道路脇に停めていた自転車のスタンドを蹴り、葉山楓は曖昧な笑顔でわたしのほうを見る。
 彼は「さっきみたいな顔」とか言った。さっきというと、逃げ出そうとしたときのことなのだろうけれど、わたしはどんな顔をしていたのだろう……?

 腕に向かって伸ばされた手を避け、わたしは少し距離を取った。
 わからない。

「帰ろう」

 今度は手を差し出してきた葉山楓。彼は一体、何を見たのか。
 わたしですらわからない、わたしの顔。

「ほら、帰ろう」

 困惑していたわたしは油断と隙だらけだった。自転車を左手だけでバランス良く支えた葉山楓の右手に、軽く掴まえられた左手首。車輪が回って、手はぶらぶらと宙を踊る。
 振り払うという選択肢は留守のようで、わたしは自分の左手をまじまじと見ていた。

 師匠の手は指先まで手入れをされたように綺麗で、節はしっかりとしているのにどこか繊細だった。包み込むような手だった。
 それに対してわたしの手はふにゃふにゃと頼りなく思える。血管は見えるものの、骨張ってはいないし、それほど大きくもない。
 わたしの手首を掴まえた葉山楓の手は温かかった。

 父親、か。

「君の……」
「ん?」
「君のお父さんは……」
「父さん? そりゃもう本当に強いぜ。ことりでも多分、敵わないくらい。料理も口もうまくてさ、今ならそれがどれだけすごいのかわかるっていうか」

 父親を語る葉山楓の横顔はころころと表情を変えた。笑ったり、眉をしかめたり、びっくりしてみせたり。わたしはそんな顔をしたことなどないけれど、きっと、似たような気持ちなら抱いたことがある。

 わたしのお母さんだって、強いのだ。仕事も家事もこなして、子育てもして。
 しかし、わたしは、彼女が陰で涙ぐむことも知っている。強いばかりでないことに、気付いている。
 それが何からくるどんな感情なのかは計り知れない。それでも、湿った場所で泣くことが幸福を示すようには到底思えないのだ。
 だから、わたしは強くなる。

 父親という存在がなくとも。

「……でも、小さいときはそんなことわからなくて、どうしてどうしてって思うこともあったなあ」

 ぺらぺらとしゃべり続けていた葉山楓がふっとそんな言葉を落とした。見ればその顔は笑っていたのだけれども、それはとても固く。

 わたしは彼の右手からするりと抜け出した。

「え、あれっ。ことり、どこ行くんだよ?」
「学校に忘れ物したから取ってくる」
「ついてくよ!」
「君は先に帰っていて」

 忘れ物云々はもちろん嘘だ。不意に、彼のそばを離れたくなっただけ。

「う、うん、わかった。気を付けろよ。じゃあまた明日!」

 足早に帰路を引き返すわたしに向けて、そんな声が聞こえた。



 何故、と追求するつもりはない。
 わたしが彼のことを「知りたい」と思ったのは最近のことだったけれども、今は「知りたくない」ほうが強い理由。

 それすら、今は知りたくなかった。




 SIT:05 終

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