家に帰りつくなり真っ先にベッドへ倒れ込んだ。淡いブルーのクッションに顔を押しつけて大げさに長い息を吐く。仕事から帰って横になるベッドはどうしてこんなに気持ちいいんだろう。
解放感に浸りながら横を向くと、すぐわきのサイドテーブルに置いた銀の箱が目についた。中にはおととい買ったばかりの香水が入っている。馬鹿に高かったブランド物の香水。
ベッドから身体を起こし、箱を開けて中身を取り出す。銀のふたとガラスのボディでできた、おうとつの少ない四角柱の瓶。眼前に近づけると、透きとおったライトグリーンの液体がガラスの向こうででゆらゆらと波立つ。ふたを外して人差し指で空気の中に吹きかけた。顔を近づけると、甘く涼しい気高さのある香りが鼻先をかすめた。思わず深く吸いこむ。夜ごと包まれていた腕の中や呼吸音、心臓のリズムやかたい胸の記憶が一気によみがえる。

はっと我に返ると恥ずかしさがこみ上げてきた。何をやってるんだろう。いくら数ヶ月会えてないからといって、これじゃ変態みたいだ。
その瓶を持ったままもう一度ベッドへ寝転がった。誰かのせいで、ひとりきりで眠るには広いと思うようになってしまったセミダブルのベッド。

クッションを抱きしめて、しばらく眠りにつくかつかないかの間を心地よくさまよっていた。寝返りを打った時、部屋の窓がコツコツと鳴った。毎晩あきるほど聞いていた中指の骨がガラスを叩く硬質な音。あわてて振り返ると閉めきっていた窓が開かれた。

「不用心だな。鍵くらい閉めておけ」

風にはためくカーテンをめくって現れたのは、確かにクロロその人だった。
予想外のことにぼうぜんとする私。

「…え、…なんで」

その私を見たクロロもまた意外そうな顔をする。

「今日行くと連絡しなかったか?」

「…してないよ…」

されてたら、今日会えるなんて分かってたらこんなに思い悩んだりしなかった。

「連絡も何も、ヨークシンで鎖野郎に捕まったきり音沙汰なかったじゃない。除念が終わったことだってシャルから聞かなきゃ知らなかった」

「そうか」

そうか?……なんだそれ。

「…それだけ?」

離れている間、私がクロロを思っていたほどにはクロロは私を思っていなかった。それを感じさせる一言だった。無性に苛立った。
彼は彼といない時の私なんてどうでもいいのだ。でなければ連絡したかどうかさえ忘れるなんてことはありえない。駄目だ。嫌な言葉が喉の奥からせり上がってくる。

「…クロロっていつもそう。大切なことなのに連絡をくれない。除念が終わるまでの間だって、ヒソカとの条件のことだってどれだけ心配してたと思って……」

長い前髪の下から黒い両眼がじっとこっちをのぞいている。

「しつこく何度も好きだって言うけどそれと同じくらい私にまったく関心がないんだよ。…何を考えてるのかわからない……」

感情の見えない黒い瞳。何を言っても何も伝わらない気がして私は口を閉ざした。

「……いい、もう…」

黙って聞いていたクロロが口を開いた。

「お前は何に怒ってるんだ?」

どうしても苛立って仕方ない。クロロの言動と思考は蜘蛛のためには緻密に精確に働くくせに、私のことに関してはすべておざなりに適当にしかされていない気がしてやりきれない。

「連絡をしなかったからか?ちがうな。それともー」

「………」

そうじゃない。
好きだ好きだと言われてきた割にその言葉のどれくらいも思われている実感が持てない。軽んじられているとしか思えない。

「…名前?」

私は眼をそらした。黒い両眼が追いかけてくる。

「クロロにとって私はいてもいなくても同じなんだよ…!」

「どうしてそう思う?俺の気持ちは前に」

「そんなの信じてないっ!」

「名前、俺の眼を見…」

「いやっ触らないで!」

腕に触れようとしたクロロの手を思い切り振り払った。息がきれる。

「……」

「………」

「…以前は俺のことを疎んでいただろう。俺がいなくなっても平気とばかり思っていたが……違うのか?」

突き刺さるような視線を感じる。クロロの顔を見れなかった。

「……違わない。平気だよ。…クロロがいない方がよく眠れるもの」

どうして本当じゃないことを言わなきゃならないの。もういやだ。クロロなんていやだ。

「…もういや。…帰って」

「名前、話を、」

「いやだ!帰ってよ!」

クロロの手を振り払うのは二度目だった。彼は黙って私から距離をとった。

「…わかった。突然来てすまなかった」

そしてあっさりと非を認めた。以前はいつも、何度私が帰れと言ってもまるで聞く耳を持たなかったくせに、今日に限って聞き分けよく出て行く。
もういやだ。こんなふうに感情をかき乱されるのは。二度と会いたくない。蜘蛛から抜けてこの家も引っ越そう。あの男との接点はいっさい絶って、もう一度ひとりになるんだ。
そう思った後つま先に何かぶつかって、見ると手の中にあったはずの香水の瓶が落ちていた。絨毯の上に転がって、割れこそしなかったものの鈍い音が響く。手がふるえていることに気がついた。
振り向いたクロロと私の視線がほとんど同じタイミングで絨毯に転がったそれに止まった。
顔に熱が集まってくる。最悪だ。よりによって本人にこれを見られるなんて。
私もクロロも何も言わなかった。
視線を上げ、沈黙を破って先に口をきいたのはクロロだった。

「さびしかったのか」

たずねているようでもあったし何かが腑に落ちたというようでもあった。聞いた瞬間、彼をひっぱたいてやりたいと思った。大切に隠していた物をあばかれた気がして。どうにかその気持ちをこらえて絨毯へかがんだ。瓶を拾って隠すようにクロロに背を向ける。恥ずかしさや苛立ちが入り乱れて何も答えられずうつむいた。

「こたえろ名前」

急かしているのでも脅しているのでもない、ただ確認するような響きだった。
私は絨毯の上で身じろぎせずに縮こまっていた。思考が徐々に冷静さを取り戻す。
クロロは本当に私のことがどうでもよければいちいち追究したりしないし、その足でどこへでも行きたいところへ行くだろう。ここにいるということは、つまりそういうことなのだ。彼は私の言葉を受け止めて私を理解しようとしている。
向き合おうとしていなかったのは私の方だった。整理のつかない感情をぶつけて、理不尽に、どうにもならない不満をぶちまけてクロロを困らせた。
それが分かってようやく彼の「さびしかったのか」という問いに、ぎこちなくうなずいた。
背後から近づいてくる足音がして、縮こまっていた私はさらに身を硬くした。

「ずっと放っておいて悪かった」

すぐそばからした声は思いのほかやさしくて、はげしく戸惑いながら一方で泣きたくなるような安心を覚えた。
振り向いて首を横にふった。

「…なさい」

「ん?」

「…ごめんなさい」

「…もういい」

クロロは目元をゆるませて笑っていた。

「俺の考えてることがわからないと言ったな」

うなずくとクロロは微笑んだままで息を吐いた。

「嬉しいと思った。お前が初めて俺に執着したから」

「…」

「俺も同じだ。言ってくれなければわからない。お前のことは特に。何を考えてるのか、何をしてほしいのか」

「…いてよ。ここに…」

聞こえるか聞こえないかの声で小さくつぶやいた。
ヨークシンへ行く前、いつも夜クロロが私の部屋に来るたび思っていた。朝がくればクロロはいなくなる。ずっとそれがかなしかった。さっきだって自分で帰れと言っておきながら本当は行かないでと叫んで引き止めたかった。
おそるおそる顔を上げれば正面から抱きしめられた。拾ったばかりの瓶をまた落とす。

「もう帰らなくていいんだな?」

視線を上げると意地悪い笑みが見下ろしていた。少しにらんで胸を小突く。それから黙ってうなずくと、クロロはまるで私の存在を自分のものにするように、かたく腕で閉じ込めた。

「うんざりするほど傍にいてやる」

返事の代わりに広い背中へ手を回す。
熱い胸に頬を寄せ、窒息しそうな狭い腕の中でゆっくりと眼を閉じた。深く呼吸すると、まぶたの奥でライトグリーンの海がゆらゆらと波立つ。甘く涼しい、気高さのあるその香りと同じ、クロロのにおいに包まれている。
end.
20150701
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