私が初めて祖父に会ったのは湿気が肌にからみつく、うっとおしい雨の日の午後だった。
その頃私はもう七歳になるのに、夜になるとまだひとりじゃトイレに行けないような甘えた子供だった。だからある日両親が事故で亡くなってしまって、悲しくて寂しくて随分ふさぎ込んで親戚を困らせた。やって来た親戚達は私を引き取る話や家を売り払う話をしたけれど、私は何が何でも家を離れたくなかった。かわるがわる説き伏せに来た彼らはひと月も経つと皆あきれて誰も来なくなった。今思うとその誰もが本当に私を引き取りたいとは思っていなかった。私は両親が残したものの付属品だった。

久しぶりに玄関のチャイムが鳴った。その日は朝から小雨が降っていて両親が死んだ日を思い出させた。私は相変わらずいつまでも泣いていた。チャイムは立て続けに何度も鳴って、それでも無視を決め込んでいたらやがて鳴り止んだ。
そして縁側に座り込んで鼻をすすっていた私にぬっと巨大な影が差した。

「なんじゃ、おるくせに無視しよって」

どこから入って来たのか、見たこともない初老の男が目の前の庭に立っていた。

「……」

「わしはネテロ=アイザック、お前の祖父じゃ。お前が名前=アイザックで間違いなければの」

「………」

「返事くらいせい」

「…名前=アイザック…です」

「そうかそうか。お前聞くところによると家から離れようとしないらしいの」

「……みんな、売り払おうとするから。ここにはパパとママのものがたくさん残ってるのに」

「そりゃ当たり前じゃろ」

祖父と名乗ったその男は真面目な顔でそう言った。

「もうお前はここに住めん。ひとり暮らしできる年じゃないからの。残しておいても一文にもならん。となれば売ろうとするのは当然じゃろ」

言っている内容はこれまでやって来た親戚達となんら変わらないはずなのに、その言葉は私の真ん中にすとんと入ってきた。私は彼を信用した。
それでも家に執着する私に向かって、彼は明日の天気でもたずねるようにどうでもよさそうに言った。

「お前わしの家に来んか」

私は黙っていた。まだこの家に居たいと思った。

「この家が好きか?」

うなずく。

「家族が恋しいか?」

うなずく。男はぼりぼりと頭をかいた。

「難儀じゃの。ここにはもう誰も帰って来んぞ」

「誰も帰って来ない」。その言葉に私はまためそめそと泣き出した。

「そうしてても何も始まらんじゃろ」

彼は片耳に小指を突っ込みながらそう言ったかと思うと次の瞬間私の服の襟首をつかんで縁側から引きずり出した。あっという間に肩にかつがれて、悲鳴だか罵声だか私はとにかく叫びながら必死に抵抗した。よく覚えてはいないけどたぶん「くそジジイ、はなせよ」そんな内容のことをわめいたのだ。

「そうじゃ、わしゃお前のジジイだ。祖父が孫を連れてって何が悪い」

私はひたすら何事か叫びながら抵抗を続けた。彼の背中を叩いて足を振り回して暴れた。彼はびくともしなかった。

「わしと暮らせば何が良くなるなんて約束はできんがの、それなりに楽しいこともあるじゃろ」

その時かいだせき込みたくなる煙草の匂いをまだ覚えている。


***
「もーっ!いいかげんにしろよクソシジイ!」

縁側で書類に目を通していた祖父は老眼鏡の下からこっちを見上げた。

「何じゃクソ孫」

「くつ下!脱いだら洗濯機に入れろって言ってんだろ。そこらに脱ぎ散らかすんじゃねえよ」

仁王立ちで文句をまくしたてると彼はうんざりしたようにまぶたを下げて眉を寄せた。

「また説教かい。まるで小姑じゃなお前は」

「小言が嫌なら脱いだものは洗濯機!」

すると彼は子供のように口をとがらせた。

「…それまだ三日目じゃもん」

なにが「じゃもん」だ。全然可愛くないんだよ。それに何でまだ四日目いけるみたいな口ぶりなんだ。
半ばあきれながら縁側に散らかっているくつ下をつまみあげた。とたんに鼻をつく恐ろしい異臭。

「うわ、くっさあ!」

思わず鼻を押さえながら、持ち主に向かって放り投げる。書類に目を戻したままの彼は二足とも造作なく片手でキャッチした。

「やれやれ乱暴じゃの」

「それさあ、人を殺せるから」

直後ようやく強烈な臭いに気づいたか、さすがの彼も「ゲ」と言う顔をしてそのくつ下を庭の洗濯機に向かって放り投げた。ちょうどその前を通りかかったビーンズさんが洗濯機を開けたので見事に中へ入った。その器用な芸当を褒めたらいいのか、ものぐさを叱ったらいいのか悩ましいところだ。
初めて会ってほとんど拉致されるような形で一緒に暮らし始めてもう十五年が過ぎた。毎日がいいことだらけとはいかないけれどジジイの言った通りそれなりに楽しい日々を送っている。内心彼には頭が上がらない。


「ねーねーところでお腹すいたんじゃけど」

「…ピーマンの肉詰めできてるよ」

夕飯のメニューを教えると彼は露骨にいやそうな表情を浮かべた。

「えー、わしピーマン嫌い」

「仕方ないじゃん、近所のおばちゃんがおすそわけしてくれたんだから」

「とんだおすそわけじゃの。おーヤダヤダ」

「……てめえの肉を詰めてやろうか」

脅迫めいた私の言葉に、彼はさも愉快そうに声をあげて笑った。私も馬鹿みたいに大げさに笑う。なごやかな空気。そして、同時にぴたりと笑うのをやめた。次の瞬間どちらのものともつかない殺気がみなぎる。祖父は私の胸ぐらをつかみ、私は彼のヒゲをつかんだ。

「かかってこい小娘」

「無理すんなよご老人」

一触即発のにらみあい。

「やーめーてーくーだーさい!おふたりとも!」

さえぎるように、眼前に割って入ってきた手の平。ビーンズさんがあわてた様子で止めに来たのだ。

「会長、せっかく名前さんが作ってくださったんだから冷めないうちにいただきましょうよ」

ビーンズさんの言葉に祖父はあっさり殺気をおさめて私の胸ぐらから手を離した。ほぼ同時に私も手を離す。

「なに、冗談じゃよ」

彼はもう鼻歌まじりにひげを撫でて、それからテーブルについた。私とビーンズさんも続いて席につく。
祖父の悪ふざけ。それに乗っかる私、止めに入るビーンズさん。いつものことだ。

「いたーだきーます」

「…いただきます」

「私までご馳走になってすみません」

そうことわってビーンズさんは遠慮がちに箸をつける。

「名前さんは本当に料理がお上手ですね」

「うれしいな。そんなこと言ってくれるのはビーンズさんだけです」

すると私だけに聞こえるように声をひそめて、「言わないだけで会長も本当はそう思ってるんですよ」と笑った。いい人だなあ。ジジイの秘書にはもったいない。
私が感動して微笑む横で何やら奇妙な行動をしている奴がいた。

「…おいジジイ、なに肉だけ食べようとしてんだよ」

ちょっと目を離すとすぐこれだ。見ると彼は肉詰めのピーマンを綺麗にはいで肉だけ食べようとしていた。なんという無駄な器用さ。人類にこれほど不要な技術が果たしてあるだろうか。

「その年になってまで本気で好ききらいするか普通。ちゃんとピーマンも食べなさい」

「会長…」

ビーンズさんも何だか切ない目をしてジジイを見てる。

「口やかましいのう、まったくお前は…」

彼はヒゲの先をひっぱりながら、もう片手で酒の瓶を御膳に出した。誰のせいだと思ってんだ。

「おまけに言葉使いも悪い。そんなんじゃあいい男がつかまらんぞ〜」

いい男。そういう話をジジイにされるのは苦手だった。

「うるさいなー!もー!」

照れて声を荒げた私に二人が目を見張る。

「…なんじゃ赤くなりおって。お前はいくつになってもそのくせが直らんのう」

青臭い青臭い、とつぶやいて祖父は自ら杯に酒を注いだ。横目で私を見て笑う。ハクがある笑みだった。格の違いを感じて無性に悔しくなる。

「ガキあつかいすんな!」

「名前さんはもう成人されてますよね」

「そうなんです。もう立派な大人なのに」

不満を込めてにらみつけるとジジイは短く声をあげて笑った。

「一生ガキなんじゃよお前は。わしにとっちゃ、いくつになってもな」

そうして杯をチン、と軽く私のコップにぶつけてからひといきにあおった。

いい年こいてピーマンを毛嫌いする子どものような老人のくせに、だけどちっとも勝てる気がしなかった。おそらく誰にも倒せない無敵のジジイ。不本意ながら私はそう信じていた。悔しいな、いつかぶっ倒してやろう。そう思った。

「何じゃ文句か?言ってみろ、可愛いクソ孫よ」

しわの多い手にぐしゃぐしゃ頭をかき回されながら、ふざけんな今に見てろ、とその時の私は確かに意気込んだのだ。


***
それからまた五年ほどが過ぎた今、毎年ジジイの命日には花と酒とピーマンを供えに行く。どこかで彼が苦い顔しているのを想像しては、ざまあみろと少し笑いながら。
end.
20150708
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