教室に戻ると、担任の教師からも何らかの話をされた。大半は聞いていなかったが、これから一年よろしくなんてことを言っていたような気がする。
 もう、教師の話を聞いている場合ではないので。

「じゃあ、今日はこれくらいにしとくか。みんな、気をつけて帰れよー」

 ……!

 その言葉が聞こえた時、わたしの視界にぎりぎり映っていた例の少年がこちらを向こうとしていたのが見えた。話しかけてくる気だよあの人。

 わたしはというと、全力に近いスピードを出しつつ静かに鞄をとり、静かに席を立った。もちろん、彼はそれを見ているのだから、慌ててこっちに向かって歩いてきた。

 ああもう、やめてください本当に!

 それを見たわたしも静かに素早く教室の扉を目指した。廊下に出れば人がたくさんいるだろうが、人の合間を縫って歩くのは好きだから苦ではない。むしろ、こっちのものだ。

 そうこう考えるうちに、わたしは教室のうしろ側の扉に辿り着いた。開ける時間が少しかかるが、振り切れそうな予感……。

「ちょっと、どうして無視するんだよ?」

 ガシッ、と。
 わたしは彼に腕をつかまれていた。

 ヒュゴッ──!

「っ?!」

 ──人間の、自己防衛本能とでも呼ぶべきものはすごいと思う。わたしの場合は、ただの反射なのかもしれないけれど。

 教室の半数以上の生徒、というか全員かと思われる人数がわたしたちの方をしっかりと見ていた。

 そんな中で。

「あ」

 わたしは、不審者もとい少年を軽々と蹴り上げていた。

 ドサッ。
 ほんの一瞬だけ宙を舞った少年が、わたしのかたわらに倒れる。

 どうする、わたし。担任の教師だって、わたしを見ていた。どうする。
 今のわたしを見ていたやつらを殴って記憶を飛ばすにしても……人数があまりにも多すぎる。ごまかせない。

 いや、本当はごまかす必要はないのだけれど、場所が場所だ。これでは、さすがにまずいだろう。

 数秒の間にそんなことを考えていたら、不意に拍手がわいた。

「え……」

 教室をぐるりと見回してみたが、みんながみんな手をたたいている。なぜだ。まったく理解できない。わたしはクラスメートを蹴り上げた危険人物なのに。

「おお、すごいぞ、椎野(しいの)! 今度俺と戦ってくれ!」

「はい?」

 目を輝かせてそう言ったのは担任の教師の……ごめんなさい、名前聞いてませんでした。とりあえず、担任の教師だった。
 戦う? わたしと?

「あの、意味がわからないのですが」

「だからな、俺は趣味で武道やってるから……お前に相手をしてほしいってことだ」

 趣味で武道ですか?
 あの、あなたの担当教科何でしたっけ?

 喉まで出かかった言葉をぎりぎりのところで飲み込んでから、わたしは困った顔で教師を見た。彼は満面に笑みを浮かべている。
 困ったことになった。

 ここでわたしがノーと答えても、大した意味はないだろう。この教師が、イエスしか許さないと笑顔で言っているからだ。

 正直、気が進まない。
 けがをしてもいいのだろうか、生徒に負ける教師というのは格好悪いだろう。

 さて、困っ……。

「っと、オレのこと忘れないでよね……」

 ガシッ、と。
 わたしは彼に足をつかまれていた。

「ッ!」

 ヒュゴッ──!

 あれ、同じ展開ですかわたし? だが、人の自己防衛本能をなめてもらっては困る。

 先ほどと同じように宙を舞い、同じような音を立てて倒れる少年。気絶していなかったことには驚いた。懲りずにわたしをつかんできたことにも驚いた。

 一瞬の沈黙。

「椎野ー!」

 担任がわっと叫んだ。それは歓喜に近いような叫びだった。それに続いて拍手が浴びせられる。まわりからのそれは途切れることなく、わたしを包んでいた。こんな拍手の嵐の中心にいても、まったくうれしくはないのだけれども。

 入学式当日。
 きっとこの一年はついていないのだろうなと確信したわたしだった。

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