「おはようございます、比呂士さん」
「おはよう、ございます…。あの、今何時ですか」
彼の体を揺すりながら起こす。
彼は完全には覚醒していないようでその目は虚ろだ。
「いつも通りに支度をなさって仕事にギリギリ間に合う時間です」
「…なんでもっと早く起こしてくれなかったんですか!?」
私の言葉が衝撃的だったのか、彼は一気に跳ね起きた。
「私は何度も起こしに来ましたよ。比呂士さんが起きなかっただけです」
「…着替えるので外に出て頂いてもよろしいでしょうか」
「かしこまりました。では私は朝食の準備をして参ります」
彼は軽くうなだれていた。
柳生家に仕え始めてから約1ヵ月。
私はようやく柳生家に馴染めてきた。
先程のように彼と漫才じみたやり取りをできるほどに。
馴れない名前呼びにも徐々になれてきた。
ただ、彼がたまに口にする『美しい』だの、『可愛らしい』などには未だ馴れない。
あの風貌と違って意外と女たらしなのだろうか、と思ったがそれは違うようだ。
他の使用人曰く私は彼に『気に入られた』らしい。
彼は一見物腰が柔らかく誰とでも交友関係を持ちそうに見えるが、実のところは他人をあまり好かず、付き合う人間も選ぶという。
これは人間なら誰もがすることだが彼はそれがかなり極端らしい。
そのせいか、使用人たちは彼に『気に入られた』私を物珍しそうに見る。
すこし、恥ずかしい。
―――――
――――――――――
「彩月…」
その日の夜、私は彼の部屋に呼ばれた。
呼ばれたついでに紅茶を持っていく。
これは私が柳生家にきてからほぼ毎日続いている習慣だ。
彼はその日にあったことを話す。
私も秘書と名乗って護衛するためにそばにいるのだから大抵知っていることばかりだ。
だが、今日は少し違った。
「比呂士、さん…?」
私が机の上に紅茶を置くと彼は私を抱き締めた。
「彩月…」
「はい…?――っん!!」
いきなり、視界が真っ暗になった。
そして唇にあたたかく、柔らかい感触。
一瞬、思考が停止する。
私は、何をされている?
彼は、何をしている?
私は、彼に、口付けをされて、いる―――?
私は今の状態を理解すると、彼を引き離し、思いっきり彼の頬を引っ叩いた。
彼は無表情で私を見る。
その瞳は何処か悲しげだった。
私はそんな彼に無性に苛立ちを感じた。
「いきなり、何をするのですか…!!」
「………」
堰が、切れる。
「私は、貴方の性欲処理の道具になるために雇われたんじゃない」
なんで止まらない。
いつもなら感情なんか押さえられた。
いや、そもそもこんな感情はなかった。
「貴方には、連れ添うべき女性が、現れます」
悔しくて、悲しくて、涙が溢れる。
「それは、私じゃない…!!」
「私で、遊ばないでください!!」
思いっきり悲鳴のように叫ぶ。
すると今まで沈黙を守っていた彼が口を開いた。
「本当にそう思っているのですか?」
「っ…!!」
地を這うような彼の声。
その背後には怒りのオーラのようなものを纏っているように見えて、思わず肩をすくめる。
「本当に私が貴方で遊んでいたと…?」
今までいくつもの修羅場を乗り越えてきた私にとって一般人の怒りなどへでもないはずだ。
それなのに、彼が、怖い。
「私は貴方で遊んだつもりはない…」
初めて出会ったときのように私の頬に片手を伸ばす。
私がびくっと体を強張らせると彼は悲しそうに眉をひそめた。
「私は、貴方が美しいと思ったから、貴方の笑う姿が可愛らしいと思ったから、それを口にしただけです」
彼の手はそのまま私の頬を撫でる。
私はすうっと涙が引いていくのを感じた。
「それの、何がいけない!!」
彼は怒ったように叫ぶ。
わかった。
彼が惹かれているのは作り物の私。
彼の使用人としての私だ。
当たり前だ。
私は彼の前で本性を晒したことはない。
そう自覚するとすこし、胸が痛んだ。
彼が惹かれているのは、私じゃない。
何故、胸が痛む?
―――ああ、そうか
私は彼が好きなんだ。
きっと出会ったときから。
「ねえ、彩月…」
なにも返答しないで黙っていた私に彼は泣きそうになっていた。
「………だから」
「え…?」
「私があなたに見せていたのは偽物だから。使用人としての私だから…!!」
そう言うともういたたまれなくなって私は彼の部屋を飛び出した。
「彩月!!」
彼は私の名を呼んだが、追いかけることはしなかった。
それは偽物だから
(貴方が惹かれているのは私じゃないから)
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