どうしてだろう。窓際の一人席にすわる秀一くんの背中は遠くからでもすぐに見つけることができた。
私は参考書片手にいそがしく手を動かす生徒の群れの間を通りすぎながら窓際めざして歩き出す。窓に下がるブラインドとブラインドの間から夕方の日が射し込んでいて、ようやく最近見慣れてきた背中や髪の輪郭は、あたたかなオレンジ色に光っていた。まぶしさに思わず眼を細める。声をかけるよりも先に秀一くんが振り返った。
「お待たせ」
「いや」
短く答えて文庫本を閉じながら立ちあがるうしろ姿を見つめながら、ふと私は意識的に呼吸をした。自分が受験生だからそう感じるのか、センター試験を間近にひかえた校内では、どこにいても息の詰まるような空気が張りつめている気がした。どこだここ、と言いたくなる。
図書館の外に出ると、グラウンドから飛んでくる運動部の活動音が耳に戻ってきた。吹き抜けの校舎の最上階からとぎれとぎれに降ってくる吹奏楽部の練習音がそれにまざる。放課後特有の活動音は、どこか現実味のない響きを持って耳の横を通り過ぎ、しんと冷えた廊下に吸い込まれて消えていく。サッカー部のユニフォームを着た生徒がシューズを抱え、小走りで前を通りすぎていく。少し前までは自分もそっち側だったと思い出す。部活動のために、委員会のために、明日もあさってもその次の日も学校に来ることを許されて放課後を過ごしていた。この校舎は自分達のためにあるのだと、疑うことなく通い、留まり、下校し、登校した。三年生になったというだけでどうして自分達はとたんにつまらなくなってしまうのだろう。朝は自分の机でただ参考書を広げ、昼は時間にせっつかれるようにしてご飯を喉に押し込む。友達との会話も淡泊になった。それでも頑張らなくちゃいけない。進むために。だけど今大事にしているものは全部ここにあるのに、なんで別のところへ行かなきゃいけないんだろう。離ればなれになるってわかっていて、どうして。私はまだ居心地のいいここにうずくまっていたい。どこにも行きたくない。三年生の誰もかれもがバイブルかのようにのぞきこんでいる参考書を片っ端から破ってごみ箱へ捨ててしまいたい。
ひとりだけこんな未練がましさを抱えているのかと思うと、置いてきぼりをくらったようなやるせなさが込み上げた。
「眉間にしわよってるよ」
秀一くんが息を吐きながら笑って言った。
「…うそ」
前髪を見上げるように視線を動かしてみてから馬鹿なことをしていると気づく。自分の眉間を自分で見られるはずがないのに。
「どうかした?」
「…急に受験も卒業もいやになった。…もともとずっといやだったけどね」
秀一くんの眼が探るように私の表情を見ていた。
「参考書の中に解けない問題でもあった?」
「…そんなのばっかりだよ。君には無縁の話だろうけど」
「つっかかるなあ」
「……ごめん」
相手がやさしいのをいいことに甘えていた。気がついて私はうなだれる。自分で自分にあきれて、自己否定することにも疲れる。廊下のタイルがいつもより光って見えた。
「解けなかったところ帰ってから一緒にやろう」
助け船を出すように彼はもちかける。上履きがタイルにこすれてきゅっと音を立てた。
「教えてくれるの」
「もちろん」
「お兄ちゃん愛してる」
「はいはい」
校内の活動音が遠ざかる。規則的に建ち並ぶ下駄箱は、昇降口から射し込む西日で図形のような影をいくつも作っていた。そこには誰からも忘れられたような静けさがあった。私は右から二番目の下駄箱の左側へ、秀一くんはその右側へわかれて進む。ちょうど下駄箱の一列を挟むようにして秀一くんと私は上ばきを履き替える。ローファーが床に落ちる、かわいた音が響く。楽しい夢を見た朝みたいに現実味がなかった。本当にそこに秀一くんがいるのか確認したくなるような不安を覚えた。
「ねえ」
「ん?」
高い壁のような下駄箱の向こうから聞こえてくる秀一くんの返事は、わざとらしいくらいやさしかった。声をかけてから話題を考えた。
「今日のご飯何にしよう」
今日は父と母が二人で出かけていて夜をまかされている。一緒に暮らし始めてからはずっと志保利さん、もとい母が朝昼晩と作っていたから料理を担当するのは久しぶりだった。
「ああ、畑中は料理よく作るの」
「わりと好き。元シングルファザーの娘ですから。料理歴は長いよ」
「それは心強いな」
昇降口を出るとまぶしい西日が視界を一瞬暗くした。雨上がり独特のしめったタイヤの音が通り過ぎていく。背後から秀一くんのローファーが近づいてきた。なんとはなしに足元の小石をつま先で蹴り飛ばす。小石が宙と地面とを行ったり来たりして、昼間の通り雨が作った水たまりに波紋ができた。避けようと思えば簡単な程度の水たまりなのに、乱暴に足を踏み入れた。水しぶきが跳ね上がって、いつの間にか前を歩いていた秀一くんがふりかえる。
「何してるんだ」
今度は彼の眉間にしわがよっている。私の靴下と秀一くんの制服のズボンのすそに跳ねた泥を見て奇妙な優越感を覚えた。
「お母さん、怒るかな」
「たぶん喜ぶよ」
「どうして」
「妙に聞こえるかもしれないけど、こういうこと、母は喜ぶんだ」
「…あ、そう」
「不満そうだね」
「不満だよ」
「母を好きになれない?」
「なれない」
「君はお父さんが好きなんだね」
「…自分でも子供っぽくて嫌になるけどまだ志保利さんをお母さんだとは思えない。これを秀一くんに言えただけでも私としては進歩」
「俺も同じさ、親父はちょっと憎い」
彼がそう言うと冗談に聞こえない。私がぎょっとしていると秀一くんは破顔して笑った。めずらしい表情を見たと思った。たぶん機嫌がいいんだ。
私が深刻に考えていることを、秀一くんは自分も同じだと言った。言ったくせに、たいした問題と思っていないらしいのが生意気に感じられて、私はなじるように言った。
「マザコン」
間髪入れず秀一くんは言った。
「ファザコン」
むっとしてにらみつけると秀一くんはやさしい横顔をしていた。それからふと私のほうを見た。家族に向かってなんて眼をするんだろう。まだ一緒に暮らし始めて二週間だというのに、なんのためらいもなく愛されていると信じてしまいそうだ。志保利さんが受け入れるものは、それが何であっても、彼も受け入れるのかもしれないと思った。
「シュウはいいなあ。志保利さんに簡単になついちゃってさ」
「俺にはいっこうになつく様子ないけど」
「…そういえばそうだね」
秀一くんと私は顔を見合わせてから同時につぶやいた。
「特に俺が君と話してるときなんか、面白くなさそうな顔をしてる」
「「……シスターコンプレクックス…?」」
「シュウに限って、まさか」
否定しながらも、自分の口元がゆるむのを感じる。
「うれしそうだね」
「…うれしい。すごく」
「ファザコンのうえにブラコンか。手に負えないな」
私が開き直って認めると秀一くんはまた笑った。面白がってるわけじゃなくて、きっと私を安心させるためのものなんだと思う。
父が再婚するにあたってはじめて彼を紹介された時には秀一くんはただの同級生だった。けれど話すほどにやさしい人だとわかる。そして秀一くんがやさしいのは志保利さんがやさしいからに他ならないと思う。それならば、私は遠からず志保利さんを好きになれるはず。
「夕飯、なにか食べたいものある?」
「得意料理は?」
「目玉焼き」
「それフライパンに落とすだけだろ」
「秀一くんは、料理は?」
「わりと好きだよ」
素直に言ってしまうと新しい家族ができるのは嫌だった。それに、卒業が近づいてくることが、参考書ばかり見る毎日が、たいくつで理不尽な気がしている。友達との別れがあることを消化できずにわだかまっている。狭い箱の中で共有してきた時間は、些細なようで、思い返すと大事なものになっていた。
隣を歩く同級生を見る。父の会社を継ぐ彼と、進学する私とでも行き先がはっきりと分かれる。だけど帰る場所は同じだ。
制服のポケットに手を入れると冷たくかたい鍵の先が指に触れた。ここに閉まっておいたのだと思い出して安心を覚える。
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