、どうかエックハルトも安心させてやってください。本当に、彼は長らく生きた屍のようだったのでございます……フェルディナンド様からお声掛けがあったと知れば、生きる力も漲りましょう」
「そうか……」
痛いところを突かれた気分だった。自分が無力感から無気力に陥っていた頃、おそらくエックハルトはそれ以上の失望に苛まれていたのだろう。マインという唯一の存在を知った今、フェルディナンドにもそれがどれほどの苦しみか分かるような気がした。
――ドゴーンッ!
階下から扉を蹴破るような音がして、馬鹿みたいに大きな声が屋敷に響く。
「ユストクス! ユストクス、どこだ! ラザファム、フェルディナンド様は?! フェルディナンド様がいらっしゃるとは真かッ?!」
「落ち着きなさいエックハルト! すでにフェルディナンド様がいらっしゃるのですよ!」
興奮しながらラザファムと言い合う様子に頭が痛くなる。ラザファムは破壊行為や衣服の汚れを怒って叱り、エックハルトはフェルディナンドのことばかり質問して喚いている。
「……ユストクス、あれのどこが生きる屍なのだ?」
「ふむ、どうやら薬が効きすぎたようですね」
呆れたユストクスが階下に赴いて二人を叱り、浮かれるのも程々にしなさいと言い含めて黙らせる。
それを遠くに聞きながら、そうかラザファムも浮かれていたのだなと……どこか他人事のように考えて、現実逃避したフェルディナンドであった。
◇ ◇ ◇
2023/04/02