ホームシック・ナポリタン | ナノ


4みかづきは笑わない


なまえは内心凍りついた。けれどなんでもないようなふりをして手を洗い続ける。

「…なにを?」

聞き返しながら洗面台に置かれているかみそりに意識を向けた。
男はバスルームを指差す。

「べつに?みてないよ」

「悪い子だね。うそはいけないよ」

不気味なほどやさしくあごをつかまれてバスルームの入り口に向かされた。ドアの下に人の指らしきものが転がっていた。さっき開けたときに足で動かしてしまったのだろうか。なまえは息を飲む。わき腹をつかむ男の手にきゅっと力がこもった。

殺気を感じとったなまえはぞっとして、瞬時にかみそりへ手を伸ばした。
半円を描くように流れるような動作で男の手を斬り裂き、肘で彼の胸を突き飛ばして腕の中から抜け出す。
無我夢中で玄関へ向かうとドアノブに手をかけた。開かない。鍵を外そうと手を伸ばしたが、その間に倒れていた男が立ち上がりこちらへ向かって来た。
なまえは廊下を突っ切りリビングまで行くと、勢いを殺さないままソファからぬいぐるみを回収し胸に抱え、窓を割ってベランダへ出た。
横壁を蹴って手すりに登り、目にもとまらぬ速さで手すりから隣の非常階段へと飛び移った。階段を駆け降りる。六階、五階、四階、三階と降りて最後に地面へ飛び降りた。足に激しい衝撃と激痛を感じながら、必死で走る。


残された男はやがてリビングからベランダに出ると、すでに地上に降り夜の闇に紛れて駆けて行くなまえの姿を見下ろした。三日月のようにすっと目を細めて笑う。

「怖がらなくても君は殺さないのに。まだ」

舌舐めずりをした後、なまえに斬り裂かれた腕の傷口を見た。

「うん、いいね」

幼いなまえに恐怖を教えた彼は後に蜘蛛へ入団するのだが、この時のなまえには知るよしもなかった。



「ここ…どこ…」

なまえは遠くまで逃げて、気がつけば帰り道は分からなくなっていた。

「…パク…ク、…」

あまりの心細さに思わず呼びかけた名前を、あわててのみこむと首を横に振った。

しばらく歩いて別の公園を見つける。
中に入りベンチに置き放しの新聞紙をつかんだ。そして園内の片隅にぽつんと置かれた汽車の遊具の中に入り新聞紙を広げてその中に丸まり人目をしのいだ。
これでいくらか安全だろう。少なくともさっきのようなことにはならない。ほっと息をついた。
しかし同時に先の男のことがよみがえって頭から離れなくなる。人を傷つけたのは初めてだった。かみそりごしに肉をえぐった感覚がまだしっかりと手に残っている。噴き出した血の色も、においも。心臓がせわしなく動く。まぶたをぎゅっとかたく閉じてクマのぬいぐるみを強く抱きしめた。

title:虫の息

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