蜂蜜とよごれもの | ナノ

4.こぼれたコーヒー


ノースウエストシティの駅に着いたのは八時半を少しすぎたころだった。北街だけあって気温は低く、ほおに当たる風は氷のように冷たい。思わずコートの襟を引き合わせる。隣を歩くシャルも寒そうに口元で手あたためていた。

「まだ早いし、どこか入ろうか」

シャルは駅の外に向かって歩き出す。その腕を掴んで引きとめた。

「待ってシャル」

私は構内の喫茶店の小さなウインドウを指した。ガラスの向こうには、ハードカバーを片手に優雅にコーヒーを飲むクロロの姿がある。


***
喫茶店のドアを押すと赤いりぼんのついたドアベルが軽やかに鳴った。

「おはよう。一週間ぶりだね」

シャルが声をかけるとクロロは分厚い本から顔を上げた。

「ああ。よくここが分かったな」

「名前がウインドウを見て気づいたんだよ」

シャルが私を振り返る。私は意識的に笑顔を作った。

「おはよう」

クロロは私に無言のいちべつをくれた後、視線をはずして「ああ」とだけ言った。それからまたシャルに視線を戻した。

「一緒に来たのか」

「まあね」

シャルはどうでもよさそうに短く答え、私に座るようにうながした。何気なく視線がいってクロロを見ると、なぜかクロロもまた私を見ていた。ぎょっとして反射的に眼をそらす。やっぱりクロロの眼はどうしても苦手だ。
私が奥の窓際に座り、シャルがその隣に座る。向かいのクロロをおそるおそる見てみたけれど、クロロは新聞に向かって眼を伏せていて、もう視線が合うことはなかった。

「そうだ、聞いてよ団長。名前ってば列車待ってる間にホームのベンチで寝ちゃってさ」

シャルはメニューを広げて私の前に置くと、ついさっきの私の失態について語り出した。クロロは黙って新聞から顔を上げる。

「べつに寝たっていいんだよ?ちゃんと起きてくれるならね。だけど名前ったら馬鹿みたいに寝つきよくて、揺すっても蹴っても起きないし、名前の荷物は阿呆みたいに重いし、名前も重いし、車内に運ぶのすごい大変だったんだよ」

「ごめんってば…」

謝るものの、ちょっとシャルが恨めしい。何もクロロの前でそんな話をしなくてもいいじゃない。いや、私が悪いけど。

「真冬だよ?普通寝るかな、真冬のホームで」

「…すみませんでした」

「べつにいいけどね?俺心広い方だし」

「どこがよ」

シャルはポケットから携帯を出していじりながら横顔で笑った。

「でも、まさかあんなに重いとはなあ。ほんとに肩脱臼するかと思った」

「…ほんとに脱臼したいの?」

少しにらむと、シャルは携帯から眼を上げてかわいこぶった笑顔で茶化した。

「やだあ、名前こわーい」

クロロはそっと眼を伏せ、黙ったままカップを持ち上げた。特に言うことがないのか、会話に興味がないのか。それとも。

「ご注文はお決まりですか?」

ウェイトレスのお姉さんがやって来て、シャルはさわやかな笑みをお姉さんに向けた。

「んー、俺はそうだな、エスプレッソとお姉さんの連絡先くださ」

「無視していいですから」

私はテーブルの下でシャルの足を小突き、お姉さんに頭を下げる。

「エスプレッソひとつと、ホットココアをお願いします」

お姉さんが頭を下げて立ち去っていくのと同時に背中の向こうでドアベルが鳴った。

「おう、お前ら早いなァ」

底抜けに明るい大声は店の入り口から一直線に私たちに向かって響いた。当人は他の客からいっせいに注目を浴びてウェイトレスのお姉さんに注意を受けている。

「ああ、わりィな姉ちゃん、つい大声になっちまってよ」

謝る声がまた大きくて他の客からにらまれる。気の短い彼のことだから、てっきり睨み返すかと思ったけれど、予想に反して脇目も振らず、長い黒髪を揺らしながらまっすぐに歩いてくる。

「おはようノブナガ」

「おお、名前も来てんのかァ」

奥に座る私を見つけるとノブナガは満面の笑みを見せた。めずらしく朝から機嫌がいいらしい。

「どうしてここが?」

「ああ、ついさっきシャルが俺とフィンにメールくれてな」

「そうだったんだ」

シャルってよく気が回るな。さっきクロロに私の失敗談を話したのだって、多少腹は立ったけど、けっきょくはクロロを苦手に思ってる私が気兼ねしないように取り計らってくれたのかもしれない。

「ノブナガが時間どおりに来るなんてめずらしいね」

シャルは物めずらしそうにノブナガを見る。

「いやな、今朝は早くに眼ェ覚めちまったんだよ。こんな短期間に二度も活動できるなんて嬉しくってなァ」

ノブナガは愉快そうに口端を上げ、クロロの横に腰を下ろすと刀袋を抱えるようにしてテーブルにひじをついた。

「何飲む?」

シャルがノブナガにメニューを渡す。

「緑茶一択だろ」

「ないよ、こういうところには」

一年前の活動で行ったジャポンという国で、緑茶という飲み物を知り、それ以来ノブナガはえらく緑茶を気に入ってこの問答をくり返す。

「あァ?なんで緑茶がおいてねェんだよ」

「何度も言ってるだろ。緑茶はジャポンの名産品なんだって」

「まあまあ、コーヒーでもいいじゃないノブナガ」

「お茶がいいなら紅茶もあるよ」

「緑茶以外の茶は、茶だなんて認めねェよ」

「はいはい、めんどくさいなあ」

そうこう言ってるうちにエスプレッソとココアが運ばれてくる。

「コーヒーひとつ。ブラックでお願いします」

ノブナガの代わりに私が勝手に注文する。

「緑茶はねえのか、姉ちゃんよ」

ノブナガはあきらめ悪くウェイトレスのお姉さんに食い下がった。お姉さんは眼を丸くしている。

「…まだ言ってるよ」

「早く緑茶が世界に流行るといいんだけどね」

あきれ顔のシャルに私は肩をすくめた。クロロは我関せずといった顔で新聞を眺めている。

「ノブナガ、お姉さん困ってるから」

「あァ?」

「すみません、ウェイトレスさん。コーヒーでいいので」

ノブナガをなだめ注文が済んでひと段落したところでクロロが腕の時計を見ながらつぶやいた。

「あとは、フィンクスだけか」

「ウボォーもまだだろ?」

怪訝な顔をするノブナガに、シャルがたしなめるような視線を送る。

「ノブナガ、ウボォーは来れないって言っただろ」

「…そうだっけかァ?」

ノブナガは拍子抜けしたと言わんばかりに頬をかいた。

「ウボォーの代理で、名前が来てるんだ」

「…名前がウボォーの代理だとォ?」

「うん。今日はノブナガには名前と組んでもらう」

「ふつつかものですがよろしく」

するとノブナガは眉間にしわを寄せて腕を組んだ。

「そりゃ、やめた方がいいな」

「え、どうして」

「俺はウボォーみてェに大きいやつと組むのは慣れてるけどな、逆に自分より小せェやつとはやり慣れてねえんだよ」

ふむ、とシャルが私とノブナガを見比べる。なるほど、身長180p以上のノブナガと女性の平均身長ほどの私とじゃ体格の差は歴然としている。さらにウボォーなんかと比べられた日にはたまったものじゃない。

「今日は少数精鋭だからなるべくリスクは減らしておきたいよね」

もしも私とノブナガがうまく運べなくて、それが響いてシャルに万が一の事があったらいやだ。私がつぶやくとクロロがうなずいた。

「そうだな。ノブナガ、お前はフィンと組め。フィンがこの中で一番大きいだろう。名前は俺とだ」

「ああ、わかった」

「え?」

てっきりクロロがノブナガと組むのかと思っていた私は間の抜けた声を出してノブナガとシャルの注目の的になる。

「何か問題があるのか?」

クロロも私を見る。

「あ、えーっと…」

クロロは何考えてるのかわからなくて苦手なんだよね。会話も成立しなさそうだし。正直ふたりになるのは気まずい。だから組みたくないなあ!…まさかそんなことが言えるはずもない。

「いや、なんでもない。気にしないで」

「言えよ、気になんだろうが」

運ばれてきたコーヒーを受け取りながら、ノブナガが私を見た。なんでつっこむかな。流してくれればいいのに。私は半ばやけになって早口で言う。

「…今まで団長と組んだことないからちょっとやりづらいなあと思っただけ」

「なんだそりゃ。お前は俺ともフィンともふたりじゃ組んだことねえだろ」

「あー、そういえばそうかな」

言われてみれば、私はノブナガともフィンクスとも組んだことはなかった。

「それにお前、団長とはよく組んでたじゃねェか、前は」

「…え、なにそれ、何の話?」

前って、ノブナガは一体いつのことを言ってるんだろう。結成当時か流星街時代か。そんな記憶は見当たらない。

「だから、お前と団長は、俺とウボォーみてェなもんだっただろって言ってんだよ」

「……そんなことあったかな?」

首を傾げながら、私は思わずふきだす。ノブナガとウボォーみたいな関係っていうと、相棒って言葉がふさわしいのかな。よりによって私とクロロが?まさか。私は眼を合わせるのだってしんどいのに。

「そうだったろうがよ。何すっとぼけてんだ」

ノブナガの声は低くなり、苛立ちを含みはじめた。

「冗談でしょ?」

「はあァ?ふざけてんのか。おい、団長も何か言ってやれよ」

ノブナガは眉間に皺を寄せながら、隣に座るクロロをにらんだ。クロロは顔色ひとつ変えない。

「どっちでもいい。そのへんにしておけ」

「ふざけてない。私そんな覚えないよ。クロロはほとんど単独行動だし、ノブナガの記憶違いじゃないの」

「だから"前は"って言ってんだろうが!」

ノブナガは怒鳴りながらテーブルを叩いた。衝撃でカップやグラスが飛び上がり、私たちはいっせいにそれを手で制した。ノブナガのコーヒーグラスだけが倒れてこぼれる。テーブルの下まで滴り落ちて、白い木造りの床に茶黒くコーヒーがしみていく。

「ノブナガ」

諌めるように、クロロの声は低く冷えて響いた。空気がぴんと張り詰める。ウェイトレスのお姉さんがやってきてテーブルを拭いてくれた。ふいにクロロと視線が合う。黒い瞳は怖くなるほどにしんと静かで、やっぱり何を考えているのか読み取れない。

20160221

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