イルミの性格と私達の関係からして、そういう話は電話一本ですまされる気がしていた。
「そういうわけだから、今日でさいご。もう会わない」
「うん、わかってる」
「そう、よかった」
「私がこういう話でとやかく言うタイプじゃないって知ってるでしょ」
「まあね」
イルミはワイングラスに口をつけた。透きとおった赤がガラスの中をすべっていく。彼の白い喉が上下する。
「先越されたなあ」
「ま、俺のは家同士が決めたことだし」
「そうだけど、なんか複雑かも」
イルミと会うのは大体においてホテルの中だった。だから普通の酒場なんかで会おうと言われた時になにか話があるのだろうなと思った。愛や恋を理解しない彼の性格と、ほぼ身体だけといっても過言ではない私達の関係からすれば別れ話なんて電話一本で告げられる気がしていた。それがわざわざ国境まで越えて最後に会う時間を作ってくれた。それなりに大事にされていたのだと、私はきっと自惚れていい。
「ナマエならその気になればいい男が見つかると思うけど」
「なにそれ」
余計なお世話だしそもそもイルミの口からそんな言葉をききたくなくかった。内心すねる。少し背を丸めて、グラスに映るいつもより面長な自分を見つめる。
「誰かと結婚しなよって言ったら怒るだろ?」
「怒るね」
ていうか言ったも同然じゃないか。グラスの中の私が私をにらみつける。だけど、付き合い初めて間もない頃こそ彼は女心にうとかったもののこの数年で多少は学んだらしく、無神経でぶしつけな彼にしては配慮した言葉なんだと思う。
「ナマエが幸せになれるなら何でもいいんだ」
「今でも十分幸せだよ」
「これから俺がいなくなっても?」
ほんの一瞬、目の前がまっしろになった。イルミのいない未来。グラスに映る自分が消えた。
「余裕、余裕」
笑ってみせる。イルミといるうちに嘘をつくのが得意になった。
「それはそれでくやしいな。安心するけど」
「心配してくれてるの?」
「まあね」
「なに、今日はやけにやさしいんだね」
「え、俺はいつでもやさしいけど」
「ごめん記憶にない」
イルミのことが好きだから甘んじて耐えてきたけれどベッドでの彼の行為はいつだって容赦が無かった。
「だいたい結婚したら幸せになれるってわけじゃないじゃない」
「まあね。なんだ、お前結婚願望ないの?」
「ないよ。他人と生きていくなんて難しすぎる」
「そうかな」
「イルミは幸せにならなきゃってプレッシャー感じないの」
「感じない。努力はするけど」
「イルミの努力ってすごいかも」
「すごいよ。俺は天才じゃないからね」
「弟くんとちがって?」
「うん…言わせないでよ」
私は声をあげて笑った。そう、イルミは天才じゃない。ひょうひょうとしているようでも彼の誇る暗殺技術は並一通りではない努力の上にこそある。私はそれをよく知っている。
「…生意気になったね、お前」
「長いこと付き合ってきたからね、イルミの影響だよ」
ワインを飲むイルミの横顔が少し文句ありげにゆがんだ。
「それにしても五年は長かったね」
私がつぶやくと、飲み干したイルミがこっちを向いた。いつもすきのない大きな瞳が、まぶたを下げてやさしい輪郭を描いた。
「あっという間だったよ。俺はナマエといるの嫌いじゃなかった」
初めて笑った顔を見た。心臓が締まる。ときめきじゃなくて苦しさで。
じゃあ結婚なんてしないでよ。言いかけてすんでの所で飲み込んだ。私がイルミに与えられるものはもうこれ以上何もないし、私もイルミと結婚したいわけじゃない。手に入れたいわけじゃないのに手離すこともしたくない。変わりたくなかった。これはエゴだ。分かってる。どうにもならないってことも。だから私は黙って飲み込むしかない。
「さて出ますか」
「それ、残ってるけどいいの」
イルミの白い指が半分以上入ったワイングラスを指す。
「美味しかったけど、残念ながらもう飲みきれない」
「それじゃ」
「元気で」
とだけ言い合って店を出てすぐイルミとは別れた。いつか彼が私を殺しに来るか、そうでなければきっと二度と会わない。後ろ姿は見送らなかった。あの男が夜の街にとけて行くさいごなんて見たくなかったんだ。きっと焼きついて消えなくなってしまうから。
帰り道はいやにロマンチックな夜景が待ち受けていた。通り過ぎる男女はホテル街に消え、静かな道路を時折車が追い越して行く。煌めくビルの灯りとまばらなネオンが目にしみた。
あのワイン美味しかったなあ。
小さくなって行く車、ネオンやビルの輪郭、眼に映るものすべてがじわりとぼやけた。速くは歩けなかった。
『ナマエならその気になればいい男が見つかると思うけど』
言わなかったけどね。いないんだよ、あなたよりいい男なんて。
end
20150903