「ただいま」
「男?」

今日仕事で会ってきた相手、と付け足したシャルナークに名前はどうしたものかと思いながらも正直に答えた。

「男だよ」
「そう」

つぶやいたシャルナークの瞳がさびしげに揺れたのを、名前は見逃さなかった。けれど、名前が取りつくろおうと口を開く前にシャルナークは視線をはずしてパソコンに向き直ってしまう。明らかな拒絶を感じとった名前はくちびるを引き結ぶと、彼をリビングに残して自室へ向かった。いつものことだ。こういう時は何を言っても無駄だから、ただ待つしかない。何日でも。
けれど、意外にもシャルナークからのコンタクトは早かった。分厚いカーテンを閉めきったまま明かりをつけずに着替えていた名前は、ふいに後ろから抱きしめられた。よく知っているくちびるが首筋をすべる。一番にどんな言葉をかけるべきか逡巡した。

「…シャル、私は、」

言いかけてわずかに身体を揺らすと、耳に熱が注がれるようにしてシャルナークのささやきが届いた。

「名前、したい」

思わず顔をしかめる。したくないということじゃない。したい、したくない以前の問題だった。
ゆっくりとシャルナークに向き直ると、薄暗い部屋の中で彼の瞳はまるで親とはぐれた子どものように未ださびしげに光っていた。きっとまた何か正体のない不安にかられている。それを身体で埋めようとしている。名前にはそのことが問題だった。

「シャル、やめよう」
「どうして。他に男でもできた?」
「ちがうよ。そうじゃなくて」
「…もういいよ。うるさい。黙って」

悲しそうに眼を伏せた名前に、シャルナークは気づかないふりをしてくちづけながら、彼女の身体をベッドに沈めた。はじめてしまえば、あとはもう止まることを知らない。シャルナークにはまるで彼女の気持ちは考えられなかった。嫌がる名前を抑えこんで、鎖骨からつま先までくちびるでなぞって、全身にくまなくキスをする。服を着ても分かるところにまで痕をつけた。シーツに涙をこぼす名前を、シャルナークはかわいそうだとは思えなかった。むしろどこか冷酷に見下ろす自分がいた。



そうやって満たされたのはほんの一瞬で、あとは自分本位の性行為が残した罪悪感と自己嫌悪にシャルナークは押しつぶされそうになった。
何度くりかえしたら気がすむのだろう自分は。名前はいつだって自分が不安にならないように気づかってくれている。無理に事におよんだ自分の汚ささえも受け止めてくれる。まして彼女に他の男の影があるわけでもない。名前は何も悪くないのに。それなのにどうしていつまでも消えないのだろうこの不安は。疑ってみることでしか平静を保てないのは、彼女を支配することでしか満たされないのは、どうして。こんなにも自分を大事にしてくれている名前を自分は大事にしてやれない。何がいけないだろう。いつもいつも、どこから間違えてしまうだろう…。
やがてひとつの答えにたどり着く。自分。きっと自分だ。普通じゃない。どう考えたって自分が名前を傷つけて苦しめて駄目にする。自分、自分さえいなければ。

ベッドのふちに座ってうなだれたまま動かなくなったシャルナークの背中を、名前は毛布の中から見つめた。

「大丈夫だよ。私はシャルを好きだよ」

返事はなかった。殻に閉じこもったシャルナークには何も聞こえていなかった。名前はそっと手を伸ばしてそのさびしい背中に触れる。

「シャル、好き」
「…ああ、……うん俺も」

泣きそうな声が返ってくる。
でもたぶんシャルナークはこれを待っていたのだ。だから名前はやめない。

「大丈夫だよ」
「……何が」
「私にはシャルしかいないよ」
「今はね」
「これからもずっと」
「…そんなふたしかな言葉、」
「信じられない?」
「むりむり」
「本気だよ」
「あーハイハイ信じる信じた」
「てきとうすぎる」
「ごめんねー」

ようやく振り向いたわざとらしい甘やかな笑顔。泣いてはいなかった。シャルナークは毛布の中に戻ってくると、理想の恋人らしく名前を抱きしめた。また仮面をつけたなと名前は腕の中で思う。同時に、帰ってきたな、とも。

「私が嘘をついてると思うの?」
「思わないよ。名前が俺に嘘をついたことなんて一度もない」
「じゃあ、」

シャルナークは強い口調で「でも、」と言った。彼の腕に力がこもり、名前はシャルナークの表情が見えなくなる。

「でも先のことはわからないだろ誰にも」

苦しみをしぼり出すような声が名前の耳元でした。
それが不安なの?口に出しては聞かなかった。本音を暴かれることをシャルナークはとても怖がるのだ。

「先のことがわからないから信じられないの?」
「…意気地なしだって笑う?」
「笑ったりしない。だから隠さなくてもいいよ」
「何を?」
「シャルの弱いところ」
「弱いところ?どこかな。名前の弱いところなら身体のすみまで知ってるけど」
「はぐらかさないでよ。…馬鹿みたい。わかってるくせに」

シャルナークには、名前の言いたいことが苦しいほどよくわかった。いつも弱い部分を隠そうと、自分は笑えるくらい必死だ。不安もさびしさも本音はみんな笑顔でとりつくろった。本当は汚くて臆病な自分を、誰かに、とりわけ名前に、知られて嫌われるのが怖かった。だからどんなにやさしくされても無理だ、とシャルナークは思う。

「馬鹿だからわからないよ。…ごめんね?」

軽薄にあやまるシャルナークの笑顔を、名前は黙って見つめた。そんな笑顔、本当はもう見たくもないのだ。
ひとりで不安に押しつぶされそうになるくらいならその前に吐き出して欲しい。怖いものがあるならごまかさないで怖いと言って欲しい。他の誰に言えなくても、せめて自分の前では。

「……あのさ、名前、もし俺よりも誰か他に、」
「誰かなんていない」

切り捨てるように名前は言った。

「シャル、今私のこと投げだそうとしたでしょ」

黙り込んだシャルナークに名前は自分でも止めようがない怒りがこみ上げてくるのを感じた。

「他に誰かいるならそっちにいっていいよ、とか言おうとしたでしょう」
「……そう、だね」
「いいかげんにして」

シャルナークは苦しいくせに、そういう時ほど自分の気持ちをはぐらかしたがった。だから名前はいつでもシャルナークが会話の中にごまかしてしまおうとしているものを敏感に拾いとろうとした。そうすれば彼が自分の中に押し込めてしまった不安をほどいてあげられるから。だけど、どれだけ理解しようと尽くしても投げ出されたら意味がない。終わりにしようと言われたらどうにもならない。だからこそ名前は怒った。

「他の誰かなんていない。シャルが不安になることなんて何もないんだよ。今までもこれからも私には、シャルしかいないのに」
「……わからないだろ、そんなこと。もし俺が他の誰かを好きになったらどうするの。それでもずっと俺しかいない?俺はもう名前を好きじゃないのに、名前はずっと俺しかいないって思うの?そんなの馬鹿げてる」
「馬鹿げてない。そう言って欲しいんだよね?なんで試したがるかな。そもそもシャルにだって私しかいないよ。今までもこれからも」
「よく決めつけられるね」
「決めたんじゃないよ。ただ知ってるだけ」

あまりにも大胆に言い切る名前に、シャルナークはしばらくの間呆然と眼を見開いていた。
名前にはシャルナークだけがいればいい。シャルナークも名前しかいらないと思ってる。今までもこれからも。名前はそれを確信していると言う。

「こんなに複雑で厄介な人を、私以外の誰が理解できると思うの。シャルには私じゃなきゃ駄目だよ」

そうなのだ。シャルナークは名前でなければいけなかった。他の誰かを好きになったと言われても、それでも名前しかいないと思うのは、馬鹿げているのは自分の方なのだ。そんなことは自分が一番よくわかっている。だからこそ名前を傷つけてまでみっともなくすがりつくんじゃないか。

「そうだよ。俺は名前じゃなきゃ駄目だよ。でも名前は、」

(俺でなくてもいいじゃないか。)
「シャルは、」と名前はさえぎった。

「シャルは信じられないって言うけど、もしも私に他の誰かが、シャル以上の人がいるなら、私はとっくにここにいないよ。だって悪いけど、最近のシャルって本当に面倒臭いもの。私の話を全然聞かないし、そのくせひとりよがりに不安がってばかりいて、でも何も言ってくれないし、疑っては落ち込むし、痛くするし、もう最低」

容赦のない駄目出しにシャルナークは面喰らってまばたきを忘れる。

「…でも、どんなに面倒臭くても私だってシャルじゃなきゃ駄目だから、どこまでだって付き合うよ。ずっと、…そうだな、死ぬまで」

呆然としていたシャルナークは、やがて何かがふっきれたように笑い出した。

「なんだよそれ、ほとんどプロポーズじゃん」
「え?あ、」

今度は名前があっけにとられて眼をまたたかせる。その間もシャルナークは笑いつづける。ひとしきり笑ったあとで、深くため息をついて、それから何かをあきらめたように笑った。

「俺は変われないよ。きっとまたくりかえす」
「それでもいいよ。大丈夫だよ。好きだよ」

迷子になった子どもを導くようにやさしくやさしく耳にささやく名前に、シャルナークは眉を寄せて悲しく笑った。そして名前に背中を向ける。

「早く愛想尽かしてどっか行けよ。明日にでも」
「明日?そんなすぐには無理だよ」
「じゃあ明後日」
「明後日も無理。私そんなに切り替え早くないの」
「一週間」
「早い早い」
「一年?」
「そんなすぐには愛想尽かせないよ」
「十年待ったら愛想尽きる?」
「どうかな、難しいよ」
「じゃあ俺はいつまで待てばいいの」
「さあ?一生待ちぼうけかな」
「なんなんだよ、もう。勝手にしなよ」
「うん。勝手にずっとそばにいる」

シャルナークは観念したように振り向いた。名前の本気の目と目が合って、シャルナークは仕方ない、と思う。彼女がまだそばにいてくれると言うならやはり離したくない。いや、離れたいと言われてもできないかもしれない。彼女のためにはさっさとこんな自分に愛想尽かして立ち去ることを願いながら、それでもそんなのはやはり絵空事にすぎない。自分に彼女を見送ることなどできるはずがない。シャルナークはそうと知ってなお名前にくちづけた。

「それにしたって、プロポーズまできめるなんてたくましすぎるよ、名前は」
「…シャルこそ私に愛想が尽きたんじゃない?」
「いや、惚れ直したよ」

彼のその笑顔から、今だけはいっさいの不安が消えてなくなっているのを見てとった名前は、やがてくだけるように笑った。
end
title:虫の息
20160421
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